唱法華題目抄

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唱法華題目抄        /文応元年五月  三十九歳御作 +於鎌倉名越

 有る人予に問うて云く世間の道俗させる法華経の文義を弁へずとも一部一巻四要品自我偈一句等を受持し或は

自らもよみかき若しは人をしてもよみかかせ或は我とよみかかざれども経に向い奉り合掌礼拝をなし香華を供養

し、或は上の如く行ずる事なき人も他の行ずるを見てわづかに随喜の心ををこし国中に此の経の弘まれる事を悦

ばん、是体の僅かの事によりて世間の罪にも引かれず彼の功徳に引かれて小乗の初果の聖人の度度人天に生れて

而も悪道に堕ちざるがごとく常に人天の生をうけ終に法華経を心得るものと成つて十方浄土にも往生し又此の土

に於ても即身成仏する事有るべきや委細に之を聞かん、答えて云くさせる文義を弁えたる身にはあらざれども法

華経涅槃経並に天台妙楽の釈の心をもて推し量るにかりそめにも法華経を信じて聊も謗を生ぜざらん人は余の悪

にひかれて悪道に堕つべしとはおぼえず、但し悪知識と申してわづかに権教を知れる人智者の由をして法華経を

我等が機に叶い難き由を和げ申さんを誠と思いて法華経を随喜せし心を打ち捨て余教へうつりはてて一生さて法

華経へ帰り入らざらん人は悪道に堕つべき事も有りなん、仰せに付いて疑はしき事侍り実にてや侍るらん法華経

に説かれて候とて智者の語らせ給いしは昔三千塵点劫の当初大通智勝仏と申す仏います其の仏の凡夫にていまし

ける時十六人の王子をはします、彼の父の王仏にならせ給ひて一代聖教を説き給いき十六人の王子も亦出家して

其の仏の御弟子とならせ給いけり、大通智勝仏法華経を説き畢らせ給いて定に入らせ給いしかば十六人の王子の

沙弥其の前にしてかはるがはる法華経を講じ給いけり、其の所説を聴聞せし人幾千万といふ事をしらず当座に悟

をえし人は不退の位に入りにき、又法華経をおろかに心得る結縁の衆もあり其の人人当座中間に不退の位

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に入らずして三千塵点劫をへたり、其の間又つぶさに六道四生に輪廻し今日釈迦如来の法華経を説き給うに不退

の位に入る所謂舎利弗目連迦葉阿難等是なり猶猶信心薄き者は当時も覚らずして未来無数劫を経べきか知らず我

等も大通智勝仏の十六人の結縁の衆にもあるらん此の結縁の衆をば天台妙楽は名字観行の位にかなひたる人なり

と定め給へり名字観行の位は一念三千の義理を弁へ十法成乗の観を凝し能能義理を弁えたる人なり一念随喜五十

展転と申すも天台妙楽の釈のごときは皆観行五品の初随喜の位と定め給へり博地の凡夫の事にはあらず然るに我

等は末代の一字一句等の結縁の衆一分の義理をも知らざらんは豈無量の世界の塵点劫を経ざらんや是れ偏えに理

深解微の故に教は至つて深く機は実に浅きがいたす処なり只弥陀の名号を唱えて順次生に西方極楽世界に往生し

西方極楽世界に永く不退の無生忍を得て阿弥陀如来観音勢至等の法華経を説き給わん時聞いて悟を得んには如か

じ然るに弥陀の本願は有智無智善人悪人持戒破戒等をも択ばず只一念唱うれば臨終に必ず弥陀如来本願の故に来

迎し給ふ是を以て思うに此の土にして法華経の結縁を捨て浄土に往生せんとをもふは億千世界の塵点を経ずして

疾法華経を悟るがためなり法華経の根機にあたはざる人の此の穢土にて法華経にいとまをいれて一向に念仏を申

さざるは法華経の証は取り難く極楽の業は定まらず中間になりて中中法華経をおろそかにする人にてやおはしま

すらんと申し侍るは如何に、其の上只今承り候へば僅に法華経の結縁計ならば三悪道に堕ちざる計にてこそ候へ

六道の生死を出るにはあらず、念仏の法門はなにと義理を知らざれども弥陀の名号を唱え奉れば浄土に往生する

由を申すは遥かに法華経よりも弥陀の名号はいみじくこそ聞え侍れ、答えて云く誠に仰せめでたき上智者の御物

語にも侍るなればさこそと存じ候へども但し若し御物語のごとく侍らばすこし不審なる事侍り、大通結縁の者を

あらあらうちあてがい申すには名字観行の者とは釈せられて侍れども正しく名字即の位の者と定められ侍る上退

大取小の者とて法華経をすてて権教にうつり後には悪道に堕ちたりと見えたる上正しく法華経を誹謗して之を捨

てし者なり、

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設え義理を知るようなる者なりとも謗法の人にあらん上は三千塵点無量塵点も経べく侍るか、五十展転一念随喜

