念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状

念仏者・追放せしむる宣旨・御教書・五篇に集列する勘文状 /正元元年 三十八歳御作

 夫れ以みれば仏法流布の砌には天下静謐なり神明仰崇の界には国土豊饒なり、之に依つて月氏より日域に覃ん

で君王より人民に至るまで此の義改むること無き職として然り。

 爰に後鳥羽院の御宇に源空法師と云う者あり道俗を欺くが故に専修を興して顕密の教理を破し男女を誑かすが

故に邪義を構えて仏神の威光を滅し常に四衆を誘うて云く、浄土三部の外は衆経を棄置すべし唱名一行の外は余

行を廃退すべし矧んや神祗冥道の恭敬に於ておや況や孝養報恩の事善に於ておや之を信ぜざる者は本願を疑うな

りと、爰に頑愚の類は甚深の妙典を軽慢し無智の族は神明の威徳を蔑如す、就中止観・遮那の学窓に臨む者は出

離を抑ゆる癡人なり三論・法相の稽古を励む者は菩提を塞ぐ誑人なりと云云。

 之に依つて仏法・日に衰え迷執・月に増す然る間・南都北嶺の明徳・奏聞を経て天聴に達するの刻・源空が過

咎遁れ難きの間・遠流の宣を蒙むり配所の境に赴き畢んぬ、其の後門徒猶勅命を憚からずして弥専修を興するこ

と殆ど先代に超えたり違勅の至り責めても余り有り故に重ねて専修を停廃し源空の門徒を流罪すべきの由・綸言

頻に下る又関東の御下知・勅宣に相添う。

 門葉等は遁るべきの術を失い或は山林に流浪し或は遠国に逃隠す、爾してより華夷・称名を抛ちて男女・正説

に帰する者なり然るに又近来先規を弁えざるの輩・仏神を崇めざるの類・再び専修の行を企て猶邪悪を増すこと

甚し。

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 日蓮不肖なりと雖も且は天下の安寧を思うが為・且は仏法の繁昌を致さんが為に強ちに先賢の語を宣説し称名

の行を停廃せんと欲し又愚懐の勘文を添え頗る邪人の慢幢を倒さんとす、勘注の文繁くして見難し知り易からし

めんが為に要を取り諸を省き略して五篇を列ぬ、委細の旨は広本に在くのみ。

 奏状篇

 [詮を取りて之を注す委くは広本に在り]

 南都の奏状に云く。

一、謗人謗法の事

 右源空・顕密の諸宗を軽んずること土の如く沙の如く智行の高位を蔑ろにすること蟻の如く螻の如し、常に自

讃して曰く広く一代聖教を見て知れるは我なり能く八宗の精微を解する者は我なり我諸行を捨つ況や余人に於て

おやと、愚癡の道・俗・之を仰ぐこと仏の如く弟子の偏執遥に其の師に超え檀那の邪見弥本説に倍し一天四海漸

く以てメし事の奇特を聞くに驚かずんば有る可からず其の中殊に法華の修行を以て専修の讐敵となす、或は此の

経を読む者は皆地獄に堕すと云い或は其の行を修せん者は永く生死に留まると云い或は僅に仏道の結縁を許し或

は都て浄土の正因を嫌う、然る間・本八軸十軸の文を誦し千部万部の功を積める者も永く以て廃退し剰え前非を

悔ゆ、捨つる所の本行の宿習は実に深く企つる所の念仏の薫習は未だ積まず中途に天を仰いで歎息する者多し、

此の外・般若・華厳の帰依・真言・止観の結縁・十の八九皆棄置す「之を略す」。

一、霊神を蔑如する事

 右我が朝は本是れ神国なり百王彼の苗裔を承けて四海其の加護を仰ぐ、而るに専修の輩永く神明を別えず権化

・実類を論ぜず宗廟・祖社を恐れず若し神明を憑まば魔界に堕すと云云。

 実類の鬼神に於ては置いて論ぜざるか権化の垂迹に至つては既に是れ大聖なり、上代の高僧皆以て帰伏す行教

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和尚・宇佐の宮に参るに釈迦三尊の影・月の如くに顕れ仲算大徳・熊野山に詣るに飛滝千仭の水・簾の如くに巻

