日蓮大聖人御書
ネット御書
(題目弥陀名号勝劣事)
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謗法の者にたぼらかされて年久くなりぬるが故に思はする処なり、先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべきか或る外道は大海を吸干し或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を現ず、阿難尊者猶魔と仏とを弁へず善導法然が通力いみじしというとも天魔外道には勝れず、其の上仏の最後の禁しめに通を本とすべからずと見えたり、次に善導法然は一切経並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑ひ是れ又謗法の人のためにはさもと思ひぬべし、然りといへども如来の滅後には先の人は多分賢きに似て後の人は大旨ははかなきに似たれども又先の世の人の世に賢き名を取りてはかなきも是あり、外典にも三皇五帝老子孔子の五経等を学びて賢き名を取れる人も後の人にくつがへされたる例是れ多きか、内典にも又かくの如し、仏法漢土に渡りて五百年の間は明匠国に充満せしかども光宅の法雲道場の慧観等には過ぎざりき、此等の人人は名を天下に流し智水を国中にそそぎしかども天台智者大師と申せし末の人彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば初には用ひず後には信用を加えし時始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり、日本国にも仏法渡りて二百余年の間は異義まちまちにして何れを正義とも知らざりし程に伝教大師と申す人に破られて前二百年の間の私義は破られしなり、其の時の人人も当時の人の申す様に争か前前の人は一切経並に法華経をば見ざるべき定めて様こそあるらめなんと申しあひたりしかども叶はず経文に違ひたりし義どもなれば終に破れて止みにき、当時も又かくの如し此の五十余年が間は善導の千中無一法然が捨閉閣抛の四字等は権者の釈なればゆへこそあらんと思いてひら信じに信じたりし程に日蓮が法華経の或は悪世末法時或は於後末世或は令法久住等の文を引きむかへて相違をせむる時我が師の私義破れて疑いあへるなり、詮ずるところ後五百歳の経文の誠なるべきかの故に念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが還つて法華経の弘まらせ給うべきかと覚ゆ、但し御用心の御為に申す世間の悪人は魚鳥鹿等を殺して世路を渡る、


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