日蓮大聖人御書
ネット御書
(八宗違目抄)
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 但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり人師よりの僻見なり。
 浄土宗  一向に阿弥陀如来を以て本尊と為す。
 法華宗より外の真言等の七宗並に浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず、例せば三皇已前の人禽獣に同ずるが如し鳥の中に鷦鷯鳥も鳳凰鳥も父を知らず獣の中には兎も師子も父を知らず、三皇以前は大王も小民も共に其の父を知らず天台宗よりの外真言等の諸宗の大乗宗は師子と鳳凰の如く小乗宗は鷦鷯と兎等の如く共に父を知らざるなり。
 華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏に之有り。
 真言宗に十界互具一念三千を立つること大日経の疏に之を出す。
 天台宗と同異如何、天台宗已前にも十界互具一念三千を立つるや、記の三に云く「然るに衆釈を攅むるに既に三乗及び一乗三一倶に性相等の十有りと許す何すれぞ六道の十を語らざるや」[此の釈の如くんば天台已前五百余年の人師三蔵等の法華経に依る者一念三千の名目を立てざるか]。
 問うて云く華厳宗は一念三千の義を用いるや[華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之を立つ]、答えて云く澄観の疏三十三[清涼国師]に云く「止観の第五に十法成乗を明す中の第二に真正発菩提心○釈して云く然も此の経の上下の発心の義は文理淵博にして其の撮略を見る故に取つて之を用い引いて之を証とす」と、二十九に云く「法華経に云く唯仏与仏等と天台云く○便ち三千世間を成すと彼の宗には此れを以つて実と為す○一家の意理として通ぜざる無し」文。
 華厳経に云く[旧訳には功徳林菩薩之を説くと、新訳には覚林菩薩之を説くと、弘決には如来林菩薩と引く]「心は工なる画師の種種の五陰を画くが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と是の三差別無し若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると」


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