の人人を観行初随喜の位の者と釈せられたるは末代の我等が随喜等は彼の随喜の中には入る可からずと仰せ候か

、是を天台妙楽初随喜の位と釈せられたりと申さるるほどにては又名字即と釈せられて侍る釈はすてらるべきか

、所詮仰せの御義を委く案ずればをそれにては候へども謗法の一分にやあらんずらん其の故は法華経を我等末代

の機に叶い難き由を仰せ候は末代の一切衆生は穢土にして法華経を行じて詮無き事なりと仰せらるるにや、若し

さやうに侍らば末代の一切衆生の中に此の御詞を聞きて既に法華経を信ずる者も打ち捨て未だ行ぜざる者も行ぜ

んと思うべからず随喜の心も留め侍らば謗法の分にやあるべかるらん、若し謗法の者に一切衆生なるならばいか

に念仏を申させ給うとも御往生は不定にこそ侍らんずらめ又弥陀の名号を唱へ極楽世界に往生をとぐべきよしを

仰せられ侍るは何なる経論を証拠として此の心はつき給いけるやらん正くつよき証文候か若しなくば其の義たの

もしからず、前に申し候いつるがごとく法華経を信じ侍るはさせる解なけれども三悪道には堕すべからず候六道

を出る事は一分のさとりなからん人は有り難く侍るか、但し悪知識に値つて法華経随喜の心を云いやぶられて候

はんは力及ばざるか又仰せに付いて驚き覚え侍り其の故は法華経は末代の凡夫の機に叶い難き由を智者申されし

かばさかと思い侍る処に只今の仰せの如くならば弥陀の名号を唱うとも法華経をいゐうとむるとがによりて往生

をも遂げざる上悪道に堕つべきよし承るはゆゆしき大事にこそ侍れ、抑大通結縁の者は謗法の故に六道に回るも

又名字即の浅位の者なり又一念随喜五十展転の者も又名字観行即の位と申す釈は何の処に候やらん委く承り候は

ばや、又義理をも知らざる者僅かに法華経を信じ侍るが悪知識の教によて法華経を捨て権教に移るより外の世間

の悪業に引かれては悪道に堕つべからざる由申さるるは証拠あるか、又無智の者の念仏申して往生すると何に見

えてあるやらんと申し給うこそよに事あたらしく侍れ、雙観経等の浄土の三部経

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善導和尚等の経釈に明かに見えて侍らん上はなにとか疑い給うべき、答えて曰く大通結縁の者を退大取小の謗法

名字即の者と申すは私の義にあらず天台大師の文句第三の巻に云く「法を聞いて未だ度せず而して世世に相い値

うて今に声聞地に住する者有り即ち彼の時の結縁の衆なり」と釈し給いて侍るを、妙楽大師の疏記第三に重ねて

此の釈の心を述べ給いて云く「但全く未だ品に入らず、倶に結縁と名づくるが故に」文文の心は大通結縁の者は

名字即の者となり、又天台大師の玄義の第六に大通結縁の者を釈して云く「若しは信若しは謗因つて倒れ因つて

起く喜根を謗ずと雖も後要らず度を得るが如し」文文の心は大通結縁の者の三千塵点を経るは謗法の者なり例せ

ば勝意比丘が喜根菩薩を謗ぜしが如しと釈す五十展転の人は五品の初めの初随喜の位と申す釈もあり、又初随喜

の位の先の名字即と申す釈もあり疏記第十に云く「初めに法会にして聞く是れ初品なるべし第五十人は必ず随喜

の位の初めに在る人なり」文文の心は初会聞法の人は必ず初随喜の位の内第五十人は初随喜の位の先の名字即と

申す釈なり。

 其の上五種法師にも受持読誦書写の四人は自行の人大経の九人の先の四人は解無き者なり解説は化他後の五人

は解有る人と証し給へり、疏記第十に五種法師を釈するには「或は全く未だ品に入らず」又云く「一向未だ凡位

に入らず」文文の心は五種法師は観行五品と釈すれども又五品已前の名字即の位とも釈するなり、此等の釈の如

くんば義理を知らざる名字即の凡夫が随喜等の功徳も経文の一偈一句一念随喜の者五十展転等の内に入るかと覚

え候、何に況や此の経を信ぜざる謗法の者の罪業は譬喩品に委くとかれたり持経者を謗ずる罪は法師品にとかれ

たり、此の経を信ずる者の功徳は分別功徳品随喜功徳品に説けり謗法と申すは違背の義なり随喜と申すは随順の

義なりさせる義理を知らざれども一念も貴き由申すは違背随順の中には何れにか取られ候べき、又末代無智の者

のわづかの供養随喜の功徳は経文には載せられざるか如何、其の上天台妙楽の釈の心は他の人師ありて法華経

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の乃至童子戯一偈一句五十展転の者を爾前の諸経のごとく上聖の行儀と釈せられたるをば謗法の者と定め給へり

