八宗違目抄

八宗違目抄    /文永九年二月  五十一歳御作

+                 与富木常忍

 記の九に云く「若し其れ未だ開せざれば法報は迹に非ず若し顕本し已れば本迹各三なり」文句の九に云く「仏

三世に於て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」

           法身如来           正因仏性

 仏         報身如来      衆生   了因仏性

           応身如来           縁因仏性

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           小乗経には仏性の有無を論ぜず。

 衆生の仏性     華厳方等般若大日経等には衆生本より正因仏性有つて了因縁因無し。

           法華経には本より三因仏性有り。

 文句の十に云く「正因仏性[法身の性なり]は本当に通亙す、縁了仏性は種子本有なり今に適むるに非ざるな

り」

           今此の三界は皆是れ我が有なり    主国王世尊なり

 法華経第二に云く  其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり     親父なり

           而も今此の処は諸の患難多し

           唯我一人のみ能く救護をなす       導師なり

                  主 国王 報身如来

 寿量品に云く我も亦為世の父文   師    応身如来

                  親    法身如来

 五百問論に云く「若し父の寿の遠を知らずして復父統の邦に迷わば徒らに才能と謂うとも全く人の子に非ず」

又云く「但恐らくは才一国に当るとも父母の年を識らざらんや」

 古今仏道論衡[道宣の作]に云く「三皇已前は未だ文字有らず但其の母を識つて其の父を識らず禽獣に同じ[

鳥等なり]」等云云、[慧遠法師周の武帝を詰る語なり]

 倶舎宗

 成実宗    一向に釈尊を以て本尊と為す爾りと雖も但応身に限る。

 律宗

 華厳宗

 三論宗    釈尊を以て本尊と為すと雖も法身は無始無終報身は有始無終応身は 法相宗    有始有終

なり。

         一義に云く大日如来は釈迦の法身なり。

 真言宗    一向に大日如来を以て本尊と為す二義有り

            一義に云く大日如来は釈迦の法身には非ず。

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 但し大日経には大日如来は釈迦牟尼仏なりと見えたり人師よりの僻見なり。

 浄土宗  一向に阿弥陀如来を以て本尊と為す。

 法華宗より外の真言等の七宗並に浄土宗等は釈迦如来を以て父と為すことを知らず、例せば三皇已前の人禽獣

に同ずるが如し鳥の中に鷦鷯鳥も鳳凰鳥も父を知らず獣の中には兎も師子も父を知らず、三皇以前は大王も小民

も共に其の父を知らず天台宗よりの外真言等の諸宗の大乗宗は師子と鳳凰の如く小乗宗は鷦鷯と兎等の如く共に

父を知らざるなり。

 華厳宗に十界互具一念三千を立つること澄観の疏に之有り。

 真言宗に十界互具一念三千を立つること大日経の疏に之を出す。

 天台宗と同異如何、天台宗已前にも十界互具一念三千を立つるや、記の三に云く「然るに衆釈を攅むるに既に

三乗及び一乗三一倶に性相等の十有りと許す何すれぞ六道の十を語らざるや」[此の釈の如くんば天台已前五百

余年の人師三蔵等の法華経に依る者一念三千の名目を立てざるか]。

 問うて云く華厳宗は一念三千の義を用いるや[華厳宗は唐の則天皇后の御宇に之を立つ]、答えて云く澄観の

疏三十三[清涼国師]に云く「止観の第五に十法成乗を明す中の第二に真正発菩提心○釈して云く然も此の経の

上下の発心の義は文理淵博にして其の撮略を見る故に取つて之を用い引いて之を証とす」と、二十九に云く「法

華経に云く唯仏与仏等と天台云く○便ち三千世間を成すと彼の宗には此れを以つて実と為す○一家の意理として

通ぜざる無し」文。

 華厳経に云く[旧訳には功徳林菩薩之を説くと、新訳には覚林菩薩之を説くと、弘決には如来林菩薩と引く]

「心は工なる画師の種種の五陰を画くが如く一切世間の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏

の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と是の三差別無し若し人三世一切の仏を了知せんと欲せば当に是くの如く

観ずべし心は諸の如来を造ると」

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 法華経に云く[此れは略開三の文なり仏の自説なり]「所謂諸法とは如是相如是性如是体如是力如是作如是因

如是縁如是果如是報如是本末究竟等」又云く「唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう諸仏世尊は衆生を

