日蓮大聖人御書
ネット御書
(十法界事)
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妙法華経皆是真実の証誠皆以て無益なり皆是真実の言は豈一部八巻に亘るに非ずや、釈迦多宝十方分身の舌相至梵天の神力三世諸仏の誠諦不虚の証誠空く泡沫に同ぜん、但し小乗の断常の二見に至つては且く大乗に対して小乗を以て外道に同ず小益無きに非ざるなり、又七方便並に究竟の滅に非ざるの釈或は復但し心を観ずと言わば則ち理に称わずとは又是れ円実の大益に対して七方便の益を下して並に非究竟滅即不称理と釈するなり。
 第四重の難に云く法華本門の観心の意を以て一代聖教を按ずるに菴羅果を取つて掌中に捧ぐるが如し、所以は何ん迹門の大教起れば爾前の大教亡じ本門の大教起れば迹門爾前亡じ観心の大教起れば本迹爾前共に亡ず此れは是れ如来所説の聖教従浅至深して次第に迷を転ずるなり、然れども如来の説は一人の為にせず此の大道を説きて迷情除かざれば生死出で難し、若し爾前の中に八教有りとは頓は則ち華厳漸は則ち三味秘密と不定とは前四味に亘る蔵は則ち阿含方等に亘る通は是れ方等般若円別は是れ則ち前四味の中に鹿苑の説を除く、此くの如く八機各各不同なれば教説も亦異なり四教の教主亦是れ不同なれば当教の機根余仏を知らず、故に解釈に云く「各各仏独り其の前に在すと見る」[已上]。
 人天の五戒十善二乗の四諦十二菩薩の六度三祇百劫或は動逾塵劫或は無量阿僧祗劫円教の菩薩の初発心時便成正覚明かに知んぬ機根別なるが故に説教亦別なり、教別なるが故に行も亦別なり行別なるが故に得果も別なり此れ即ち各別の得益にして不同なり。
 然るに今法華方便品に「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」と説き給う爾の時八機並に悪趣の衆生悉く皆同じく釈迦如来と成り互に五眼を具し一界に十界を具し十界に百界を具せり、是の時爾前の諸経を思惟するに諸経の諸仏は自界の二乗を二乗も又菩薩界を具せず三界の人天の如きは成仏の望絶えて二乗菩薩の断惑即ち是れ自身の断惑なりと知らず、


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