日蓮大聖人御書
ネット御書
(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)
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是くの如き因位の諸行は皆我等が己身所具の菩薩界の功徳か、果位を以て之を論ずれば教主釈尊は始成正覚の仏四十余年の間四教の色身を示現し爾前迹門涅槃経等を演説して一切衆生を利益し給う、所謂華蔵の時十方台上の盧舎那阿含経の三十四心断結成道の仏、方等般若の千仏等、大日金剛頂の千二百余尊、並びに迹門宝塔品の四土色身、涅槃経の或は丈六と見る或は小身大身と現じ或は盧舎那と見る或は身虚空に同じと見る四種の身乃至八十御入滅舎利を留めて正像末を利益し給う、本門を以て之れを疑わば教主釈尊は五百麈点已前の仏なり因位も又是くの如し、其れより已来十方世界に分身し一代聖教を演説して塵数の衆生を教化し給う、本門の所化を以て迹門の所化に比校すれば一ィと大海と一塵と大山となり、本門の一菩薩を迹門十方世界の文殊観音等に対向すれば猴猿を以て帝釈に比するに尚及ばず、其の外十方世界の断惑証果の二乗並びに梵天帝釈日月四天四輪王乃至無間大城の大火炎等此等は皆我が一念の十界か己身の三千か、仏説為りと雖も之を信ず可からず。
 此れを以て之を思うに爾前の諸経は実事なり実語なり、華厳経に云く「究竟して虚妄を離れ染無きこと虚空の如し」と仁王経に云く「源を窮め性を尽して妙智存せり」金剛般若経に云く「清浄の善のみ有り」馬鳴菩薩の起信論に云く「如来蔵の中に清浄の功徳のみ有り」天親菩薩の唯識論に云く「謂く余の有漏と劣の無漏と種は金剛喩定が現在前する時極円明純浄の本識を引く彼の依に非ざるが故に皆永く棄捨す」等云云、爾前の経経と法華経と之を校量するに彼の経経は無数なり時説既に長し一仏二言彼に付く可し、馬鳴菩薩は付法蔵第十一にして仏記に之れ有り天親は千部の論師四依の大士なり、天台大師は辺鄙の小僧にして一論をも宣べず誰か之を信ぜん、其の上多を捨て小に付くとも法華経の文分明ならば少し恃怙有らんも法華経の文に何れの所にか十界互具百界千如一念三千の分明なる証文之れ有りや、随つて経文を開拓するに「断諸法中悪」等云云、


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