して仏知見を開かしめんと欲す」

 蓮華三昧経に云く「本覚心法身常に妙法の心蓮台に住して本より来た三身の徳を具足し三十七尊[金剛界の三

十七尊なり]心城に住したまえるを帰命したてまつる心王大日遍照尊心数恒沙諸の如来も普門塵数諸の三昧因果

を遠離して法然として具す無辺の徳海本より円満還つて我心の諸仏を頂礼す」、仏蔵経に云く「仏一切衆生心中

に皆如来有して結跏趺坐すと見そなわす」文。

 問うて云く真言宗は一念三千を用いるや、答えて云く大日経の義釈[善無畏金剛智不空一行]に云く[此の文

に五本有り十巻の本は伝教弘法之を見ず智証之を渡す]「此の経は是れ法王の秘宝なり妄りに卑賎の人に示さざ

れ釈迦出世して四十余年に舎利弗の慇懃なる三請に因りて方に為に略して妙法蓮華の義を説きたまいしが如し、

今此の本地の身又是れ妙法蓮華最深の秘処なるが故に、寿量品に云く常在霊鷲山及余諸住処乃至我浄土不毀而衆

見焼尽と即ち此の宗の瑜伽の意ならくのみ又補処の菩薩の慇懃の三請に因つて方に為に之を説けり」と、又云く

「又此の経の宗は横に一切の仏教を統ぶ唯蘊無我にして世間の心を出で蘊の中に住すと説くが如きは即ち諸部の

小乗三蔵を摂す、蘊の阿頼耶を観じて自心の本不生を覚ると説くが如きは即ち諸経の八識三性無性の義を摂す、

極無自性心と十緑生の句を説くが如きは即ち華厳般若の種種の不思議の境界を摂して皆其の中に入る、如実知自

心を一切種智と名づくと説くが如きは則ち仏性[涅槃経なり]一乗[法華経なり]如来秘蔵[大日経なり]皆其

の中に入る種種の聖言に於て其の精要を統べざること無し、毘盧遮那経の疏[伝教弘法之を見る]第七の下に云

く天台の誦経は是れ円頓の数息なりと謂う是れ此の意なり」と。

 大宋の高僧伝巻の第二十七の含光の伝に云く「代宗光を重んずること[玄宗代宗の御宇に真言わたる含光は不

空三蔵の弟子なり]不空を見るが如し

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勅委して五台山に往いて功徳を修せしむ、時に天台の宗学湛然[妙楽天台第六の師なり]禅観を解了して深く智

者[天台なり]の膏腴を得たりと、嘗つて江淮の僧四十余人と清涼の境界に入る、湛然光と相見て西域伝法の事

を問う、光の云く一国の僧空宗を体得する有りと問うて智者の教法に及ぶ梵僧云く曾て聞く此の教邪正を定め偏

円を暁り止観を明して功第一と推す再三光に嘱す或は因縁あつて重ねて至らば為に唐を翻して梵と為して附し来

れ某願くは受持せんと屡屡手を握つて叮嘱す、詳かにするに其の南印土には多く竜樹の宗見を行ず故に此の流布

を願うこと有るなりと、菩提心義の三に云く一行和上は元是れ天台一行三昧の禅師なり能く天台円満の宗趣を得

たり故に凡そ説く所の文言義理動もすれば天台に合す、不空三蔵の門人含光天竺に帰るの日天竺の僧問わく伝え

聞く彼の国に天台の教有りと理致須ゆ可くば翻訳して此の方に将来せんや云云、此の三蔵の旨も亦天台に合す、

今或る阿闍梨の云く真言を学せんと欲せば先ず共に天台を学せよと而して門人皆瞋る」云云。

 問うて云く華厳経に一念三千を明すや、答えて云く「心仏及衆生」等云云、止観の一に云く「此の一念の心は

縦ならず横ならず不可思議なり但己のみ爾るに非ず仏及び衆生も亦復是くの如し、華厳に云く心と仏と及び衆生

と是の三差別無しと当に知るべし己心に一切の法を具することを」文、弘の一に云く「華厳の下は引いて理の斉

きことを証す、故に華厳に初住の心を歎じて云く心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然り心と仏と及び衆生と

