法華浄土問答抄

法華浄土問答抄

                  理即

                  名字即   三諦の名を聞く

           穢土     観行即   五品を明す

                        八十八使の見惑を断ず

法華宗立六即            相似即   八十一品の思惑を断ず

                        九品の塵沙を断ず

                  分真即   四十一品の無明を断ず

           報土

                  究竟即   一品の無明を断ず

                        中品戒行世善等

           穢土     理即

                        浄土下品

                  名字即

浄土宗の所立            観行即

           報土     相似即

                  分真即

                  究竟即

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 弁成の立、我が身叶い難きが故に且く聖道の行を捨閉し閣抛し浄土に帰し浄土に往生して法華を聞いて無生を

悟ることを得べきなり。

 日蓮難じて云く、我が身叶い難ければ穢土に於て法華経等教主釈尊等を捨閉し閣抛し浄土に至つて之を悟る可

し等云云、何れの経文に依つて此くの如き義を立つるや、又天台宗の報土は分真即究竟即浄土宗の報土は名字即

乃至究竟即等とは何れの経論釈に出でたるや、又穢土に於ては法華経等教主釈尊等を捨閉し閣抛し浄土に至つて

法華経を悟る可しとは何れの経文に出でたるや。

 弁成の立に、余の法華等の諸行等を捨閉し閣抛して念仏を用ゆる文は観経に云く「仏阿難に告ぐ汝好く是の語

を持て是の語を持つ者は即ち是れ無量寿仏の名を持つ」文、浄土に往生して法華を聞くと云う事は文に云く「観

世音大勢至大悲の音声を以つて其れが為に広く諸法実相除滅罪法を説く、聞き已つて歓喜し時に応じて即菩提の

心を発す」文、余は繁き故に且く之を置く。

 又日蓮難じて云く、観無量寿経は如来成道四十余年の内なり法華経は後八箇年の説なり如何んが已説の観経に

兼ねて未説の法華経の名を載せて捨閉閣抛の可説と為す可きや、随つて「仏告阿難」等の文に至つては只弥陀念

仏を勧進する文なり未だ法華経を捨閉し閣抛することを聞かず、何に況や無量義経に法華経を説かんが為に先ず

四十余年の已説の経経を挙げて未顕真実と定め畢んぬ、豈未顕真実の観経の内に已顕真実の法華経を挙げて捨て

乃至之を抛てと為す可きや、又云く「久しく此の要を黙して務めて速かに説かず」等云云、既に教主釈尊四十余

年の間法華の名字を説かず何ぞ已説観経の念仏に対して此の法華経を抛たんや、次ぎに「下品下生諸法実相除滅

罪法等」云云、夫れ法華経已前の実相其の数一に非ず先ず外道の内の長爪の実相内道の内の小乗乃至爾前の四教

皆所詮の理は実相なり、何ぞ必ずしも已説の観経に載する所の実相のみ法華経に同じと意得べきや、今度慥なる

証文を出して法然上人の無間の苦を救わるべきか。

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 又弁成の立に、観経は已説の経なりと雖も未来を面とする故に未来の衆生は未来に有る所の経巻之を読誦して

浄土に往生すべし、既に法華等の諸経未来流布の故に之れを読誦して往生すべきか、其の法華を捨閉閣抛し観経

の持無量寿仏の文に依つて法然是くの如く行じ給うか、観経の持無量寿仏の文の上に諸善を説き一向に無量寿仏

を勧持せる故に申せしめ候、実相に於いても多く有りと云う難、彼は浄土の故に此の難来るべからず、法然上人

聖道の行機堪え難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す、故に是れ慈悲の至進なれば此の慈悲を以て浄土に往生し

全く地獄に堕すべからざるか。

 日蓮難じて云く、観経を已説の経なりと云云、已説に於ては承伏か、観経の時未だ法華経を説かずと雖も未来

を鑒みて捨閉閣抛すべしと法然上人は意得給うか云云、仏未来を鑒みて已説の経に未来の経を載せて之を制止す

と云わば已説の小乗経に未説の大乗経を載せて之を制止すべきか、又已説の権大乗経に未説の実大乗経を載せて

未来流布の法華経を制止せば、何が故に仏爾前経に於て法華の名を載せざる由、之を説きたまうや。

 法然上人慈悲の事、慈悲の故に法華経と教主釈尊とを抛つなりと云わば所詮上に出す所の証文は未だ分明なら

ず慥なる証文を出して法然上人の極苦を救わる可きか、上の六品の諸行往生を下の三品の念仏に対して諸行を捨

つ豈法華を捨つるに非ずや等云云、観無量寿経の上六品の諸行は法華已前の諸行なり、設い下の三品の念仏に対

して上六品の諸行之を抛つとも但法華経は諸行に入らず何ぞ之を閣かんや、又法華の意は爾前の諸行と観経の念

仏と共に之を捨て畢りて如来出世の本懐を遂げ給うなり、日蓮管見を以て一代聖教並びに法華経の文を勘うるに

未だ之を見ず、法華経の名を挙げて或は之を抛ち或は其の門を閉ずる等と云う事を、若し爾らば法然上人の憑む

所の弥陀本願の誓文並びに法華経の入阿鼻獄の釈尊の誡文如何ぞ之を免る可けんや、法然上人無間獄に堕せば

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所化の弟子並びに諸檀那等共に阿鼻大城に堕ちんか、今度分明なる証文を出して法然上人の阿鼻の炎を消さる可

し云云。

=  文永九年[太歳壬申]正月十七日          日 蓮  花 押

                            弁 成  花 押