真言見聞

真言見聞  / 文永九年七月  五十一歳御作

+            与三位房日行

 問う真言亡国とは証文何なる経論に出ずるや、答う法華誹謗正法向背の故なり、問う亡国の証文之無くば云何

に信ず可きや、答う謗法の段は勿論なるか若し謗法ならば亡国堕獄疑い無し、凡そ謗法とは謗仏謗僧なり三宝一

体なる故なり是れ涅槃経の文なり、爰を以て法華経には「即ち一切世間の仏種を断ず」と説く是を即ち一闡提と

名づく涅槃経の一と十と十一とを委細に見る可きなり、罪に軽重有れば獄に浅深を構えたり、殺生偸盗等乃至一

大三千世界の衆生を殺害すれども等活黒繩等の上七大地獄の因として無間に堕つることは都て無し、阿鼻の業因

は経論の掟は五逆七逆因果撥無正法誹謗の者なり、但し五逆の中に一逆を犯す者は無間に堕つと雖も一中劫を経

て罪を尽して浮ぶ、一戒をも犯さず道心堅固にして後世を願うと雖も法華に背きぬれば無間に堕ちて展転無数劫

と見えたり、然れば即ち謗法は無量の五逆に過ぎたり、是を以て国家を祈らんに天下将に泰平なるべしや、諸法

は現量に如かず承久の兵乱の時関東には其の用意もなし国主として調伏を企て四十一人の貴僧に仰せて十五壇の

秘法を行はる、其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行わる七日に満ぜし日京方負け畢んぬ亡国の現証