是の三差別無し諸仏は悉く一切は心に従つて転ずと了知したまえり、若し能く是くの如く解すれば彼の人真に仏

を見たてまつる、身亦是れ心に非ず心も亦是れ身に非ず一切の仏事を作すこと自在にして未曾有なり、若し人三

世一切の仏を知らんと欲求せば応に是くの如き観を作すべし心諸の如来を造すと、若し今家の諸の円文の意無く

んば彼の経の偈の旨理として実に消し難からん」と。

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     小乗の四阿含経

  三蔵教     心生の六界 心具の六界を明さず。

     大乗

  通教      心生の六界 亦心具を明さず。

  別教      心生の十界 心具の十界を明さず。

     思議の十界

     爾前華厳等の円

         不思議の十界互具

  円教

     法華の円

 止の五に云く「華厳に云く心は工なる画師の種種の五陰を造るが如く一切世間の中に心より造らざること莫し

と種種の五陰とは前の十法界の五陰の如きなり」又云く「又十種の五陰一一に各十法を具す謂く如是相性体力作

因縁果報本末究竟等なり」文、又云く「夫れ一心に十法界を具す一法界に又十法界を具すれば百法界なり一界に

三十種の世間を具すれば百法界には即ち三千種の世間を具す此の三千一念の心に在り」文、弘の五に云く「故に

大師覚意三昧観心食法及び誦経法小止観等の諸の心観の文に但自他等の観を以て三仮を推せり並びに未だ一念三

千具足を云わず、乃至観心論の中に亦只三十六の問を以て四心を責むれども亦一念三千に渉らず、唯四念処の中

に略して観心の十界を云うのみ、故に止観に正しく観法を明すに至つて並びに三千を以て指南と為せり、乃ち是

れ終窮究竟の極説なり、故に序の中に説己心中所行法門と云う良に以有るなり請う尋ね読まん者心に異縁無かれ

」、止の五に云く「此の十重の観法は横竪に収束し微妙精巧なり初は則ち境の真偽を簡び中は則ち正助相添い後

は則ち安忍無著なり、意円かに法巧みに該括周備して初心に規矩し将に行者を送って彼の薩雲に到らんとす[初

住なり]闇証の禅師誦文の法師の能く知る所に非ざるなり、蓋し如来積劫の懃求したまえる所道場の妙悟し

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たまえる所身子の三請する所法譬の三たび説く所正しく茲に在るに由るか」、弘の五に云く「四教の一十六門乃

至八教の一期の始終に遍せり今皆開顕して束ねて一乗に入れ遍く諸経を括りて一実に備う、若し当分を者尚偏教

の教主の知る所に非ず況んや復た世間闇証の者をや○、蓋し如来の下は称歎なり十法は既に是れ法華の所乗なり

是の故に還つて法華の文を用いて歎ず迹の説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅道場を以

て妙悟と為す若し本門に約せば我本行菩薩道の時を指して以て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す、本迹二

門只是れ此の十法を求悟せるなり、身子等とは寂場にして説かんと欲するに物の機未だ宜からず其の苦に堕せん

事を恐れて更に方便を施す四十余年種種に調熟し法華の会に至つて初めて略して権を開するに動執生疑して慇懃

に三請す五千起ち去つて方に枝葉無し四一を点示して五仏の章を演べ上根の人に被るを名づけて法説と為し、中

根は未だ解せざれば猶譬喩をう下根は器劣にして復た因縁を待つ、仏意聯綿として茲の十法に在り、故に十法

の文の末に皆大車に譬えたり今の文の憑る所意此に在り、惑者は未だ見ず尚華厳を指す唯華厳円頓の名を知つて

而して彼の部の兼帯の説に昧し、全く法華絶待の意を失つて妙教独顕の能を貶挫す、迹本の二文を験して五時の

説をうれば円極謬らず何ぞ須らく疑を致すべけん是の故に結して正しく茲に在るかと日う」、又云く「初に華

厳を引くことを者重ねて初に引いて境相を示す文を牒す前に心造と云うは即ち是れ心具なり故に造の文を引いて

以て心具を証す、彼の経第十八の中に功徳林菩薩の偈を説いて云うが如く心は工なる画師の種種の五陰を造るが

如く一切世界の中に法として造らざること無し心の如く仏も亦爾なり仏の如く衆生も然なり心と仏と及び衆生と

是の三差別無し、若し人三世の一切の仏を知らんと欲求せば応に是くの如く観ずべし心は諸の如来を造ると今の

文を解せずんば如何ぞ偈の心造一切三無差別を消せん」文、諸宗の是非之を以て之を糾明す可きなり、恐恐謹言

= 二月十八日                     日  蓮 在御判

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