日蓮大聖人御書
ネット御書
(可延定業書)
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しかも善医あり中務三郎左衛門尉殿は法華経の行者なり、命と申す物は一身第一の珍宝なり一日なりともこれを延るならば千万両の金にもすぎたり、法華経の一代の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし、閻浮第一の太子なれども短命なれば草よりもかろし、日輪のごとくなる智者なれども夭死あれば生犬に劣る、早く心ざしの財をかさねていそぎいそぎ御対治あるべし、此れよりも申すべけれども人は申すによて吉事もあり又我が志のうすきかとをもう者もあり人の心しりがたき上先先に少少かかる事候、此の人は人の申せばすこそ心へずげに思う人なり、なかなか申すはあしかりぬべし、但なかうどもなくひらなさけに又心もなくうちたのませ給え、去年の十月これに来りて候いしが御所労の事をよくよくなげき申せしなり、当事大事のなければをどろかせ給わぬにや、明年正月二月のころをひは必ずをこるべしと申せしかばこれにもなげき入つて候。
 富木殿も此の尼ごぜんをこそ杖柱とも恃たるになんど申して候いしなり随分にわび候いしぞきわめてまけじたまし(不負魂)の人にて我がかたの事をば大事と申す人なり、かへすがへす身の財をだにをしませ給わば此の病治がたかるべし、一日の命は三千界の財にもすぎて候なり先ず御志をみみへさせ給うべし、法華経の第七の巻に三千大千世界の財を供養するよりも手の一指を焼きて仏法華経に供養せよととかれて候はこれなり、命は三千にもすぎて候而も齢もいまだたけさせ給はず、而して法華経にあわせ給いぬ一日もいきてをはせば功徳つもるべし、あらをしの命やをしの命や、御姓名並びに御年を我とかかせ給いてわざとつかわせ大日月天に申しあぐべし、いよどの(伊予殿)もあながちになげき候へば日月天に自我偈をあて候はんずるなり、恐恐。
                             日蓮花押
%   尼ごぜん御返事


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