日蓮大聖人御書
ネット御書
(下山御消息)
<1.前 P0355 2.次>

粗内典五千七千外典三千等を引き見るに先代にも希なる天変地夭なり、然而儒者の家には記せざれば知る事なし仏法は自迷なればこころへず此の災夭は常の政道の相違と世間の謬誤より出来せるにあらず定めて仏法より事起るかと勘へなしぬ、先ず大地震に付て去る正嘉元年に書を一巻注したりしを故最明寺の入道殿に奉る御尋ねもなく御用いもなかりしかば国主の御用いなき法師なればあやまちたりとも科あらじとやおもひけん念仏者並に檀那等又さるべき人人も同意したるとぞ聞へし夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかどもいかんがしたりけん其の夜の害もまぬかれぬ、然れども心を合せたる事なれば寄せたる者も科なくて大事の政道を破る日蓮が未だ生きたる不思議なりとて伊豆の国へ流しぬ、されば人のあまりににくきには我がほろぶべきとがをもかへりみざるか御式目をも破らるるか御起請文を見るに梵釈四天天照太神正八幡等を書きのせたてまつる、余存外の法門を申さば子細を弁えられずば日本国の御帰依の僧等に召し合せられて其れになを事ゆかずば漢土月氏までも尋ねらるべし、其れに叶わずば子細ありなんとて且くまたるべし、子細も弁えぬ人人が身のほろぶべきを指をきて大事の起請を破らるる事心へられず。
 自讃には似たれども本文に任せて申す余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く「即如来の使なり」と又云く「眼目なり」と又云く「日月なり」と章安大師の云く「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云、而るに謗法一闡提国敵の法師原が讒言を用いて其義を弁えず左右なく大事たる政道を曲げらるるはわざとわざはひをまねかるるか墓無し墓無し、然るに事しづまりぬれば科なき事は恥かしきかの故にほどなく召返されしかども故最明寺の入道殿も又早くかくれさせ給いぬ、当御時に成りて或は身に疵をかふり或は弟子を殺され或は所所を追れ或はやどをせめしかば一日片時も地上に栖むべき便りなし、是に付けても仏は一切世間多怨難信と説き置き給う諸の菩薩は


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