日蓮大聖人御書
ネット御書
(御講聞書)
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皆是真実の証明舌相梵天の誠証要当説真実の金言此等を義類同して題したる品の字なり、天竺には跋渠と云う此には品と云えり、釈迦多宝分身の三仏の御口を以て指し合せ同音に定判し給える我等衆生の成仏なり、譬えば鳥の卵の内より卵をつつく時母又同じくつつきあくるに同じき所をつつきあくるが如し、是れ即ち念慮の感応する故なり、今法華経の成仏も此くの如くなり、三世諸仏の同音に同時に定め給える成仏なり、故に経に云く従仏口生如従仏口等云云。
一如是我聞の事 仰に云く如と云うは衆生の如と仏の如と一如にして無二如なり、然りと雖も九界と仏界と分れたるを是と云うなり、如は如を不異に名く即ち空の義なりと釈して少しもことならざるを云うなり、所詮法華経の意は煩悩即菩提生死即涅槃生仏不二迷悟一体といえり、是を如とは云うなり、されば如は実相是は諸法なり、又如は心法是は色法如は寂是は照なり、如は一念是は三千なり、今経の心は文文句句一念三千の法門なり、惣じて如是我聞の四字より外は今経の体全く無きなり 如と妙とは同じ事是とは法と又同じ事なり、法華経と釈尊と我等との三全く不同無く如我等無異なるを如と云うなり、仏は悟り凡夫は迷なりと云うを是とは云うなり、我聞と云うは、我は阿難なり、聞とは耳の主と釈せり、聞とは名字即なり、如是の二字は妙法なり、阿難を始めて霊山一会の聴衆同時に妙法蓮華経の五字を聴聞せり仍つて我も聞くと云えり、されば相伝の点には如は是なりきと我れ聞くといえり、所詮末法当今には南無妙法蓮華経を我も聞くと心得べきなり、我は真如法性の我なり、天台大師は同聞衆と判ぜり同じ事を聞く衆と云うなり、同とは妙法蓮華経なり、聞は即身成仏法華経に限ると聞くなり云云。
一如是の二字 を約教の下に釈する時文句の一に又一時に四箭を接して地に堕せしめざるも未だ敢て捷しと称せず、鈍驢に策つて跋鼈を駈る尚し一をも得ず何に況や四をや云云、記の一に云く、


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