日蓮大聖人御書
ネット御書
(法華初心成仏抄)
<1.前 P0547 2.次>

法華経を聞いては無上の宝聚求めざるに自ら得たりと悦び給ふ、されば「我等昔より来数世尊の説を聞きたてまつるに未だ曾つて是くの如き深妙の上法を聞かず」とも、「仏希有の法を説き給う昔より未だ曾つて聞かざる所なり」とも説き給う、此等の文の心は四十余年の程若干の説法を聴聞せしかども法華経の様なる法をば総てきかず又仏も終に説かせ給はずと法華経を讃たる文なり四十二年の聴と今経の聴とをばわけたくらぶべからず、然るに今経をそれ法華経得道の人の為にして爾前得道の者の為には無用なりと云う事大なる誤りなり、をのづから四十二年の経の内には一機一縁の為にしつらう処の方便なれば設い有縁無縁の沙汰はありとも法華経は爾前の経経の座にして得益しつる機どもを押ふさねて一純に調えて説き給いし間有縁無縁の沙汰あるべからざるなり、悲しいかな大小権実みだりがわしく仏の本懐を失いて爾前得道の者のためには法華経無用なりと云へる事を能能慎むべし恐るべし、古の徳一大師と云いし人此の義を人にも教へ我が心にも存してさて法華経を読み給いしを伝教大師此の人を破し給ふ言に「法華経を讃すと雖も還つて法華の心を死す」と責め給いしかば徳一大師は舌八にさけて失せ給ひき。
 問うて云く天台の釈の中に菩薩処処得入と云う文は法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならず菩薩は爾前の経の中にしても得道なると見えたり若し爾らば未顕真実も正直捨方便等も総じて法華経八巻の内皆以て二乗の為にして菩薩は一人も有るまじきと意うべきか如何、答えて云く法華経は但二乗の為にして菩薩の為ならずと云う事は天台より已前唐土に南三北七と申して十人の学匠の義なり、天台は其の義を破し失て今は弘まらず若し菩薩なしと云はば菩薩是の法を聞いて疑網皆已に除くと云える豈是れ菩薩の得益なしと云わんや、それに尚鈍根の菩薩は二乗とつれて得益あれども利根の菩薩は爾前の経にて得益すと云はば「利根鈍根等しく法雨を雨す」と説き「一切の菩薩の阿耨多羅三藐三菩提は皆此経に属せり」と説くは何に、此等の文の心は利根にてもあれ鈍根にてもあれ


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