日蓮大聖人御書
ネット御書
(善無畏三蔵抄)
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然れども文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時彼の人の云く我智慧なければ請用の望もなし、年老いていらへなければ念仏の名僧をも立てず世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり、又我が心より起こらざれども事の縁有つて阿弥陀仏を五体まで作り奉る是れ又過去の宿習なるべし、此の科に依つて地獄に堕つべきや等云云、爾時に日蓮意に念はく別して中違ひまいらする事無けれども東条左衛門入道蓮智が事に依つて此の十余年の間は見奉らず但し中不和なるが如し、穏便の義を存じおだやかに申す事こそ礼儀なれとは思いしかども生死界の習ひ老少不定なり又二度見参の事難かるべし、此の人の兄道義房義尚此の人に向つて無間地獄に堕つべき人と申して有りしが臨終思う様にもましまさざりけるやらん、此の人も又しかるべしと哀れに思いし故に思い切つて強強に申したりき、阿弥陀仏を五体作り給へるは五度無間地獄に堕ち給ふべし其の故は正直捨方便の法華経に釈迦如来は我等が親父阿弥陀仏は伯父と説かせ給ふ、我が伯父をば五体まで作り供養せさせ給いて親父をば一体も造り給はざりけるは豈不孝の人に非ずや、中中山人海人なんどが東西をしらず一善をも修せざる者は還つて罪浅き者なるべし、当世の道心者が後世を願ふとも法華経釈迦仏をば打ち捨て阿弥陀仏念仏なんどを念念に捨て申さざるはいかがあるべかるらん、打ち見る処は善人とは見えたれども親を捨てて他人につく失免るべしとは見えず、一向悪人はいまだ仏法に帰せず釈迦仏を捨て奉る失も見えず縁有つて信ずる辺もや有らんずらん、善導法然並びに当世の学者等が邪義に就いて阿弥陀仏を本尊として一向に念仏を申す人人は多生曠劫をふるとも此の邪見を翻へして釈迦仏法華経に帰すべしとは見えず、されば雙林最後の涅槃経に十悪五逆よりも過ぎておそろしき者を出ださせ給ふに謗法闡提と申して二百五十戒を持ち三衣一鉢を身に纒へる智者共の中にこそ有るべしと見え侍れとこまごまと申して候いしかば此の人もこころえずげに思いておはしき、傍座の人人もこころえずげにをもはれしかども其の後承りしに法華経を持たるるの由承りしかば此の人邪見を翻し給ふか


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