、然るに我が釈を作る時機を高く取りて末代造悪の凡夫を迷はし給わんは自語相違にあらずや故に妙楽大師五十

展転の人を釈して云く「恐らくは人謬りて解せる者初心の功徳の大なる事を測らず而して功を上位に推り此の初

心を蔑る故に今彼の行浅く功深き事を示して以て経力を顕わす」文文の心は謬つて法華経を説かん人の此の経は

利智精進上根上智の人のためといはん事を仏をそれて下根下智末代の無智の者のわづかに浅き随喜の功徳を四十

余年の諸経の大人上聖の功徳に勝れたる事を顕わさんとして五十展転の随喜は説かれたり、故に天台の釈には外

道小乗権大乗までたくらべ来て法華経の最下の功徳が勝れたる由を釈せり、所以に阿竭多仙人は十二年が間恒河

の水を耳に留め耆兎仙人は一日の中に大海の水をすいほす此くの如き得通の仙人は小乗阿含経の三賢の浅位の一

通もなき凡夫には百千万倍劣れり、三明六通を得たりし小乗の舎利弗目連等は華厳方等般若等の諸大乗経の未断

三惑の一通もなき一偈一句の凡夫には百千万倍劣れり華厳方等般若経を習い極めたる等覚の大菩薩は法華経を僅

かに結縁をなせる未断三惑無悪不造の末代の凡夫には百千万倍劣れる由釈の文顕然也、而るを当世の念仏宗等の

人我が身の権教の機にて実経を信ぜざる者は方等般若の時の二乗のごとく自身をはぢしめてあるべき処に敢えて

其の義なし、あまつさへ世間の道俗の中に僅かに観音品自我偈なんどを読み適父母孝養なんどのために一日経等

を書く事あればいゐさまたげて云く善導和尚は念仏に法華経をまじうるを雑行と申し百の時は希に一二を得千の

時は希に三五を得ん乃至千中無一と仰せられたり、何に況や智慧第一の法然上人は法華経等を行ずる者をば祖父

の履或は群賊等にたとへられたりなんどいゐうとめ侍るは是くの如く申す師も弟子も阿鼻の焔をや招かんずらん

と申す。

 問うて云く何なるすがた並に語を以てか法華経を世間にいゐうとむる者には侍るやよにおそろしくこそおぼえ

候へ、

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答えて云く始めに智者の申され候と御物語候いつるこそ法華経をいゐうとむる悪知識の語にて侍れ、末代に法華

経を失うべき者は心には一代聖教を知りたりと思いて而も心には権実二経を弁へず身には三衣一鉢を帯し或は阿

練若に身をかくし或は世間の人にいみじき智者と思はれて而も法華経をよくよく知る由を人に知られなんとして

世間の道俗には三明六通の阿羅漢の如く貴ばれて法華経を失うべしと見えて候。

 問うて云く其の証拠如何、答えて云く法華経勧持品に云く「諸の無智の人悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有

らん我等皆当に忍ぶべし」文妙楽大師此の文の心を釈して云く「初めの一行は通じて邪人を明す、即ち俗衆なり

」文文の心は此の一行は在家の俗男俗女が権教の比丘等にかたらはれて敵をすべしとなり、経に云く「悪世の中

の比丘は邪智にして心諂曲に未だ得ざるを為得たりと謂い我慢の心充満せん」文妙楽大師此の文の心を釈して云

く「次の一行は道門増上慢の者を明す」文文の心は悪世末法の権教の諸の比丘我れ法を得たりと慢じて法華経を

行ずるものの敵となるべしといふ事なり、経に云く「或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと

謂いて人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説き世に恭敬せらるる事六通の羅漢の如く

ならん是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮りて好んで我等が過を出さん而も是くの如き言を作

さん此の諸の比丘等は利養を貪るを為つての故に外道の論義を説き自ら此の経典を作りて世間の人を誑惑す名聞

を求むるを為つての故に分別して是の経を説くと、常に大衆の中に在りて我等を毀らんと欲するが故に国王大臣

婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん」[已上]

