日蓮大聖人御書
ネット御書
(四条金吾殿御返事)
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或は身はをちねども心をち或は心はをちねども身はをちぬ。
 釈迦仏は浄飯王の嫡子一閻浮提を知行する事八万四千二百一十の大王なり一閻浮提の諸王頭をかたぶけん上御内に召しつかいし人十万億人なりしかども十九の御年浄飯王宮を出でさせ給いて檀特山に入りて十二年、其の間御ともの人五人なり、所謂拘鄰とェゥと跋提と十力迦葉と拘利太子となり、此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ残りの三人も後の六年にすて奉りて去んぬ、但一人残り給うてこそ仏にはならせ給いしか、法華経は又此れにもすぎて人信じがたかるべし難信難解此れなり、又仏の在世よりも末法は大難かさなるべし、此れをこらへん行者は我が功徳にはすぐれたる事一劫とこそ説かれて候へ、仏滅度後二千二百三十余年になり候に月氏一千余年が間仏法を弘通せる人伝記にのせてかくれなし、漢土千年日本七百年又目録にのせて候いしかども仏のごとく大難に値える人人少し、我も聖人我も賢人とは申せども況滅度後の記文に値える人一人も候はず、竜樹菩薩天台伝教こそ仏法の大難に値える人人にては候へども此等も仏説には及ぶ事なし、此れ即代のあがり法華経の時に生れ値はせ給はざる故なり。
 今は時すでに後五百歳末法の始なり、日には五月十五日月には八月十五夜に似たり、天台伝教は先に生れ給へり今より後は又のちぐへなり、大陣すでに破れぬ余党は物のかずならず、今こそ仏の記しをき給いし後五百歳末法の初況滅度後の時に当りて候へば仏語むなしからずば一閻浮提の内に定めて聖人出現して候らん、聖人の出ずるしるしには一閻浮提第一の合戦をこるべしと説かれて候にすでに合戦も起りて候にすでに聖人や一閻浮提の内に出でさせ給いて候らん、きりん出でしかば孔子を聖人としる鯉社なつて聖人出で給う事疑なし、仏には栴檀の木をひて聖人としる、老子は二五の文を蹈んで聖人としる、末代の法華経の聖人をば何を用つてかしるべき、経に云く「能説此経能持此経の人則如来の使なり」八巻一巻一品一偈の人乃至題目を唱うる人如来の使なり、


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