日蓮大聖人御書
ネット御書
(妙法比丘尼御返事)
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念仏者等此の由を聞きて上下の諸人をかたらひ打ち殺さんとせし程にかなはざりしかば、長時武蔵の守殿は極楽寺殿の御子なりし故に親の御心を知りて理不尽に伊豆の国へ流し給いぬ、されば極楽寺殿と長時と彼の一門は皆ほろぶるを各御覧あるべし、其の後何程もなくして召し返されて後又経文の如く弥よ申しつよる、又去ぬる文永八年九月十二日に佐渡の国へ流さる、日蓮御勘気の時申せしが如くどしうち(同士打)はじまりぬ、それを恐るるかの故に又召し返されて候、しかれども用ゆる事なければ万民も弥弥悪心盛んなり。
 縦ひ命を期として申したりとも国主用いずば国やぶれん事疑なし、つみしらせて後用いずば我が失にはあらずと思いて、去ぬる文永十一年五月十二日相州鎌倉を出でて六月十七日より此の深山に居住して門一町を出でず既に五箇年をへたり。
 本は房州の者にて候いしが地頭東条左衛門尉景信と申せしもの極楽寺殿藤次左衛門入道一切の念仏者にかたらはれて度度の問註ありて結句は合戦起りて候上極楽寺殿の御方人理をまげられしかば東条の郡ふせがれて入る事なし、父母の墓を見ずして数年なり、又国主より御勘気二度なり、第二度は外には遠流と聞こへしかども内には頚を切るべしとて、鎌倉竜の口と申す処に九月十二日の丑の時に頚の座に引きすへられて候いき、いかがして候いけん月の如くにをはせし物江の島より飛び出でて使の頭へかかり候いしかば、使おそれてきらず、とかうせし程に子細どもあまたありて其の夜の頚はのがれぬ、又佐渡の国にてきらんとせし程に日蓮が申せしが如く鎌倉にどしうち始まりぬ、使はしり下りて頚をきらず結句はゆるされぬ、今は此の山に独りすみ候。
 佐渡の国にありし時は里より遥にへだたれる野と山との中間につかはらと申す御三昧所あり、彼処に一間四面の堂あり、そらはいたまあわず四壁はやぶれたり雨はそとの如し雪は内に積もる、仏はおはせず筵畳は一枚もなし、然れども我が根本より持ちまいらせて候教主釈尊を立てまいらせ法華経を手ににぎり蓑をき笠をさして居たりしかども、


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