に非ずや、是は僅に今生の小事なり権教邪法に依つて悪道に堕ちん事浅かるべし。

P0143

 問う権教邪宗の証文は如何既に真言教の大日覚王の秘法は即身成仏の奥蔵なり、故に上下一同に是の法に帰し

天下悉く大法を仰ぐ海内を静め天下を治むる事偏に真言の力なり、権教邪法と云う事如何、答う権教と云う事四

教含蔵帯方便の説なる経文顕然なり、然れば四味の諸教に同じて久遠を隠し二乗を隔つ況んや尽形寿の戒等を述

ぶれば小乗権教なる事疑無し、爰を以て遣唐の疑問に禅林寺の広修国清寺の維閧フ決判分明に方等部の摂と云う

なり、疑つて云く経文の権教は且く之を置く唐決の事は天台の先徳円珍大師之を破す、大日経の指帰に「法華す

ら尚及ばず況や自余の教をや」云云、既に祖師の所判なり誰か之に背く可きや、決に云く「道理前の如し」依法

不依人の意なり但し此の釈を智証の釈と云う事不審なり、其の故は授決集の下に云く「若し法華華厳涅槃等の経

に望めば是れ摂引門」と云へり、広修維閧破する時は法華尚及ばずと書き授決集には是れ摂引門と云つて二義

相違せり指帰が円珍の作ならば授決集は智証の釈に非ず、授決集が実ならば指帰は智証の釈に非じ、今此の事を

案ずるに授決集が智証の釈と云う事天下の人皆之を知る上、公家の日記にも之を載せたり指帰は人多く之を知ら

ず公家の日記にも之無し、此を以つて彼を思うに後の人作つて智証の釈と号するが能く能く尋ぬ可き事なり、授

決集は正しき智証の自筆なり、密家に四句の五蔵を設けて十住心を立て論を引き伝を三国に寄せ家家の日記と号

し我が宗を厳るとも皆是れ妄語胸臆の浮言にして荘厳己義の法門なり、所詮法華経は大日経より三重の劣戯論の

法にして釈尊は無明纒縛の仏と云う事慥なる如来の金言経文を尋ぬ可し、証文無くんば何と云うとも法華誹謗の

罪過を免れず此の事当家の肝心なり返す返す忘失する事勿れ、何れの宗にも正法誹謗の失之有り対論の時は但此

の一段に在り仏法は自他宗異ると雖も翫ぶ本意は道俗貴賎共に離苦得楽現当二世の為なり、謗法に成り伏して悪

道に堕つ可くば文殊の智慧富楼那の弁説一分も無益なり無間に堕つる程の邪法の行人にて国家を祈祷せんに将た

善事を成す可きや、顕密対判の釈は且らく之を置く華厳に法華劣ると云う事能く能く

P0144

思惟す可きなり、華厳経の十二に云く[四十華厳なり]「又彼の所修の一切功徳六分の一常に王に属す○是くの

如く修及び造を障る不善所有の罪業六分の一還つて王に属す」文、六波羅蜜経の六に云く「若し王の境内に殺を

犯す者有れば其の王便ち第六分の罪を獲ん偸盗邪行及び妄語も亦復是くの如し何を以ての故に若しは法も非法も

王為れ根本なれば罪に於いても福に於いても第六の一分は皆王に属するなり」云云、最勝王経に云く「悪人を愛

敬し善人を治罰するに由るが故に他方の怨賊来り国人喪乱に遭わん」等云云、大集経に云く「若し復諸の刹利国

王諸の非法を作し世尊の声聞の弟子を悩乱し若しは以て毀罵し刀杖もて打斫し及び衣鉢種種の資具を奪い若しは

他の給施に留難を作す者有らば、我等彼をして自然に卒に他方の怨敵を起さしめ及び自の国土にも亦兵起疫病饑

饉非時風雨闘諍言訟せしめ又其の王久しからずして復当に己が国を亡失すべからしむ」云云、大三界義に云く「

爾の時に諸人共に聚りて衆の内に一の有徳の人を立て名けて田主と為して各所収の物六分の一を以て以て田主に

貢輸す一人を以て主と為し政法を以て之を治む、茲に因つて以後刹利種を立て大衆欽仰して恩率土に流る復大三

末多王と名ずく」〔已上倶舎に依り之を出すなり。〕

 顕密の事、無量義経十功徳品に云く[第四功徳の下]「深く諸仏秘密の法に入り演説す可き所違無く失為し」

と、抑大日の三部を密説と云ひ法華経を顕教と云う事金言の所出を知らず、所詮真言を密と云うは是の密は隠密

の密なるか微密の密なるか、物を秘するに二種有り一には金銀等を蔵に篭むるは微密なり、二には疵片輪等を隠

すは隠密なり、然れば即ち真言を密と云うは隠密なり其の故は始成と説く故に長寿を隠し二乗を隔つる故に記小

無し、此の二は教法の心髄文義の綱骨なり、微密の密は法華なり、然れば即ち文に云く四の巻法師品に云く「薬

王此の経は是れ諸仏秘要の蔵なり」云云、五の巻安楽行品に云く「文殊師利此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり

諸経の中に於て最も其の上に在り」云云、寿量品に云く「如来秘密神通之力」云云、如来神力品に云く「如来一

切秘要之蔵」云云、

P0145

しかのみならず真言の高祖竜樹菩薩法華経を秘密と名づく二乗作仏有るが故にと釈せり、次に二乗作仏無きを秘

密とせずば真言は即ち秘密の法に非ず、所以は何ん大日経に云く「仏不思議真言相道の法を説いて一切の声聞縁

覚を共にせず亦世尊普く一切衆生の為にするに非ず」云云、二乗を隔つる事前四味の諸教に同じ、随つて唐決に

は方等部の摂と判ず経文には四教含蔵と見えたり、大論第百巻に云く〔第九十品を釈す〕「問うて曰く更に何れ

の法か甚深にして般若に勝れたる者有つて般若を以て阿難に嘱累し而も余の経をば菩薩に嘱累するや、答えて曰

く般若波羅蜜は秘密の法に非ず而も法華等の諸経に阿羅漢の受決作仏を説いて大菩薩能く受用す譬えば大薬師の

能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、玄義の六に云く「譬えば良医の能く毒を変じて薬と為すが如く二乗の根

