日蓮大聖人御書
ネット御書
(善無畏三蔵抄)
<1.前 P0884 2.次>

大光を備へ給へる故なり、螢火は未だ国土を照さず宝珠は懐中に持ぬれば万物皆ふらさずと云う事なし、瓦石は財をふらさず念仏等は法華経の題目に対すれば瓦石と宝珠と螢火と日光との如し。
 我等が昧き眼を以て螢火の光を得て物の色を弁ふべしや、旁凡夫の叶いがたき法は念仏真言等の小乗権教なり、又我が師釈迦如来は一代聖教乃至八万法蔵の説者なり、此の娑婆無仏の世の最先に出でさせ給いて一切衆生の眼目を開き給ふ御仏なり、東西十方の諸仏菩薩も皆此の仏の教なるべし、譬えば皇帝已前は人父をしらずして畜生の如し、尭王已前は四季を弁へず牛馬の癡なるに同じかりき、仏世に出でさせ給はざりしには比丘比丘尼の二衆もなく只男女二人にて候いき、今比丘比丘尼の真言師等大日如来を御本尊と定めて釈迦如来を下し念仏者等が阿弥陀仏を一向に持つて釈迦如来を抛てたるも教主釈尊の比丘比丘尼なり元祖が誤を伝え来るなるべし。
 此の釈迦如来は三の故ましまして他仏にかはらせ給ひて娑婆世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ、一には此の娑婆世界の一切衆生の世尊にておはします、阿弥陀仏は此の国の大王にはあらず釈迦仏は譬えば我が国の主上のごとし先ず此の国の大王を敬つて後に他国の王をば敬ふべし、天照太神正八幡宮等は我が国の本主なり迹化の後神と顕れさせ給ふ、此の神にそむく人此の国の主となるべからず、されば天照太神をば鏡にうつし奉りて内侍所と号す、八幡大菩薩に勅使有つて物申しあはさせ給いき、大覚世尊は我等が尊主なり先づ御本尊と定むべし、二には釈迦如来は娑婆世界の一切衆生の父母なり、先づ我が父母を孝し後に他人の父母には及ぼすべし、例せば周の武王は父の形を木像に造つて車にのせて戦の大将と定めて天感を蒙り殷の紂王をうつ、舜王は父の眼の盲たるをなげきて涙をながし手をもつてのごひしかば本のごとく眼あきにけり、此の仏も又是くの如く我等衆生の眼をば開仏知見とは開き給いしか、いまだ他仏は開き給はず、三には此の仏は娑婆世界の一切衆生の本師なり、


<1.前 P0884 2.次>