題目弥陀名号勝劣事

題目弥陀名号勝劣事

 南無妙法蓮華経と申す事は唱えがたく南無阿弥陀仏南無薬師如来なんど申す事は唱えやすく又文字の数の程も

大旨は同けれども功徳の勝劣は遥に替りて候なり、天竺の習ひ仏出世の前には二天三仙の名号を唱えて天を願ひ

けるに仏世に出させ給いては仏の御名を唱ふ、然るに仏の名号を二天三仙の名号に対すれば天の名は瓦礫のごと

し仏の名号は金銀如意宝珠等のごとし、又諸仏の名号は題目の妙法蓮華経に対すれば瓦礫と如意宝珠の如くに侍

るなり、然るを仏教の中の大小権実をも弁へざる人師なんどが仏教を知りがほにして仏の名号を外道等に対して

如意宝珠に譬へたる経文を見又法華経の題目を如意宝珠に譬へたる経文と喩の同きをもつて念仏と法華経とは同

じ事と思へるなり、同じ事と思う故に又世間に貴と思う人の只弥陀の名号計を唱うるに随つて皆人一期の間一日

に六万遍十万遍なんど申せども法華経の題目をば一期に一遍も唱へず、或は世間に智者と思はれたる人人外には

智者気にて内には仏教を弁へざるが故に念仏と法華経とは只一なり南無阿弥陀仏と唱うれば法華経を一部よむに

て侍るなんど申しあへり是は一代の諸経の中に一句一字もなき事なり、設ひ大師先徳の釈の中より出たりとも且

は観心の釈か且はあて事かなんど心得べし、法華経の題目は過去に十万億の生身の仏に値ひ奉つて功徳を成就す

る人初めて妙法蓮華経の五字の名を聞き始めて信を致すなり、諸仏の名号は外道諸天二乗菩薩の名号にあはすれ

ば瓦礫と如意宝珠の如くなれども法華経の題目に対すれば又瓦礫と如意宝珠との如し、当世の学者は法華経の題

目と諸仏の名号とを功徳ひとしと思ひ又同じ事と思へるは瓦礫と如意宝珠とを同じと思ひ一と思うが如し、止観

の五に云く「設い世を厭う者も下劣の乗を翫び枝葉に攀付し狗作務に狎れz猴を敬いて帝釈と為し

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瓦礫を崇めて是明珠なりとす此の黒闇の人豈道を論ず可けんや」等云云、文の心は設ひ世をいとひて出家遁世し