敗反た復すること能わず之を名づけて毒と為す今経に記を得るは即ち是れ毒を変じて薬と為す、故に論に云く余

経は秘密に非ずとは法華を秘密と為せばなり、復本地の所説有り諸経に無き所後に在つて当に広く明すべし」云

云、籤の六に云く「第四に引証の中論に云く等と言うは大論の文証なり秘密と言うは八経の中の秘密には非ず但

是れ前に未だ説かざる所を秘と為し開し已れば外無きを密と為す」文、文句の八に云く「方等般若に実相の蔵を

説くと雖も亦未だ五乗の作仏を説かず亦未だ発迹顕本せず頓漸の諸経は皆未だ融会せず故に名づけて秘と為す」

文、記の八に云く「大論に云く法華は是れ秘密諸の菩薩に付すと、今の下の文の如きは下方を召すに尚本眷属を

待つ験けし余は未だ堪えざることを」云云、秀句の下に竜女の成仏を釈して「身口密なり」と云えり云云、此等

の経論釈は分明に法華経を諸仏は最第一と説き秘密教と定め給へるを経論に文証も無き妄語を吐き法華を顕教と

名づけて之を下し之を謗ず豈大謗法に非ずや。

 抑も唐朝の善無畏金剛智等法華経と大日経の両経に理同事勝の釈を作るは梵華両国共に勝劣か、法華経も天竺

には十六里の宝蔵に有れば無量の事有れども流沙葱嶺等の険難五万八千里十万里の路次容易ならざる間

P0146

枝葉をば之を略せり、此等は併ながら訳者の意楽に随つて広を好み略を悪む人も有り略を好み広を悪む人も有り

、然れば即ち玄弉は広を好んで四十巻の般若経を六百巻と成し、羅什三蔵は略を好んで千巻の大論を百巻に縮め

たり、印契真言の勝るると云う事是を以て弁え難し、羅什所訳の法華経には是を宗とせず不空三蔵の法華の儀軌

には印真言之有り、仁王経も羅什の所訳には印真言之無し不空所訳の経には之を副えたり知んぬ是れ訳者の意楽

なりと、其の上法華経には「為説実相印」と説いて合掌の印之有り、譬喩品には「我が此の法印世間を利益せん

と欲するが為の故に説く」云云、此等の文如何只広略の異あるか、又舌相の言語皆是れ真言なり、法華経には「

治生の産業は皆実相と相違背せず」と宣べ、亦「是れ前仏経中に説く所なり」と説く此等は如何、真言こそ有名

無実の真言未顕真実の権教なれば成仏得道跡形も無く始成を談じて久遠無ければ性徳本有の仏性も無し、三乗が

仏の出世を感ずるに三人に二人を捨て三十人に二十人を除く、「皆令入仏道」の仏の本願満足す可からず十界互

具は思いもよらずまして非情の上の色心の因果争か説く可きや。

 然らば陳隋二代の天台大師が法華経の文を解りて印契の上に立て給へる十界互具百界千如一念三千を善無畏は

盗み取つて我が宗の骨目とせり、彼の三蔵は唐の第七玄宗皇帝の開元四年に来る如来入滅より一千六百六十四年

か、開皇十七年より百二十余年なり何ぞ百二十余年已前に天台の立て給へる一念三千の法門を盗み取つて我が物

とするや、而るに己が依経たる大日経には衆生の中に機を簡ひ前四味の諸経に同じて二乗を簡へり、まして草木

成仏は思いもよらずされば理を云う時は盗人なり、又印契真言何れの経にか之を簡える若し爾れば大日経に之を

説くとも規模ならず、一代に簡われ諸経に捨てられたる二乗作仏は法華に限れり、二乗は無量無辺劫の間千二百

余尊の印契真言を行ずとも法華経に値わずんば成仏す可からず、印は手の用真言は口の用なり其の主が成仏せざ

れば口と手と別に成仏す可きや、一代に超過し三説に秀でたる二乗の事をば物とせず事に依る時は印真言を尊む

者劣謂勝見の外道なり。

P0147

 無量義経説法品に云く「四十余年未顕真実」文、一の巻に云く「世尊は法久くして後要ず当に真実を説きたも

うべし」文、又云く「一大事の因縁の故に世に出現したもう」文、四の巻に云く「薬王今汝に告ぐ我が所説の諸

経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文、又云く「已に説き今説き当に説かん」文、宝塔品に云く「

