日蓮大聖人御書
ネット御書
(一代聖教大意)
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相待妙の意は前の四時の一代聖教に法華経を対して爾前と之を嫌い、爾前をば当分と言い法華を跨節と申す、絶待妙の意は一代聖教は即ち法華経なりと開会す、又法華経に二事あり一には所開二には能開なり開示悟入の文或は皆已成仏道等の文、一部八巻二十八品六万九千三百八十四字一一の字の下に皆妙の文字あるべしこれ能開の妙なり、此の法華経は知らずして習い談ずる者は但爾前の経の利益なり、阿含経開会の文は経に云く「我が此の九部の法は衆生に随順して説く大乗に入るに為本なり」と云云、華厳経開会の文は一切世間天人及び阿修羅は皆謂えり今の釈迦牟尼仏等の文、般若経開会の文は安楽行品の十八空の文、観経等の往生安楽開会の文は「此に於て命終して即ち安楽世界に往く」等の文、散善開会の文は「一たび南無仏と称せし皆已に仏道を成じき」の文、一切衆生開会の文は「今此の三界は皆是れ我が有なり其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」、外典開会の文は「若し俗間経書治世語言資生の業等を説かんも皆正法に順ぜん」文、兜率開会の文人天所開会の文しげきゆへにいださず。
 此の経を意得ざる人は経の文に此の経を読んで人天に生ずと説く文を見或は兜率利なんどにいたる文を見或は安養に生ずる文を見て穢土に於て法華経を行ぜば経はいみじけれども行者不退の地に至らざれば穢土にして流転し久しく五十六億七千万歳の晨を期し或は人畜等に生れて隔生する間自の苦しみ限り無しなんと云云或は自力の修行なり難行道なり等云云、此れは恐らくは爾前法華の二途を知らずして自ら癡闇に迷うのみに非ず一切衆生の仏眼を閉ずる人なり、兜率を勧めたる事は小乗経に多し少しは大乗経にも勧めたり西方を勧めたる事は大乗経に多し此等は皆所開の文なり、法華経の意は兜率に即して十方仏土中西方に即して十方仏土中人天に即して十方仏土中と云云、法華経は悪人に対しては十界の悪を説くは悪人五眼を具しなんどすれば悪人のきわまりを救い、女人に即して十界を談ずれば十界皆女人なる事を談ず、何にも法華円実の菩提心を発さん人は迷の九界へ業力に引かるる事無きなり。


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