く、凡そ行基・護命・増利・聖宝・空海・最澄・円珍等は皆神社に於て新に霊異を感ず是くの若きは源空に及ば

ざるの人か又魔界に堕つ可きの類か[之を略す]。

 山門の奏状に云く。

一、一向専修の党類・神明に向背する不当の事。

 右我が朝は神国なり神道を敬うを以て国の勤めと為す謹んで百神の本を討ぬるに諸仏の迹に非ること無し、所

謂伊勢大神宮・八幡・加茂・日吉・春日等は皆是れ釈迦・薬師・弥陀・観音等の示現なり各宿習の地を卜め専ら

有縁の儀を調う乃至其の内証に随いて彼の法施を資け念誦・読経・神に依つて事異なり世を挙げて信を取り人毎

に益を被る、而るに今専修の徒・事を念仏に寄せて永く神明を敬うこと無し、既に国の礼を失い仍神を無するの

咎あり、当に知るべし有勢の神祗定めて降伏の眸を回らして睨みたまわん[之を略す]。

一、一向専修和漢の例快からざる事

 右慈覚大師の入唐巡礼記を按ずるに云く唐の武宗皇帝会昌元年章敬寺の鏡霜法師に勅令して諸寺に於て弥陀念

仏の教を伝え寺毎に三日巡輪して絶えず同じく二年廻鶻国の軍兵等・唐の界を侵す同じく三年河北の節度使・忽

ち乱を起こす其の後大蕃国更に命を拒む廻鶻国重ねて地を奪いぬ、凡そ兵乱秦項の代に同じく災火邑里の際に起

る何に況や武宗大に仏法を破し多く寺塔を滅す撥乱すること能わずして逐に以て事有り[已上取意]、是れ則ち

恣に浄土の一門を信じて護国の諸教を仰がざるに依つてなり而るに吾朝一向専修を弘通してより以来・国衰微に

属し俗多く艱難す[已上之を略す]、又云く音の哀楽を以て国の盛衰を知る詩の序に云く治世の音は安んじて以

て楽しむ其の政和げばなり乱世の音は怨んで以て怒る其の政乖けばなり亡国の音は哀んで以て思う其の民は困め

ばなりと云云、近代念

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仏の曲を聞くに理世撫民の音に背き已に哀慟の響を成す是れ亡国の音なる可し [是四]、已上奏状。

 山門の奏状詮を取る此の如し。

 又大和の荘の法印俊範・宝地房の法印宗源・同坊の永尊竪者[後に僧都という並に題者なり]等源空が門徒を

対治せんが為に各各子細を述ぶ其の文広本に在り、又諸宗の明徳面面に書を作りて選択集を破し専修を対治する

書籍世に伝う。

 宣旨篇

 南都北嶺の訴状に依つて専修を対治し行者を流罪す可きの由度度の宣旨の内今は少を載せ多を省く委くは広本

に在り。

 永尊竪者の状に云く弾選択等上送せられて後・山上に披露す弾選択に於ては人毎に之を翫び顕選択は諸人之を

謗ず法然上人の墓所は感神院の犬神人に仰付て之を破郤せしめ畢んぬ其の後奏聞に及んで裁許を蒙り畢んぬ、七

月の上旬に法勝寺の御八講の次山門より南都に触れて云く清水寺・祇園の辺・南都山門の末寺たるの処に専修の

輩身を容れし草菴に於ては悉く破郤せしめ畢んぬ其の身に於ては使庁に仰せて之を搦め取らるるの間・礼讃の声

黒衣の色・京洛の中に都て以て止め畢んぬ、張本三人流罪に定めらると雖も逐電の間未だ配所に向わず山門今に

訴え申し候なり。

 此の十一日の僉議に云く法然房所造の選択は謗法の書なり天下に之を止め置く可からず仍つて在在所所の所持

並に其の印板を大講堂に取り上げ三世の仏恩を報ぜんが為に焼失すべきの由奏聞仕り候い畢んぬ重ねて仰せ下さ

れ候か、恐恐。

嘉禄三年十月十五日

 専修念仏の張本成覚法師・讃岐の大手嶋に経回すと云云実否分明ならず慥に知を加えらる可きの由・山門の

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人申す相尋ね申さしめ給う可きの由殿下の御気色候う所なり仍つて執達件の如し。