我仏道を為つて無量の土に於て始より今に至るまで広く諸経を説く而も其の中に於て此の経第一なり」文、安楽

行品に云く「此の法華経は是れ諸の如来第一の説なり諸経の中に於て最も為甚深なり」文、又云く「此の法華経

は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於て最も其の上に在り」文、薬王品に云く「此の法華経も亦復是くの如し諸

経の中に於て最も為其の上なり」文、又云く「此の経も亦復是くの如し諸経の中に於て最も為其の尊なり」文、

又云く「此の経も亦復是の如し諸経の中の王なり」文、又云く「此の経も亦復是の如し一切の如来の所説若しは

菩薩の所説若しは声聞の所説諸の経法の中に最為第一なり」等云云、玄の十に云く「又已今当の説に最も為れ難

信難解前経は是れ已説なり」文、秀句の下に云く「謹んで案ずるに法華経法師品の偈に云く薬王今汝に告ぐ我が

所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最も第一なり」文、又云く「当に知るべし已説は四時の経なり」文、

文句の八に云く「今法華は法を論ずれば」云云、記の八に云く「鋒に当る」云云、秀句の下に云く「明かに知ん

ぬ他宗所依の経は是れ王中の王ならず」云云、釈迦多宝十方の諸仏天台妙楽伝教等は法華経は真実華厳経は方便

なり、「未だ真実を顕さず正直に方便を捨てて余経の一偈をも受けざれ」「若し人信ぜずして乃至其の人命終し

て阿鼻獄に入らん」と云云。

 弘法大師は「法華は戯論華厳は真実なり」と云云、何れを用う可きや、宝鑰に云く「此くの如き乗乗は自乗に

名を得れども後に望めば戯論と作る」文、又云く「謗人謗法は定めて阿鼻獄に堕せん」文、記の五に云く

P0148

「故に実相の外は皆戯論と名づく」文、梵網経の疏に云く「第十に謗三宝戒亦は謗菩薩戒と云い或は邪見と云う

謗は是れ乖背の名なりEて是れ解理に称わず言は実に当らずして異解して説く者を皆名づけて謗と為すなり」文

、玄の三に云く「文証無き者は悉く是れ邪偽彼の外道に同じ」文、弘の十に云く「今の人他の所引の経論を信じ

て謂いて憑み有りと為して宗の源を尋ねず謬誤何ぞ甚しき」文、守護章上の中に云く「若し所説の経論明文有ら

ば権実大小偏円半満を簡択す可し」文、玄の三に云く「広く経論を引いて己義を荘厳す」文。

 抑弘法の法華経は真言より三重の劣戯論の法にして尚華厳にも劣ると云う事大日経六巻に供養法の巻を加えて

七巻三十一品或は三十六品には何れの品何れの巻に見えたるや、しかのみならず蘇悉地経三十四品金剛頂経三巻

三品或は一巻に全く見えざる所なり、又大日経並びに三部の秘経には何れの巻何れの品にか十界互具之有りや都

て無きなり、法華経には事理共に有るなり、所謂久遠実成は事なり二乗作仏は理なり、善無畏等の理同事勝は臆

説なり信用す可からざる者なり。

 凡そ真言の誤り多き中

一、十住心に第八法華第九華厳第十真言云云何れの経論に出でたるや。

一、善無畏の四句と弘法の十住心と眼前違目なり何ぞ師弟敵対するや。

一、五蔵を立つる時六波羅蜜経の陀羅尼蔵を何ぞ必ず我が家の真言と云うや。

一、震旦の人師争つて醍醐を盗むと云う年紀何ぞ相違するや、其の故は開皇十七年より唐の徳宗の貞元四年戊辰