妙楽大師此の文を釈して云く「三に七行は僣聖増上慢の者を明す」文経並に釈の心は悪世の中に多くの比丘有つ

て身には三衣一鉢を帯し阿練若に居して行儀は大迦葉等の三明六通の羅漢のごとく在家の諸人にあふがれて一言

を吐けば如来の金言のごとくをもはれて法華経を行ずる人をいゐやぶらんがために国王大臣等に向ひ奉つて此の

人は

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邪見の者なり法門は邪法なりなんどいゐうとむるなり。

 上の三人の中に第一の俗衆の毀よりも第二の邪智の比丘の毀は猶しのびがたし又第二の比丘よりも第三の大衣

の阿練若の僧は甚し、此の三人は当世の権教を手本とする文字の法師並に諸経論の言語道断の文を信ずる暗禅の

法師並に彼等を信ずる在俗等四十余年の諸経と法華経との権実の文義を弁へざる故に、華厳方等般若等の心仏衆

生即心是仏即往十方西方等の文と法華経の諸法実相即往十方西方の文と語の同じきを以て義理のかはれるを知ら

ず或は諸経の言語道断心行所滅の文を見て一代聖教には如来の実事をば宣べられざりけりなんどの邪念をおこす

、故に悪鬼此の三人に入つて末代の諸人を損じ国土をも破るなり故に経文に云く「濁劫悪世の中には多く諸の恐

怖有らん悪鬼其の身に入つて我を罵詈し毀辱せん乃至仏の方便随宜所説の法を知らず」文文の心は濁悪世の時比

丘我が信ずる所の教は仏の方便随宜の法門ともしらずして権実を弁へたる人出来すれば詈り破しなんどすべし、

是偏に悪鬼の身に入りたるをしらずと云うなり、されば末代の愚人の恐るべき事は刀杖虎狼十悪五逆等よりも三

衣一鉢を帯せる暗禅の比丘と並に権経の比丘を貴しと見て実経の人をにくまん俗侶等なり。

 故に涅槃経二十二に云く「悪象等に於ては心に恐怖する事無かれ悪知識に於ては怖畏の心を生ぜよ何を以ての

故に是悪象等は唯能く身を壊りて心を破ること能わず悪知識は二倶に壊るが故に乃至悪象の為に殺されては三趣

に至らず悪友の為に殺されては必ず三趣に至らん」文 此文の心を章安大師宣べて云く「諸の悪象等は但是れ悪

縁にして人に悪心を生ぜしむる事能わず悪知識は甘談詐媚巧言令色もて人を牽いて悪を作さしむ悪を作すを以て

の故に人の善心を破る之を名づけて殺と為す即ち地獄に堕す」文、文の心は悪知識と申すは甘くかたらひ詐り媚

び言を巧にして愚癡の人の心を取つて善心を破るといふ事なり、総じて涅槃経の心は十悪五逆の者よりも謗法闡

提のものをおそるべしと誡めたり闡提の人と申すは法華経涅槃経を云いうとむる者と見えたり、当世の念仏者等

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法華経を知り極めたる由をいふに因縁譬喩をもて釈しよくよく知る由を人にしられて然して後には此の経のいみ

じき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ強き弓重き鎧かひなき人の用にたたざる由を申せば無智の道

俗さもと思いて実には叶うまじき権教に心を移して僅かに法華経に結縁しぬるをも飜えし又人の法華経を行ずる

をも随喜せざる故に師弟倶に謗法の者となる。

 之れに依つて謗法の衆生国中に充満して適仏事をいとなみ法華経を供養し追善を修するにも念仏等を行ずる謗

法の邪師の僧来て法華経は末代の機に叶い難き由を示す、故に施主も其の説を実と信じてある間訪るる過去の父

母夫婦兄弟等は弥地獄の苦を増し孝子は不孝謗法の者となり聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる、日本

国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず適仏法を知る智者は国の人に捨てられ守護の善神は法味をなめざ

る故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替り大地を動かし悪風を

興し一天を悩し五穀を損ず故に飢渇出来し人の五根には鬼神入つて精気を奪ふ是を疫病と名く一切の諸人善心無

く多分は悪道に堕つることひとへに悪知識の教を信ずる故なり、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王

