日蓮大聖人御書
ネット御書
(唱法華題目抄)
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設え義理を知るようなる者なりとも謗法の人にあらん上は三千塵点無量塵点も経べく侍るか、五十展転一念随喜の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入る可からずと仰せ候か、是を天台妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか、所詮仰せの御義を委く案ずればをそれにては候へども謗法の一分にやあらんずらん其の故は法華経を我等末代の機に叶い難き由を仰せ候は末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや、若しさやうに侍らば末代の一切衆生の中に此の御詞を聞きて既に法華経を信ずる者も打ち捨て未だ行ぜざる者も行ぜんと思うべからず随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん、若し謗法の者に一切衆生なるならばいかに念仏を申させ給うとも御往生は不定にこそ侍らんずらめ又弥陀の名号を唱へ極楽世界に往生をとぐべきよしを仰せられ侍るは何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん正くつよき証文候か若しなくば其の義たのもしからず、前に申し候いつるがごとく法華経を信じ侍るはさせる解なけれども三悪道には堕すべからず候六道を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか、但し悪知識に値つて法華経随喜の心を云いやぶられて候はんは力及ばざるか又仰せに付いて驚き覚え侍り其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されしかばさかと思い侍る処に只今の仰せの如くならば弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ、抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも又名字即の浅位の者なり又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん委く承り候はばや、又義理をも知らざる者僅かに法華経を信じ侍るが悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の世間の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか、又無智の者の念仏申して往生すると何に見えてあるやらんと申し給うこそよに事あたらしく侍れ、雙観経等の浄土の三部経


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