日蓮大聖人御書
ネット御書
(開目抄上)
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 此に日蓮案じて云く世すでに末代に入つて二百余年辺土に生をうけ其の上下賎其の上貧道の身なり、輪回六趣の間人天の大王と生れて万民をなびかす事大風の小木の枝を吹くがごとくせし時も仏にならず、大小乗経の外凡内凡の大菩薩と修しあがり一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を立てすでに不退に入りぬべかりし時も強盛の悪縁におとされて仏にもならず、しらず大通結縁の第三類の在世をもれたるか久遠五百の退転して今に来れるか、法華経を行ぜし程に世間の悪縁王難外道の難小乗経の難なんどは忍びし程に権大乗実大乗経を極めたるやうなる道綽善導法然等がごとくなる悪魔の身に入りたる者法華経をつよくほめあげ機をあながちに下し理深解微と立て未有一人得者千中無一等とすかししものに無量生が間恒河沙の度すかされて権経に堕ちぬ権経より小乗経に堕ちぬ外道外典に堕ちぬ結句は悪道に堕ちけりと深く此れをしれり、日本国に此れをしれる者は但日蓮一人なり。
 これを一言も申し出すならば父母兄弟師匠に国主の王難必ず来るべし、いはずば慈悲なきににたりと思惟するに法華経涅槃経等に此の二辺を合せ見るにいはずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕べし、いうならば三障四魔必ず競い起るべしとしりぬ、二辺の中にはいうべし、王難等出来の時は退転すべくは一度に思ひ止るべしと且くやすらいし程に宝塔品の六難九易これなり、我等程の小力の者須弥山はなぐとも我等程の無通の者乾草を負うて劫火にはやけずとも我等程の無智の者恒沙の経経をばよみをぼうとも法華経は一句一偈も末代に持ちがたしととかるるはこれなるべし、今度強盛の菩提心ををこして退転せじと願しぬ。
 既に二十余年が間此の法門を申すに日日月月年年に難かさなる、少少の難はかずしらず大事の難四度なり二度はしばらくをく王難すでに二度にをよぶ、今度はすでに我が身命に及ぶ其の上弟子といひ檀那といひわづかの聴聞の俗人なんど来つて重科に行わる謀反なんどの者のごとし。


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