太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別えずして此の語を信聴し横に法制を作りて仏

戒に依らず是れを破仏破国の因縁と為す」文、文の心は末法の諸の悪比丘国王大臣の御前にして国を安穏ならし

むる様にして終に国を損じ仏法を弘むる様にして還つて仏法を失うべし、国王大臣此の由を深く知し食さずして

此の言を信受する故に国を破り仏教を失うと云う文なり。此の時日月度を失ひ時節もたがひて夏はさむく冬はあ

たたかに秋は悪風吹き赤き日月出で望朔にあらずして日月蝕し或は二つ三つ等の日出来せん大火大風彗星等をこ

り飢饉疫病等あらんと見えたり、国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか。

 問うて云く始めに智者の御物語とて申しつるは所詮後世の事の疑わしき故に善悪を申して承らんためなり、

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彼の義等は恐ろしき事にあるにこそ侍るなれ一文不通の我等が如くなる者はいかにしてか法華経に信をとり候べ

き又心ねをば何様に思い定め侍らん、答えて云く此の身の申す事をも一定とおぼしめさるまじきにや其の故はか

やうに申すも天魔波旬悪鬼等の身に入つて人の善き法門を破りやすらんとおぼしめされ候はん一切は賢きが智者

にて侍るにや。

 問うて云く若しかやうに疑い候はば我身は愚者にて侍り万の智者の御語をば疑いさて信ずる方も無くして空く

一期過し侍るべきにや、答えて云く仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にい

みじき人なりとも御信用あるべからず候か、又依了義経不依不了義経と説かれて候へば愚癡の身にして一代聖教

の前後浅深を弁えざらん程は了義経に付かせ給い候へ、了義経不了義経も多く候阿含小乗経は不了義経華厳方等

般若浄土の観経等は了義経、又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経法華経は了義経、涅槃経を法華経に

対すれば法華経は了義経涅槃経は不了義経、大日経を法華経に対すれば大日経は不了義経法華経は了義経なり、

故に四十余年の諸経並に涅槃経を打ち捨てさせ給いて法華経を師匠と御憑み候へ法華経をば国王父母日月大海須

弥山天地の如くおぼしめせ、諸経をば関白大臣公卿乃至万民衆星江河諸山草木等の如くおぼしめすべし、我等が

身は末代造悪の愚者鈍者非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人父母は他人よりも子をあはれむ者日月は

衆星より暗を照らす者法華経は機に叶わずんば況や余経は助け難しとおぼしめせ、又釈迦如来と阿弥陀如来薬師

如来多宝仏観音勢至普賢文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は

唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人愚者鈍者女人根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさず

とおぼしめせ法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り、而るを当世の学者法華経をば一切経に勝れたりと讃

めて、而も末代の機に叶わずと申すを皆信ずる事豈謗法の人に侍らずや、

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只一口におぼしめし切らせ給い候へ所詮法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず、又

世間の悪業に対して云いうとむるとも人人用ゆべからず只相似たる権経の義理を以て云いうとむるにこそ人はた

ぼらかさるれとおぼしめすべし。

 問うて云く或智者の申され候しは四十余年の諸経と八箇年の法華経とは成仏の方こそ爾前は難行道法華経は易

行道にて候へ、往生の方にては同事にして易行道に侍り法華経を書き読みても十方の浄土阿弥陀仏の国へも生る

べし観経等の諸経の付いて弥陀の名号を唱えん人も往生を遂ぐべし只機縁の有無に随つて何をも諍ふべからず、

但し弥陀の名号は人ごとに行じ易しと思いて日本国中に行じつけたる事なれば法華経等の余行よりも易きにこそ

と申されしは如何、答えて云く仰せの法門はさも侍るらん又世間の人も多くは道理と思いたりげに侍り但し身に

は此の義に不審あり、其の故は前に申せしが如く末代の凡夫は智者と云うともたのみなし世こぞりて上代の智者

には及ぶべからざるが故に愚者と申すともいやしむべからず経論の証文顕然ならんには抑無量義経は法華経を説

くが為の序分なり、然るに始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至るまで其の年月日数を委く計へ挙げれ

ば四十余年なり、其の間の所説の経を挙るに華厳阿含方等般若なり所談の法門は三乗五乗所習の法門なり修行の

時節を定むるには宣説菩薩歴劫修行と云ひ随自意随他意を分つには是を随他意と宣べ四十余年の諸経と八箇年の

所説との語同じく義替れる事を定めるには文辞一と雖ど義各異るととけり成仏の方は別にして往生の方は一つな

るべしともおぼえず華厳方等般若究竟最上の大乗経頓悟漸悟の法門皆未顕真実と説かれたり此の大部の諸経すら

未顕真実なり何に況や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや其の上経経ばかりを出すのみに

あらず既に年月日数を出すをや、然れば華厳方等般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事疑い無し、観経の弥陀往

