日蓮大聖人御書
ネット御書
(祈祷抄)
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*祈祷抄                    /文永九年 五十一歳御作

                       本朝沙門 日蓮撰
 問うて云く華厳宗法相宗三論宗小乗の三宗真言宗天台宗の祈をなさんにいづれかしるしあるべきや、答て云く仏説なればいづれも一往は祈となるべし、但法華経をもつていのらむ祈は必ず祈となるべし、問うて云く其の所以は如何、答えて云く二乗は大地微塵劫を経て先四味の経を行ずとも成仏すべからず、法華経は須臾の間此れを聞いて仏になれり、若爾らば舎利弗迦葉等の千二百万二千総じて一切の二乗界の仏は必ず法華経の行者の祈をかなふべし、又行者の苦にもかわるべし、故に信解品に云く「世尊は大恩まします希有の事を以て憐愍教化して我等を利益し給う無量億劫にも誰れか能く報ずる者あらん、手足をもて供給し頭頂をもつて礼敬し一切をもつて供養すとも皆報ずること能わず、若しは以て頂戴し両肩に荷負して恒沙劫に於て心を尽して恭敬し、又美膳無量の宝衣及び諸の臥具種種の湯薬を以てし牛頭栴檀及び諸の珍宝以つて塔廟を起て宝衣を地に布き斯くの如き等の事もつて供養すること恒沙劫に於てすとも亦報ずること能わじ」等云云、此の経文は四大声聞が譬喩品を聴聞して仏になるべき由を心得て、仏と法華経の恩の報じがたき事を説けり、されば二乗の御為には此の経を行ずる者をば父母よりも愛子よりも両眼よりも身命よりも大事にこそおぼしめすらめ、舎利弗目連等の諸大声聞は一代聖教いづれも讃歎せん行者をすておぼす事は有るべからずとは思へども爾前の諸経はすこしうらみおぼす事も有らん「於仏法中已如敗種」なんどしたたかにいましめられ給いし故なり、今の華光如来名相如来普明如来なんどならせ給いたる事はおもはざる外の幸なり、例せば崑崙山のくづれて宝の山に入りたる心地してこそおはしぬらめ、されば領解の文に云く「無上宝珠不求自得等」云云。


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