 嘉禄三年十月二十日                   参議範輔在り判

   修理権亮殿

 関東より宣旨の御返事 隆寛律師の事、右大弁宰相家の御奉書披露候い畢んぬ、件の律師去る七月の比・下向

せしむ鎌倉近辺に経回すると雖も京都の制符に任せ念仏者を追放せらるるの間奥州の方へ流浪せしめ畢んぬ云云

、早く在所を尋ね捜して仰せ下さるるの旨に任せ対馬の嶋に追遣可きなり、此の旨を以て言上せしむ可きの状鎌

倉殿の仰せに依つて執達件の如し。

  嘉禄三年十月十五日                  武蔵守在り判

                             相模守在り判

    掃部助殿

    修理亮殿

 専修念仏の事、停廃の宣下重畳の上偸かに尚興行するの条更に公家の知しめす所にあらず偏に有司の怠慢たり

早く先符に任せて禁遏せらる可し、其の上衆徒の蜂起に於いては宜く制止を加えしめ給うべし天気に依つて言上

件の如し、信盛・頓首恐惶謹言

  嘉禄三年六月二十九日                 左衛門権佐信盛奉

  進上 天台座主大僧正御房政所

右弁官下す                      延暦寺

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 早く僧の隆寛・幸西・空阿弥陀仏の土縁を取り進すべき事の書・権大納言源朝臣雅親勅を宣奉するに件の隆寛

等の坐せらるること配流宜く彼の寺に仰せて度縁を取り進せしむ可し、者れば宜く承知して宣に依つて之を行う

べし違失ある可からず。

  嘉禄三年七月六日                    左太史小槻宿禰在り判          

                    左少弁藤原朝臣在り判 大政官の符・五畿内の諸国司まさに宜く専

修念仏の興行を停廃し早く隆寛・幸西・空阿弥陀仏等の遺弟の留まる処に禁法を犯す所の輩を捉え搦むべきの事

 弘仁聖代の格条眼に在り左大臣勅を宣奉し宜く五畿七道に課せて興行の道を停廃し違犯の身を捉え搦むべし、

者れば諸国司宜く承知して宣に依つて之を行え符到らば奉行を致せ。

  嘉禄三年七月十七日  正四位下行右中弁藤原朝臣

             修理東大寺大仏長官正五位下左大史兼備前権介小槻宿禰

 専修念仏興行の輩停止す可きの由五畿七道に宣下せられ候い畢んぬ、且つは御存知有る可く候、者れば綸言此

の如し之を悉にせよ、頼隆・誠恐頓首謹言。

  嘉禄三年七月十三日                    右中弁頼隆在り判

  進上  天台座主大僧正御房政所

 隆寛対馬の国に改めらる可きの由宣下せられ畢んぬ、其の由御下知有る可きの旨仰せ下さる所に候なり此の趣

を以て申し入れしめ給う可きの状件の如し。

                               右中弁頼隆在り判

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    中納言律師御房

 隆寛律師専修の張本たるに依つて山門より訴え申すの間・陸奥に配流せられ畢んぬ而るに衆徒尚申す旨有り仍

つて配所を改めて対馬の嶋に追い遣らる可きなり、当時東国の辺に経回すと云云不日に彼の島に追い遣らる可き

の由関東に申さる可し、者れば殿下の御気色に依つて執達件の如し。

  嘉禄三年九月二十六日                  参議在り判

    修理権亮殿

 専修念仏の事、京畿七道に仰せて永く停止せらる可きの由・先日宣下せられ候い畢んぬ、而るに諸国に尚其の

聞え有りと云云、宣旨の状を守りて沙汰致す可きの由・地頭・守護所等に仰付けらる可きの由・山門訴え申し候

御下知有る可く候、此の旨を以て沙汰申さしめ給う可きの由殿下の御気色候所なり、仍つて執達件の如し。

  嘉禄三年十月十日                    参議在り判

    武蔵守殿

 嵯峨に下されし院宣

 近頃破戒不善の輩厳禁に拘わらず猶専修念仏を企つるの由其の聞え有り、而るに先師法眼存日の時・清涼寺の

辺に多く以て止住すと云云、遺跡を相継ぎて若し同意有らば彼の寺の執務縦い相承の理を帯すとも免許の義有る

可からざるなり、早く此の旨を存して禁止せしめ給う可し院宣此くの如し仍つて執達件の如し。

  建保七年二月四日                    按 察 使在り判

    治部卿律師御房

謹んで請う 院宣一紙

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 右当寺四至の内に破戒不善の専修念仏の輩法に任せて制止ある可く候更に以て芳心有る可からず候、若し猶寺