生に限つて豈多留難故の内に入らざらんや、若し随自意の法華経の往生極楽を

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随他意の観経の往生極楽に同じて易行道と定めて而も易行の中に取つても猶観経の念仏往生は易行なりと之を立

てられば権実雑乱の失大謗法たる上一滴の水漸漸に流れて大海となり一麈積つて須弥山となるが如く漸く権経の

人も実経にすすまず実経の人も権経におち権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留り国中に王なきが

如く人の神を失えるが如く法華真言の諸の山寺荒れて諸天善神竜神等一切の聖人国を捨てて去らば悪鬼便りを得

て乱れ入り悪風吹いて五穀も成らしめず疫病流行して人民をや亡さんずらん、此の七八年が前までは諸行は永く

往生すべからず善導和尚の千中無一と定めさせ給いたる上選択には諸行を抛てよ行ずる者は群賊と見えたりなん

ど放語を申し立てしが、又此の四五年の後は選択集の如く人を勧めん者は謗法の罪によって師檀共に無間地獄に

堕つべしと経に見えたりと申す法門出来したりげに有りしを、始めは念仏者こぞりて不思議の思いをなす上念仏

を申す者無間地獄に堕つべしと申す悪人外道ありなんどののしり候しが念仏者無間地獄に堕つべしと申す語に智

慧つきて各選択集を委く披見する程にげにも謗法の書とや見なしけん千中無一の悪義を留めて諸行往生の由を念

仏者毎に之を立つ、然りと雖も唯口にのみゆるして心の中は猶本の千中無一の思いなり在家の愚人は内心の謗法

なるをばしらずして諸行往生の口にばかされて念仏者は法華経をば謗ぜざりけるを法華経を謗ずる由を聖道門の

人の申されしは僻事なりと思へるにや、一向諸行は千中無一と申す人よりも謗法の心はまさりて候なり失なき由

を人に知らせ而も念仏計りを亦弘めんとたばかるなり偏に天魔の計りごとなり。

 問うて云く天台宗の中の人の立つる事あり天台大師爾前と法華と相対して爾前を嫌うに二義あり、一には約部

四十余年の部と法華経の部と相対して爾前はなり法華は妙なりと之を立つ二には約教教に妙を立て華厳方等

般若等の円頓速疾の法門をば妙と歎じ華厳方等般若等の三乗歴別の修行の法門をば前三教と名づけてなりと嫌

へり円頓速疾の方をば嫌わず法華経に同じて一味の法門とせりと申すは如何、答えて云く此の事は不審にもする

事侍るらん

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然る可しとをぼゆ天台妙楽より已来今に論有る事に侍り天台の三大部六十巻総じて五大部の章疏の中にも約教の

時は爾前の円を嫌ふ文無し、只約部の時ばかり爾前の円を押ふさねて嫌へり、日本に二義あり園城寺には智証大

師の釈より起つて爾前の円を嫌ふと云い山門には嫌はずと云う互に文釈あり倶に料簡あり然れども今に事ゆかず

、但し予が流の義には不審晴れておぼえ候、其の故は天台大師四教を立て給うに四の筋目あり、一には爾前の経

に四教を立つ二には法華経と爾前と相対して爾前の円を法華の円に同じて前三教を嫌う事あり、三には爾前の円

をば別教に摂して前三教と嫌ひ法華の円をば純円と立つ四には爾前の円をば法華に同ずれども但法華経の二妙の

中の相待妙に同じて絶待妙には同ぜず、此の四の道理を相対して六十巻をかんがうれば狐疑の冰解けたり一一の

証文は且つは秘し且つは繁き故に之を載せず、又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌う事不審なき

者なり、爾前の円をば別教に摂して約教の時は前三為後一為妙と云うなり此の時は爾前の円は無量義経の歴劫

修行の内に入りぬ、又伝教大師の註釈の中に爾前の八教を挙げて四十余年未顕真実の内に入れ或は前三教をば迂

回と立て爾前の円をば直道と云い無量義経をば大直道と云う委細に見る可し。

 問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経

八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来多宝

仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏普賢菩薩等をもつくりかき

たてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の

所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈一句をも読み奉る可し助縁には南無釈迦牟尼仏多

宝仏十方諸仏一切の諸菩薩二乗天人竜神八部等心に随うべし愚者多き世となれば一念三千の観を先とせず其の志

あらん人は必ず習学して之を観ずべし。

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 問うて云く只題目計を唱うる功徳如何、答えて云く釈迦如来法華経をとかんとおぼしめして世に出でましまし