て山林に身をかくし名利名聞をたちて一向後世を祈る人人も法華経の大乗をば修行せずして権教下劣の乗につき

たる名号等を唱うるを瓦礫を明珠なんどと思いたる僻人に譬へ闇き悪道に行くべき者と書れて侍るなり、弘決の

一には妙楽大師善住天子経をかたらせ給いて法華経の心を顕はして云く「法を聞いて謗を生じ地獄に堕するは恒

沙の仏を供養する者に勝る等」云云、法華経の名を聞いてそしる罪は阿弥陀仏釈迦仏薬師仏等の恒河沙の仏を供

養し名号を唱うるにも過ぎたりされば当世の念仏者の念仏を六万遍乃至十万遍申すなんど云へども彼にては終に

生死をはなるべからず、法華経を聞くをば千中無一雑行未有一人得者なんど名けて或は抛よ或は門を閉じよなん

ど申す謗法こそ設ひ無間大城に堕るとも後に必生死は離れ侍らんずれ、同くは今生に信をなしたらばいかによく

候なん。

 問う世間の念仏者なんどの申す様は此身にて法華経なんどを破する事は争か候べき念仏を申すもとくとく極楽

世界に参りて法華経をさとらんが為なり、又或は云く法華経は不浄の身にては叶ひがたし恐れもあり念仏は不浄

をも嫌はねばこそ申し候へなんど申すはいかん、答えて云く此の四五年の程は世間の有智無智を嫌はず此の義を

ばさなんめりと思いて過る程に日蓮一代聖教をあらあら引き見るにいまだ此の二義の文を勘へ出さず詮ずるとこ

ろ近来の念仏者並に有智の明匠とおぼしき人人の臨終の思うやうにならざるは是大謗法の故なり、人ごとに念仏

申して浄土に生れて法華経をさとらんと思う故に穢土にして法華経を行ずる者をあざむき又行ずる者もすてて念

仏を申す心は出来るなりと覚ゆ謗法の根本此の義より出たり、法華経こそ此の穢土より浄土に生ずる正因にては

侍れ念仏等は未顕真実の故に浄土の直因にはあらず、然るに浄土の正因をば極楽にして後に修行すべき物と思ひ

極楽の直因にあらざる念仏をば浄土の正因と思う事僻案なり、浄土門は春沙を田に蒔いて秋米を求め天月をすて

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て水に月を求るに似たり人の心に叶いて法華経を失ふ大術此の義にはすぎず、次に不浄念仏の事一切念仏者の師

とする善導和尚法然上人は他事にはいわれなき事多けれども此の事にをいてはよくよく禁められたり、善導の観

念法門経に云く酒肉五辛を手に取らざれ口にかまざれ手にとり口にもかみて念仏を申さば手と口に悪瘡付くべし

と禁め法然上人は起請を書いて云く酒肉五辛を服して念仏申さば予が門弟にあらずと云云、不浄にして念仏を申

すべしとは当世の念仏者の大妄語なり。

 問うて云く善導和尚法然上人の釈を引くは彼の釈を用るや否や、答えて云くしからず念仏者の師たる故に彼が

ことば己が祖師に相違するが故に彼の祖師の禁めをもて彼を禁るなり、例せば世間の沙汰の彼が語の彼の文書に

相違するを責るが如し、問うて云く善導和尚法然上人には何事の失あれば用いざるや、答えて云く仏の御遺言に

は我が滅度の後には四依の論師たりといへども法華経にたがはば用うべからずと涅槃経に返す返す禁め置かせ給

いて侍るに法華経には我が滅度の後末法に諸経失せて後殊に法華経流布すべき由一所二所ならずあまたの所に説

かれて侍り、随つて天台妙楽伝教安然等の義に此事分明なり、然るに善導法然法華経の方便の一分たる四十余年

の内の未顕真実の観経等に依つて仏も説かせ給はぬ我が依経の読誦大乗の内に法華経をまげ入れて還つて我が経

の名号に対して読誦大乗の一句をすつる時法華経を抛てよ門を閉じよ千中無一なんど書いて侍る僻人をば眼あら

ん人是をば用うべしやいなや。

 疑つて云く善導和尚は三昧発得の人師本地阿弥陀仏の化身口より化仏を出せり、法然上人は本地大勢至菩薩の

化身既に日本国に生れては念仏を弘めて頭より光を現ぜり争か此等を僻人と申さんや、又善導和尚法然上人は汝

が見る程の法華経並に一切経をば見給はざらんや定めて其の故是あらんか、答えて云く汝が難ずる処をば世間の

人人定めて道理と思はんか、是偏に法華経並に天台妙楽等の実経実義を述べ給へる文義を捨て善導法然等の

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謗法の者にたぼらかされて年久くなりぬるが故に思はする処なり、先ず通力ある者を信ぜば外道天魔を信ずべき

か或る外道は大海を吸干し或る外道は恒河を十二年まで耳に湛えたり第六天の魔王は三十二相を具足して仏身を

現ず、阿難尊者猶魔と仏とを弁へず善導法然が通力いみじしというとも天魔外道には勝れず、其の上仏の最後の

禁しめに通を本とすべからずと見えたり、次に善導法然は一切経並に法華経をばおのれよりも見たりなんどの疑

ひ是れ又謗法の人のためにはさもと思ひぬべし、然りといへども如来の滅後には先の人は多分賢きに似て後の人

は大旨ははかなきに似たれども又先の世の人の世に賢き名を取りてはかなきも是あり、外典にも三皇五帝老子孔

子の五経等を学びて賢き名を取れる人も後の人にくつがへされたる例是れ多きか、内典にも又かくの如し、仏法

漢土に渡りて五百年の間は明匠国に充満せしかども光宅の法雲道場の慧観等には過ぎざりき、此等の人人は名を

天下に流し智水を国中にそそぎしかども天台智者大師と申せし末の人彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば

初には用ひず後には信用を加えし時始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えしなり、日本国にも仏法渡

りて二百余年の間は異義まちまちにして何れを正義とも知らざりし程に伝教大師と申す人に破られて前二百年の

間の私義は破られしなり、其の時の人人も当時の人の申す様に争か前前の人は一切経並に法華経をば見ざるべき

定めて様こそあるらめなんと申しあひたりしかども叶はず経文に違ひたりし義どもなれば終に破れて止みにき、

当時も又かくの如し此の五十余年が間は善導の千中無一法然が捨閉閣抛の四字等は権者の釈なればゆへこそあら

んと思いてひら信じに信じたりし程に日蓮が法華経の或は悪世末法時或は於後末世或は令法久住等の文を引きむ

かへて相違をせむる時我が師の私義破れて疑いあへるなり、詮ずるところ後五百歳の経文の誠なるべきかの故に

念仏者の念仏をもて法華経を失ひつるが還つて法華経の弘まらせ給うべきかと覚ゆ、但し御用心の御為に申す世

間の悪人は魚鳥鹿等を殺して世路を渡る、

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此等は罪なれども仏法を失ふ縁とはならず懺悔をなさざれば三悪道にいたる、又魚鳥鹿等を殺して売買をなして

善根を修する事もあり、此等は世間には悪と思はれて遠く善となる事もあり、仏教をもつて仏教を失ふこそ失ふ

人も失ふとも思はず只善を修すると打ち思うて又そばの人も善と打ち思うてある程に思はざる外に悪道に堕つる

事の出来候なり、当世には念仏者なんどの日蓮に責め落されて我が身は謗法の者なりけりと思う者も是あり、聖

道の人人の御中にこそ実の謗法の人人は侍れ彼の人人の仰せらるる事は法華経を毀る念仏者も不思議なり念仏者

を毀る日蓮も奇怪なり、念仏と法華とは一体の物なり、されば法華経を読むこそ念仏を申すよ念仏申すこそ法華

経を読むにては侍れと思う事に候なりとかくの如く仰せらるる人人聖道の中にあまたをはしますと聞ゆ、随つて

檀那も此の義を存じて日蓮並に念仏者をおこがましげに思へるなり先日蓮が是れ程の事をしらぬと思へるははか

なし。

 仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平なり渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝開元十八年なり、渡れるところの経

律論五千四十八巻訳者一百七十六人其の経経の中に南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経なりと申す経は一巻一品も

おはしまさざる事なり、其の上阿弥陀仏の名を仏説き出し給う事は始め華厳より終り般若経に至るまで四十二年

が間に所所に説かれたり、但し阿含経をば除く一代聴聞の者是を知れり、妙法蓮華経と申す事は仏の御年七十二

成道より已来四十二年と申せしに霊山にましまして無量義処三昧に入り給いし時文殊弥勒の問答に過去の日月燈

明仏の例を引いて我燈明仏を見る乃至法華経を説かんと欲すと先例を引きたりし時こそ南閻浮提の衆生は法華経

の御名をば聞き初めたりしか、三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時十六の王子として

法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を

習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず、妙法蓮華経

は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よ

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と物知りがほに申し侍るなり、日蓮幼少の時習いそこなひの天台宗真言宗に教へられて此の義を存じて数十年の

間ありしなり、是れ存外の僻案なり但し人師の釈の中に一体と見えたる釈どもあまた侍る、彼は観心の釈か或は

仏の所証の法門につけて述たるを今の人弁へずして全体一なりと思いて人を僻人に思うなり、御y迹あるべきな

り、念仏と法華経と一つならば仏の念仏説かせ給いし観経等こそ如来出世の本懐にては侍らめ、彼をば本懐とも

をぼしめさずして法華経を出世の本懐と説かせ給うは念仏と一体ならざる事明白なり、其の上多くの真言宗天台

宗の人人に値い奉りて候し時此の事を申しければされば僻案にて侍りけりと申す人是れ多し、敢て証文に経文を

書いて進ぜず候はん限りは御用ひ有るべからず是こそ謗法となる根本にて侍れ、あなかしこあなかしこ。

                             日 蓮 花 押

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