家の力に拘わらずんば事の由を申し上ぐ可く候、謹んで請くる所件の如し。

  建保七年閏二月四日                   権律師良暁

左弁官下す 綱所

 まさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断せしむべき事。

 右・左大臣勅を宣奉す、専修念仏の行は諸宗衰微の基なり、仍つて去る建永二年の春厳制五箇条の裁許を以て

せる官符の施行先に畢んぬ、傾く者は進んでは憲章を恐れず退いては仏勅を憚からず或は梵宇を占め或は聚洛に

交わる破戒の沙門・党を道場に結んで偏に今按の佯を以てす仏号を唱えんが為に妄りに邪音を作し将に蕩して人

心を放逸にせんとす、見聞満座の処には賢善の形を現ずと雖も寂寞破の夕には流俗の睡りに異ならず是れ則ち

発心の修善に非ず濫行の奸謀を企つるなり豈仏陀の元意僧徒の所行と謂わんや。

 宜しく有司に仰せて慥に糾断せしむべし若し猶違犯の者は罪科の趣き一に先符に同じ但し道心修行の人をして

以て仏法違越の者に濫ぜしむること莫れ更に弥陀の教説を忽せにするに非ず只釈氏の法文を全からしめんとなり

、兼ては又諸寺執務の人・五保監行の輩聞知して言わずんば与同罪會つて寛宥せざれ、者れば宜しく承知して宣

旨に依つて之を行うべし。

   建保七年閏二月八日                  太史小槻宿禰在り判

 謹んで請く 綱所

宣旨一通載せらるるはまさに諸寺の執務人に下知して専修念仏の輩を糾断せしむべき事。

右宣旨の状に任せ諸寺に告げ触る可きの状謹んで請くる所件の如し。

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  建保七年閏二月二十二日之を行う。

 頃年以来無慚の徒・不法の侶・如如の戒行を守らず処処の厳制を恐れず恣に念仏の別宗を建て猥りに衆僧の勤

学を謗ず、しかのみならず内には妄執を凝らして仏意に乖き外には哀音を引いて人心を蕩かす遠近併ら専修の一

行に帰し緇素殆んど顕密の両教を褊す仏法の衰滅而も斯に由る自由の奸悪誠に禁じても余り有り。

 是を以て教雅法師に於ては本源を温ねて遠流し此の外同行の余党等慥かに其の行を帝土の中に停廃し悉く其の

身を洛陽の外に追郤せよ但し或は自行の為或は化他の為に至心専念・如法修行の輩に於ては制の限りに在らず。

  天福二年六月晦日                    藤原中納言権弁奉る

  [天福二年文暦と改む四条院の御宇後堀河院の太子なり、武蔵前司入道殿の御時。] 祇園の執行に仰せ付

けらるる山門の下知状。

 大衆の僉議に云く専修念仏者・天下に繁昌す是れ則ち近年山門無沙汰の致す所なり、件の族は八宗仏法の怨敵

なり円頓行者の順魔なり、先ず京都往返の類・在家称名の所に於ては例に任せ犬神人に仰せて宜しく停止せしむ

べし云云、者れば大衆僉議の旨斯くの如し早く先例に任せ犬神人等に仰せ含めて専修念仏者を停止せしめ給う可

し云云、恐恐謹言。

   延応二年五月十四日                  公文勾当審賢

   [四条院の御宇武蔵前司殿の御時。]

   謹上 祇園の執行法眼御房

逐つて申す、去る夜・大衆僉議して先ず此の異名に於て殊に犬神人に付けて之を責む可きの由仰せ含めぬ仍つ

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て実名之を獻ず、専修念仏の張本の事・唯仏・鏡仏・智願・定真・円真・正阿弥陀仏・名阿弥陀仏・善慧・道弁

