日蓮大聖人御書
ネット御書
(曾谷入道殿許御書)
<1.前 P1035 2.次>

然りと雖も彼の宗宗の末学等此の諸師を崇敬して之を聖人と号し之を国師と尊ぶ今先ず一を挙げんに万を察せよ。
 弘法大師の十住心論秘蔵宝鑰二教論等に云く「此くの如き乗乗自乗に名を得れども後に望めば戯論と作る」又云く「無明の辺域」又云く「震旦の人師等諍つて醍醐を盗み各自宗に名く」等云云、釈の心は法華の大法を華厳と大日経とに対して戯論の法と蔑り無明の辺域と下し剰え震旦一国の諸師を盗人と罵る、此れ等の謗法謗人は慈恩得一の三乗真実一乗方便の誑言にも超過し善導法然が千中無一捨閉閣抛の過言にも雲泥せるなり、六波羅蜜経をば唐の末に不空三蔵月氏より之を渡す後漢より唐の始めに至るまで未だ此の経有らず南三北七の碩徳未だ此の経を見ず三論天台法相華厳の人師誰人か彼の経の醍醐を盗まんや、又彼の経の中に法華経は醍醐に非ずというの文之有りや不や、而るに日本国の東寺の門人等堅く之を信じて種種に僻見を起し非より非を増し暗より暗に入る不便の次第なり。
 彼の門家の伝法院の本願たる正覚の舎利講式に云く「尊高なる者は不二摩訶衍の仏驢牛の三身は車を扶くること能ず秘奥なる者は両部曼陀羅の教顕乗の四法の人は履をも取るに能えず」云云、三論天台法相華厳等の元祖等を真言の師に相対するに牛飼にも及ばず力者にも足らずと書ける筆なり、乞い願わくは彼の門徒等心在らん人は之を案ぜよ大悪口に非ずや大謗法に非ずや、所詮此等の誑言は弘法大師の望後作戯論の悪口より起るか、教主釈尊多宝十方の諸仏は法華経を以て已今当の諸説に相対して皆是真実と定め然る後世尊は霊山に隠居し多宝諸仏は各本土に還りたまいぬ、三仏を除くの外誰か之を破失せん。
 就中弘法所覧の真言経の中に三説を悔い還すの文之有りや不や、弘法既に之を出さず末学の智如何せん而るに弘法大師一人のみ法華経を華厳大日の二経に相対して戯論盗人と為す所詮釈尊多宝十方の諸仏を以て盗人と称するか末学等眼を閉じて之を案ぜよ。


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