しかども四十余年の程は法華経の御名を秘しおぼしめして御年三十の比より七十余に至るまで法華経の方便をま

うけ七十二にして始めて題目を呼び出させ給へば諸経の題目に是を比ぶべからず、其の上法華経の肝心たる方便

寿量の一念三千久遠実成の法門は妙法の二字におさまれり、天台大師玄義十巻を造り給う第一の巻には略して妙

法蓮華経の五字の意を宣べ給う、第二の巻より七の巻に至るまでは又広く妙の一字を宣べ八の巻より九の巻に至

るまでは法蓮華の三字を釈し第十の巻には経の一字を宣べ給へり、経の一字に華厳阿含方等般若涅槃経を収めた

り妙法の二字は玄義の心は百界千如心仏衆生の法門なり止観十巻の心は一念三千百界千如三千世間心仏衆生三無

差別と立て給う、一切の諸仏菩薩十界の因果十方の草木瓦礫等妙法の二字にあらずと云う事なし、華厳阿含等の

四十余年の経経小乗経の題目には大乗経の功徳を収めず又大乗経にも往生を説く経の題目には成仏の功徳をおさ

めず又王にては有れども王中の王にて無き経も有り仏も又経に随つて他仏の功徳をおさめず平等意趣をもつて他

仏自仏とをなじといひ或は法身平等をもて自仏他仏同じといふ、実には一仏に一切仏の功徳をおさめず今法華経

は四十余年の諸経を一経に収めて十方世界の三身円満の諸仏をあつめて釈迦一仏の分身の諸仏と談ずる故に一仏

一切仏にして妙法の二字に諸仏皆収まれり、故に妙法蓮華経の五字を唱うる功徳莫大なり諸仏諸経の題目は法華

経の所開なり妙法は能開なりとしりて法華経の題目を唱うべし。

問うて云く此の法門を承つて又智者に尋ね申し候えば法華経のいみじき事は左右に及ばず候但し器量ならん人

は唯我が身計りは然る可し、末代の凡夫に向つてただちに機をも知らず爾前の教を云いうとめ法華経を行ぜよと

申すはとしごろの念仏なんどをば打ち捨て又法華経には未だ功も入れず有にも無にもつかぬようにてあらんずら

ん、又機も知らず法華経を説かせ給はば信ずる者は左右に及ばず若し謗ずる者あらば定めて地獄に堕ち候はんず

らん、

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其の上仏も四十余年の間法華経を説き給はざる事は若但讃仏乗衆生没在苦の故なりと在世の機すら猶然なり何に

況や末代の凡夫をや、されば譬喩品には「仏舎利弗に告げて言わく無智の人の中に此の経を説くことなかれ」云

云此等の道理を申すは如何が候べき、答えて云く智者の御物語と仰せ承り候へば所詮末代の凡夫には機をかがみ

て説け左右なく説いて人に謗ぜさする事なかれとこそ候なれ、彼人さやうに申され候はば御返事候べきやうは抑

若但讃仏乗乃至無智人中等の文を出し給はば又一経の内に凡有所見我深敬汝等等と説いて不軽菩薩の杖木瓦石を

もつてうちはられさせ給いしをば顧みさせ給はざりしは如何と申させ給へ。

 問うて云く一経の内に相違の候なる事こそよに得心がたく侍ればくわしく承り候はん、答えて云く方便品等に

は機をかがみて此の経を説くべしと見え不軽品には謗ずとも唯強いて之を説くべしと見え侍り一経の前後水火の

如し、然るを天台大師会して云く「本已に善有るは釈迦小を以て之を将護し本未だ善有らざるは不軽大を以て之

を強毒す」文文の心は本と善根ありて今生の内に得解すべき者の為には直に法華経を説くべし、然るに其の中に

猶聞いて謗ずべき機あらば暫く権経をもてこしらえて後に法華経を説くべし、本と大の善根もなく今も法華経を

信ずべからずなにとなくとも悪道に堕ちぬべき故に但押して法華経を説いて之を謗ぜしめて逆縁ともなせと会す

る文なり、此の釈の如きは末代には善無き者は多く善有る者は少し故に悪道に堕ちんこと疑い無し、同くは法華

経を強いて説き聞かせて毒鼓の縁と成す可きか然らば法華経を説いて謗縁を結ぶべき時節なる事諍い無き者をや

、又法華経の方便品に五千の上慢あり略開三顕一を聞いて広開三顕一の時仏の御力をもて座をたたしめ給ふ後に

涅槃経並に四依の辺にして今生に悟を得せしめ給うと、諸法無行経に喜根菩薩勝意比丘に向つて大乗の法門を強

いて説ききかせて謗ぜさせしと、此の二の相違をば天台大師会して云く「如来は悲を以ての故に発遣し喜根は慈

を以ての故に強説す」文文の心は仏は悲の故に後のたのしみをば閣いて当時法華経を謗じて地獄にをちて苦にあ

うべきを

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悲み給いて座をたたしめ給いき、譬えば母の子に病あると知れども当時の苦を悲んで左右なく灸を加へざるが如

