日蓮大聖人御書
ネット御書
(法門申さるべき様の事)
<1.前 P1267 2.次>

経文そらごとなるやうにみへ候をくはしくかんがへみ候へば不孝の者を五逆罪の者とは申し候か、又相似の五逆と申す事も候、さるならば前王の正法実法を弘めさせ給えと候を今の王の権法相似の法を尊んで天子本命の道場たる正法の御寺の御帰依うすくして、権法邪法の寺の国国に多くいできたれるは、愚者の眼には仏法繁盛とみへて仏天智者の御眼には古き正法の寺寺やうやくうせ候へば一には不孝なるべし賢なる父母の氏寺をすつるゆへ二には謗法なるべし、若ししからば日本国当世は国一同に不孝謗法の国なるべし、此の国は釈迦如来の御所領仏の左右臣下たる大梵天王第六天の魔王にたはせ給いて大海の死骸をとどめざるがごとく宝山の曲林をいとうがごとく此の国の謗法をかへんとおぼすかと勘え申すなりと申せ。
 この上捨てられて候四十余年の経経の今に候はいかになんど俗の難せば返詰して申すべし、塔をくむあししろは塔くみあげては切りすつるなりなんど申すべし、此の譬は玄義の第二の文に「今の大教若し起れば方便の教絶す」と申す釈の心なり、妙と申すは絶という事絶と申す事は此の経起れば已前の経経を断止ると申す事なるべし、正直捨方便の捨の文字の心又嘉祥の日出ぬるに星かくるの心なるべし、但し爾前の経経は塔のあししろなれば切りすつるとも又塔をすりせん時は用ゆべし又切りすつべし、三世の諸仏の説法の儀式かくのごとし。
 又俗の難に云く慈覚大師の常行堂等の難これをば答うべし、内典の人外典をよむ得道のためにはあらず才学のためか、山寺の小児の倶舎の頌をよむ得道のためか、伝教慈覚は八宗を極め給へり一切経をよみ給う、これみな法華経を詮と心へ給はん梯磴なるべし。
 又俗の難に云く何にさらば御房は念仏をば申し給はぬ、答えて云く伝教大師は二百五十戒をすて給いぬ時にあたりて法華円頓の戒にまぎれしゆへなり、当世は諸宗の行多けれども時にあたりて念仏をもてなして法華経を謗ずるゆえに金石迷いやすければ唱え候はず、例せば仏十二年が間常楽我浄の名をいみ給いき、外典にも寒食のまつりに火をいみあかき物をいむ、


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