の歳に至るまで百九十二年なり何ぞ天台入滅百九十二年の後に渡れる六波羅蜜経の醍醐を盗み給う可きや顕然の

違目なり、若し爾れば謗人謗法定堕阿鼻獄というは自責なるや。

一、弘法の心経の秘鍵の五分に何ぞ法華を摂するや能く能く尋ぬ可き事なり。

P0149

 真言七重難。

一、真言は法華経より外に大日如来の所説なり云云、若し爾れば大日の出世成道説法利生は釈尊より前か後か如

何、対機説法の仏は八相作仏す父母は誰れぞ名字は如何に娑婆世界の仏と云はば世に二仏無く国に二主無きは聖

教の通判なり、涅槃経の三十五の巻を見る可きなり、若し他土の仏なりと云はば何ぞ我が主師親の釈尊を蔑にし

て他方疎縁の仏を崇むるや不忠なり不孝なり逆路伽耶陀なり、若し一体と云はば何ぞ別仏と云うや若し別仏なら

ば何ぞ我が重恩の仏を捨つるや、唐尭は老い衰へたる母を敬ひ虞舜は頑なる父を崇む[是一]、六波羅蜜経に云

く「所謂過去無量Y伽沙の諸仏世尊の所説の正法我今亦当に是の如き説を作すべし所謂八万四千の諸の妙法蘊な

り○而も阿難陀等の諸大弟子をして一たび耳に聞いて皆悉く憶持せしむ」云云、此の中の陀羅尼蔵を弘法我が真

言と云える若し爾れば此の陀羅尼蔵は釈迦の説に非ざるか此の説に違す[是二]、凡そ法華経は無量千万億の已

説今説当説に最も第一なり、諸仏の所説菩薩の所説声聞の所説に此の経第一なり諸仏の中に大日漏る可きや、法

華経は正直無上道の説大日等の諸仏長舌を梵天に付けて真実と示し給う[是三]、威儀形色経に「身相黄金色に

して常に満月輪に遊び定慧智拳の印法華経を証誠す」と、又五仏章の仏も法華経第一と見えたり[是四]、「要

を以て之を云わば如来の一切所有の法乃至皆此の経に於て宣示顕説す」云云、此等の経文は釈迦所説の諸経の中

に第一なるのみに非ず三世の諸仏の所説の中に第一なり此の外一仏二仏の所説の経の中に法華経に勝れたる経有

りと云はば用ゆ可からず法華経は三世不壊の経なる故なり[是五]、又大日経等の諸経の中に法華経に勝るる経

文之無し[是六]、釈尊御入滅より已後天竺の論師二十四人の付法蔵其の外大権の垂迹震旦の人師南三北七の十

師三論法相の先師の中に天台宗より外に十界互具百界千如一念三千と談ずる人之無し、若し一念三千を立てざれ

ば性悪の義之無し性悪の義無くば仏菩薩の普現色身真言両界の漫荼羅五百七百の諸尊は本無今有の外道の法

P0150

に同ぜんか、若し十界互具百界千如を立てば本経何れの経にか十界皆成の旨之を説けるや、天台円宗見聞の後邪

智荘厳の為に盗み取れる法門なり、才芸を誦し浮言を吐くには依る可からず正しき経文金言を尋ぬ可きなり[是

七]。

 涅槃経の三十五に云く「我処処の経の中に於て説いて言く一人出世すれば多人利益す一国土の中に二の転輪王

あり一世界の中に二仏出世すといわば是の処有ること無し」文、大論の九に云く「十方恒河沙の三千大千世界を

名づけて一仏世界と為す是の中に更に余仏無し実には一りの釈迦牟尼仏なり」文、記の一に云く「世には二仏無

く国には二主無し一仏の境界には二の尊号無し」文、持地論に云く「世に二仏無く国に二主無く一仏の境界に二

の尊号無し」文。

= 七月 日                          日 蓮 花 押