日蓮大聖人御書
ネット御書
(十法界事)
<1.前 P0418 2.次>

 第三重の難に云く所立の義誠に道理有るに似たり委く一代聖教の前後をうるに法華本門並に観心の智慧を起さざれば円仏と成らず、故に実の凡夫にして権果だも得ず所以に彼の外道五天竺に出でて四顛倒を立つ、如来出世して四顛倒を破せんが為に苦空等を説く此れ則ち外道の迷情を破せんが為なり、是の故に外道の我見を破して無我に住するは火を捨てて以て水に随うが如し堅く無我を執して見思を断じ六道を出ずると謂えり、此れ迷の根本なり故に色心倶滅の見に住す大集等の経経に断常の二見と説くは是れなり、例せば有漏外道の自らは得道すと念えども無漏智に望むれば未だ三界を出でざるが如し、仏教に値わずして三界を出ずるといわば是の処有ること無し小乗の二乗も亦復是くの如し、鹿苑施小の時外道の我を離れて無我の見に住す此の情を改めずして四十余年草庵に止宿するの思い暫くも離るる時無し、又大乗の菩薩に於て心生の十界を談ずと雖も而も心具の十界を論ぜず、又或る時は九界の色心を断尽して仏界の一理に進む是の故に自ら念わく三惑を断尽して変易の生を離れ寂光に生るべしと、然るに九界を滅すれば是れ則ち断見なり進んで仏界に昇れば即ち常見と為す九界の色心の常住を滅すと欲うは豈に九法界に迷惑するに非ずや、又妙楽大師の云く「但し心を観ずと言わば則ち理に称わず」文、此の釈の意は小乗の観心は小乗の理に称わざるのみ、又天台の文句第九に云く「七方便並に究竟の滅に非ず」[已上]、此の釈は是れ爾前の前三教の菩薩も実には不成仏と云えるなり、但し未顕真実と説くと雖も三乗の得道を許し正直捨方便と説くと雖も而も見諸菩薩授記作仏と云うは、天台宗に於て三種の教相有り第二の化導の始終の時過去の世に於て法華結縁の輩有り爾前の中に於て且らく法華の為に三乗当分の得道を許す所謂種熟脱の中の熟益の位なり是は尚迹門の説なり、本門観心の時は是れ実義に非ず一往許すのみ、其の実義を論ずれば如来久遠の本に迷い一念三千を知らざれば永く六道の流転を出ず可からず、故に釈に云く「円乗の外を名けて外道と為す」文、又「諸善男子楽於小法徳薄垢重者」と説く若し爾れば経釈共に道理必然なり、答う執難有りと雖も其の義不可なり、


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