日蓮大聖人御書
ネット御書
(開目抄上)
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開目抄上          /文永九年二月 五十一歳御作

+                    与門下一同 於佐渡塚原
 夫れ一切衆生の尊敬すべき者三あり所謂主師親これなり、又習学すべき物三あり、所謂儒外内これなり。
 儒家には三皇五帝三王此等を天尊と号す諸臣の頭目万民の橋梁なり、三皇已前は父をしらず人皆禽獣に同ず五帝已後は父母を弁て孝をいたす、所謂重華はかたくなはしき父をうやまひ沛公は帝となつて大公を拝す、武王は西伯を木像に造り丁蘭は母の形をきざめり、此等は孝の手本なり、比干は殷の世のほろぶべきを見てしゐて帝をいさめ頭をはねらる、公胤といゐし者は懿公の肝をとつて我が腹をさき肝を入て死しぬ此等は忠の手本なり、尹寿は尭王の師務成は舜王の師大公望は文王の師老子は孔子の師なり此等を四聖とがうす、天尊頭をかたぶけ万民掌をあわす、此等の聖人に三墳五典三史等の三千余巻の書あり、其の所詮は三玄をいでず三玄とは一には有の玄周公等此れを立つ、二には無の玄老子等三には亦有亦無等荘子が玄これなり、玄とは黒なり父母未生已前をたづぬれば或は元気よりして生じ或は貴賎苦楽是非得失等は皆自然等云云。
 かくのごとく巧に立つといえどもいまだ過去未来を一分もしらず玄とは黒なり幽なりかるがゆへに玄という但現在計りしれるににたり、現在にをひて仁義を制して身をまほり国を安んず此に相違すれば族をほろぼし家を亡ぼす等いう、此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去をしらざること凡夫の背を見ず未来をかがみざること盲人の前をみざるがごとし、但現在に家を治め孝をいたし堅く五常を行ずれば傍輩もうやまい名も国にきこえ賢王もこれを召して或は臣となし或は師とたのみ或は位をゆづり天も来て守りつかう、所謂周の武王には五老きたりつかえ後漢の光武には二十八宿来つて二十八将となりし此なり、而りといえども過去未来をしらざれば


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