日蓮大聖人御書
ネット御書
(真言見聞)
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枝葉をば之を略せり、此等は併ながら訳者の意楽に随つて広を好み略を悪む人も有り略を好み広を悪む人も有り、然れば即ち玄弉は広を好んで四十巻の般若経を六百巻と成し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮めたり、印契真言の勝るると云う事是を以て弁え難し、羅什所訳の法華経には是を宗とせず不空三蔵の法華の儀軌には印真言之有り、仁王経も羅什の所訳には印真言之無し不空所訳の経には之を副えたり知んぬ是れ訳者の意楽なりと、其の上法華経には「為説実相印」と説いて合掌の印之有り、譬喩品には「我が此の法印世間を利益せんと欲するが為の故に説く」云云、此等の文如何只広略の異あるか、又舌相の言語皆是れ真言なり、法華経には「治生の産業は皆実相と相違背せず」と宣べ、亦「是れ前仏経中に説く所なり」と説く此等は如何、真言こそ有名無実の真言未顕真実の権教なれば成仏得道跡形も無く始成を談じて久遠無ければ性徳本有の仏性も無し、三乗が仏の出世を感ずるに三人に二人を捨て三十人に二十人を除く、「皆令入仏道」の仏の本願満足す可からず十界互具は思いもよらずまして非情の上の色心の因果争か説く可きや。
 然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具百界千如一念三千を善無畏は盗み取つて我が宗の骨目とせり、彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来る如来入滅より一千六百六十四年か、開皇十七年より百二十余年なり何ぞ百二十余年已前に天台の立て給へる一念三千の法門を盗み取つて我が物とするや、而るに己が依経たる大日経には衆生の中に機を簡ひ前四味の諸経に同じて二乗を簡へり、まして草木成仏は思いもよらずされば理を云う時は盗人なり、又印契真言何れの経にか之を簡える若し爾れば大日経に之を説くとも規模ならず、一代に簡われ諸経に捨てられたる二乗作仏は法華に限れり、二乗は無量無辺劫の間千二百余尊の印契真言を行ずとも法華経に値わずんば成仏す可からず、印は手の用真言は口の用なり其の主が成仏せざれば口と手と別に成仏す可きや、一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば物とせず事に依る時は印真言を尊む者劣謂勝見の外道なり。


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