・真如堂狼藉の張本なり已上、唐橋油小路並に八条大御堂六波羅の総門の向いの堂?已上・当時興行の所なり。

 延暦寺 別院雲居寺

 早く一向専修の悪行を禁断す可き事

 右頃年以来、愚蒙の結党・の会衆を名けて専修と曰いラ閭に旁ねし心に一分の慧解無く口に衆罪の悪言を

吐き言を一念十声の悲願に寄せて敢て三毒五蓋の重悪を憚からず盲暝の輩是非を弁えず唯情に順ずるを以て多く

愚誨に信伏す、持戒修善の人を笑うて之を雑行と号し鎮国護王の教を謗りて之を魔業と称す諸善を擯棄し衆悪を

選択し罪を山岳に積み報を泥梨に招く毒気深く入つて禁じても改むること無く偏に欲楽を嗜んで自ら止むこと能

わず、猶蒼蝿の唾の為に黏さるるが如く、何ぞ狂狗の雷を逐うて走るに異ならん、恣ままに三寸の舌を振いて衆

生の眼目を抜き五尺の身を養わんが為に諸仏の肝心を滅す、併ら只仏法の怨魔と為り専ら緇門の妖怪と謂う可し

 是を以て邪師存生の昔は永く罪条に沈み、滅後の今は亦屍骨を刎らる其の徒・住蓮と安楽とは死を原野に賜い

成覚と薩生とは刑を遠流に蒙りぬ此の現罰を以て其の後報を察す可し、方に今且は釈尊の遺法を護らんが為且は

衆生の塗炭を救わんが為に宜く諸国の末寺・荘園・神人・寄人等に仰せて重ねて彼の邪法を禁断すべし縦い片時

と雖も彼の凶類を寄宿せしむ可からず縦い一言と雖も其の邪説を聴受す可からず、若し又山門所部の内に専修興

行の輩有らば永く重科に処して寛宥有ること勿れ、者れば三千衆徒の僉議に依つて仰す所件の如し。

  延応二年 山門申状

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 近来二つの妖怪有り人の耳目を驚かす所謂達磨の邪法と念仏の哀音となり。

 顕密の法門に属せず王臣の祈請を致さず誠に端拱にして世を蔑り暗証にして人を軽んず小生の浅識を崇めて見

性成仏の仁と為し耆年の宿老を笑うて螻蟻オカの類に擬す論談を致さざれば才の長短を表さず決択に交らざれば

智の賢愚を測らず、唯牆壁に向うて独り道を得たりと謂い三依纔に紆い七慢専ら盛なり長く舒巻を抛つ附仏法の

外道吾が朝に既に出現す、妖怪の至り慎まずんばあるべからず何ぞ強ちに亡国流浪の僧を撰んで伽藍伝持の主と

為さんや。

 御式目に云く右大将家以後・代代の将軍並に二位殿の御時に於ての事・一向に御沙汰を改ること無きか、追加

の状に云く嘉禄元年より仁治に至るまで御成敗の事・正嘉二年二月十日評定、右自今以後に於ては三代の将軍並

に二位家の御成敗に準じて御沙汰を改むるに及ばずと云云。

 念仏停廃の事、宣旨御教書の趣き南都北嶺の状粗此くの如し、日蓮x弱為りと雖も勅宣並に御下知の旨を守り

て偏に南北明哲の賢懐を述ぶ猶此の義を棄置せらるるに非ずんば綸言徳政を故らる可きか将た御下知を仰せらる

る可きか、称名念仏の行者又賞翫せらると雖も既に違勅の者なり関東の御勘気未だ御免許をも蒙らず何ぞ恣に関

東の近住を企てんや、就中武蔵前司殿の御下知に至りては三代の将軍並に二位家の御沙汰に準じて御沙汰を改む

ること有る可からずと云云。

 然るに今念仏者何の威勢に依つてか宣旨に背くのみに非ず御下知を軽蔑して重ねて称名念仏の専修を結構せん

人に依つて事異なりと云う此の謂在るか、何ぞ恣に華夷縦横の経回を致さんや。

 勘文篇 念仏者追放宣旨御教書の事

P0097