し、喜根菩薩は慈の故に当時の苦をばかへりみず後の楽を思いて強いて之を説き聞かしむ、譬えば父は慈の故に

子に病あるを見て当時の苦をかへりみず後を思ふ故に灸を加うるが如し、又仏在世には仏法華経を秘し給いしか

ば四十余年の間等覚不退の菩薩名をしらず、其の上寿量品は法華経八箇年の内にも名を秘し給いて最後にきかし

め給いき末代の凡夫には左右なく如何がきかしむべきとおぼゆる処を妙楽大師釈して云く「仏世は当機の故に簡

ぶ末代は結縁の故に聞かしむ」と釈し給へり文の心は仏在世には仏一期の間多くの人不退の位にのぼりぬべき故

に法華経の名義を出して謗ぜしめず機をこしらへて之を説く仏滅後には当機の衆は少く結縁の衆多きが故に多分

に就いて左右なく法華経を説くべしと云う釈なり是体の多くの品あり又末代の師は多くは機を知らず機を知らざ

らんには強いて但実経を説くべきかされば天台大師の釈に云く「等しく是れ見ざれば但大を説くに咎無し」文文

の心は機をも知らざれば大を説くに失なしと云う文なり又時の機を見て説法する方もあり皆国中の諸人権経を信

じて実経を謗し強に用いざれば弾呵の心をもて説くべきか時に依つて用否あるべし。

 問うて云く唐土の人師の中に一分一向に権大乗に留つて実経に入らざる者はいかなる故か候、答えて云く仏世

に出でましまして先ず四十余年の権大乗小乗の経を説き後には法華経を説いて言わく「若以小乗化乃至於一人我

則堕慳貪此事為不可」文文の心は仏但爾前の経許りを説いて法華経を説き給はずば仏慳貪の失ありと説かれたり

、後に属累品にいたりて仏右の御手をのべて三たび諌めをなして三千大千世界の外八方四百万億那由佗の国土の

諸菩薩の頂をなでて未来には必ず法華経を説くべし。若し機たへずば余の深法の四十余年の経を説いて機をこし

らへて法華経を説くべしと見えたり、後に涅槃経に重ねて此の事を説いて仏滅後に四依の菩薩ありて法を説くに

又法の四依あり実経をついに弘めずんば天魔としるべきよしを説かれたり故に如来の滅後後の五百年

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九百年の間に出で給いし竜樹菩薩天親菩薩等メく如来の聖教を弘め給うに天親菩薩は先に小乗の説一切有部の人

倶舎論を造つて阿含十二年の経の心を宣べて一向に大乗の義理を明さず次に十地論摂大乗論釈論等を造つて四十

余年の権大乗の心を宣べ後に仏性論法華論等を造りて粗実大乗の義を宣べたり竜樹菩薩亦然なり天台大師唐土の

人師として一代を分つに大小権実顕然なり余の人師は僅かに義理を説けども分明ならず又証文たしかならず但し

末の論師並に訳者唐土の人師の中に大小をば分つて大にをいて権実を分たず或は語には分つといへども心は権大

乗のをもむきを出でず此等は不退諸菩薩其数如恒沙亦復不能知とおぼえて候なり。

 疑つて云く唐土の人師の中に慈恩大師は十一面観音の化身牙より光を放つ、善導和尚は弥陀の化身口より仏を

いだすこの外の人師通を現じ徳をほどこし三昧を発得する人世に多しなんぞ権実二経を弁へて法華経を詮とせざ

るや、答えて云く阿竭多仙人外道は十二年の間耳の中に恒河の水をとどむ婆籔仙人は自在天となりて三目を現ず

、唐土の道士の中にも張階は霧をいだし鸞巴は雲をはく第六天の魔王は仏滅後に比丘比丘尼優婆塞優婆夷阿羅漢

辟支仏の形を現じて四十余年の経を説くべしと見えたり通力をもて智者愚者をばしるべからざるか、唯仏の遺言

の如く一向に権教を弘めて実経をつゐに弘めざる人師は権教に宿習ありて実経に入らざらん者は或は魔にたぼら

かされて通を現ずるか、但し法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず。

=文応元年[太歳庚申]五月二十八日          日  蓮  花 押

         鎌倉名越に於て書き畢んぬ

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