日蓮大聖人御書
ネット御書
(瑞相御書)
<1.前 P1141 2.次>

 夫一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて法華経の迹門をとかせ給いぬ、其の上本門と申すは又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり、大宝塔の地よりをどりいでし地涌千界大地よりならび出でし大震動は大風の大海を吹けば大山のごとくなる大波のあしのはのごとくなる小船のをひほにつくがごとくなりしなり、されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問い涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問いたてまつるこれを妙楽釈して云く「迹事は浅近文殊に寄すべし久本は裁り難し故に唯仏に託す」云云迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり、本門の事は妙徳すこしもはからず、此の大瑞は在世の事にて候、仏神力品にいたつて十神力を現ず此れは又さきの二瑞にはにるべくもなき神力なり、序品の放光は東方万八千土、神力品の大放光は十方世界、序品の地動は但三千界神力品の大地動は諸仏の世界地皆六種に震動す、此の瑞も又又かくのごとし、此の神力品の大瑞は仏の滅後正像二千年すぎて末法に入つて法華経の肝要のひろまらせ給うべき大瑞なり、経文に云く「仏の滅度の後に能く是の経を持つを以ての故に諸仏皆歓喜して無量の神力を現ず」等云云、又云く「悪世末法の時」等云云。
 疑つて云く夫れ瑞は吉凶につけて或は一時二時或は一日二日或は一年二年或は七年十二年か如何ぞ二千余年已後の瑞あるべきや、答えて云く周の昭王の瑞は一千十五年に始めてあえり、訖利季王の夢は二万二千年に始めてあいぬ、豈二千余年の事の前にあらはるるを疑うべきや、問うて云く在世よりも滅後の瑞大なる如何、答えて云く大地の動ずる事は人の六根の動くによる、人の六根の動きの大小によつて大地の六種も高下あり、爾前の経経には一切衆生煩悩をやぶるやうなれども実にはやぶらず、今法華経は元品の無明をやぶるゆへに大動あり、末代は又在世よりも悪人多多なり、かるがゆへに在世の瑞にもすぐれてあるべきよしを示現し給う。


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