日蓮大聖人御書
ネット御書
(頼基陳状)
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頼基陳状   /建治三年六月 五十六歳御代作

 去ぬる六月二十三日の御下文島田の左衛門入道殿山城の民部入道殿両人の御承りとして同二十五日謹んで拝見仕り候い畢んぬ、右仰せ下しの状に云く竜象御房の御説法の所に参られ候いける次第をほかた穏便ならざる由、見聞の人遍く一方ならず同口に申し合い候事驚き入つて候、徒党の仁其の数兵杖を帯して出入すと云云。
 此の条跡形も無き虚言なり、所詮誰人の申し入れ候けるやらん御哀憐を蒙りて召し合せられ実否を糾明され候はば然るべき事にて候、凡そ此の事の根源は去る六月九日日蓮聖人の御弟子三位公頼基が宿所に来り申して云く近日竜象房と申す僧京都より下りて大仏の門の西桑か谷に止住して日夜に説法仕るが申して云く現当の為仏法に御不審存ぜむ人は来りて問答申す可き旨説法せしむる間、鎌倉中の上下釈尊の如く貴び奉るしかれども問答に及ぶ人なしと風聞し候、彼へ行き向いて問答を遂げ一切衆生の後生の不審をはらし候はむと思い候、聞き給はぬかと申されしかども折節官仕に隙無く候いし程に思い立たず候いしかども、法門の事と承りてたびたび罷り向いて候えども頼基は俗家の分にて候い一言も出さず候し上は悪口に及ばざる事厳察足る可く候。
 ここに竜象房説法の中に申して云く此の見聞満座の御中に御不審の法門あらば仰せらる可くと申されし処に、日蓮房の弟子三位公問うて云く生を受けしより死をまぬかるまじきことはり始めてをどろくべきに候はねども、ことさら当時日本国の災驍ノ死亡する者数を知らず眼前の無常人毎に思いしらずと云ふ事なし、然る所に京都より上人御下りあつて人人の不審をはらし給うよし承りて参りて候つれども御説法の最中骨無くも候なばと存じ候し処に問うべき事有らむ人は各各憚らず問い給へと候し間悦び入り候、


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