強仁状御返事

強仁状御返事        /建治元年十二月 五十四歳御作

+                    与真言僧強仁

 強仁上人十月二十五日の御勘状同十二月二十六日に到来す、此の事余も年来欝訴する所なり忽に返状を書いて

自他の疑冰を釈かんと欲す、但し歎ずるは田舎に於て邪正を決せば暗中に錦を服して遊行し澗底の長松匠を知ら

ざるか、兼ねて又定めて喧嘩出来の基なり、貴坊本意を遂げんと欲せば公家と関東とに奏聞を経て露点を申し下

し是非を糾明せば上一人咲を含み下万民疑を散ぜんか、其の上大覚世尊は仏法を以て王臣に付属せり世出世の邪

正を決断せんこと必ず公場なる可きなり、就中当時我が朝の体為る二難を盛んにす所謂自界叛逆難と他国侵逼難

となり、此の大難を以て大蔵経に引き向えて之を見るに定めて国家と仏法との中に大禍有るか、仍つて予正嘉文

永二箇年の大地震と大長星とに驚いて一切経を聞き見るに此の国の中に前代未起の二難有る可し所謂自他叛逼の

両難なり、是れ併ながら真言禅門念仏持斎等権小の邪法を以て法華真実の正法を滅失する故に招き出す所の大災

なり、只今他国より我が国を逼む可き由兼ねて之を知る故に身命を仏神の宝前に捨棄して刀剣武家の責を恐れず

昼は国主に奏し夜は弟子等に語る、然りと雖も真言禅門念仏者律僧等種種の誑言を

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構え重重の讒訴を企つるが故に叙用せられざるの間処処に於て刀杖を加えられ両度まで御勘気を蒙る剰え頭を刎

ねんと擬する是の事なり、夫れ以れば月支漢土の仏法の邪正は且らく之を置く大日本国亡国と為る可き由来之を

勘うるに真言宗の元祖たる東寺の弘法天台山第三の座主慈覚此の両大師法華経と大日経との勝劣に迷惑し日本第

一の聖人なる伝教大師の正義を隠没してより已来叡山の諸寺は慈覚の邪義に付き神護七大寺は弘法の僻見に随う

其れより已来王臣邪師を仰ぎ万民僻見に帰す、是くの如き諂曲既に久しく四百余年を経歴し国漸く衰え王法も亦

尽きんとす彼の月支の弗沙弥多羅王の八万四千の寺塔を焚焼し無量仏子の頚を刎ねし、此の漢土の会昌天子の寺

院四千六百余所を滅失し九国の僧尼還俗せしめたる此等大悪人為りと雖も我が朝の大謗法には過ぎず、故に青天

は眼を瞋らして我が国を睨み黄地は憤を含んで動もすれば夭驍発す、国主聖主に非れば謂れ之を知らず諸臣儒

家に非れば事之を勘えず、剰え此の災夭を消さんが為に真言師を渇仰し大難を郤けんが為に持斎等を供養す、譬

えば火に薪を加え冰に水を増すが如く悪法は弥貴まれ大難は益々来る只今此の国滅亡せんとす。

 予粗先ず此の子細を勘うるの間身命を捨棄し国恩を報ぜんとす、而るに愚人の習い遠きを尊び近きを蔑るか将

又多人を信じて一人を捨つるかの故に終に空しく年月を送る、今幸に強仁上人御勘状を以て日蓮を暁諭す然る可

くは此の次でに天聴を驚かし奉つて決せん、誠に又御勘文の体為非を以て先と為し若し上人黙止して空しく一生

を過せば定めて師檀共に泥梨の大苦を招かん、一期の大慢を以て永劫の迷因を殖ること勿れ速速天奏を経て疾疾

対面を遂げ邪見を翻えし給え、書は言を尽さず言は心を尽さず悉悉公場を期す、恐恐謹言。

= 十二月廿六日                             日蓮花押

%  強仁上人座下

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