開目抄下

開目抄下

 又今よりこそ諸大菩薩も梵帝日月四天等も教主釈尊の御弟子にては候へ、されば宝塔品には此等の大菩薩を仏

我が御弟子等とをぼすゆへに諌暁して云く「諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰か能く此の経を護持し読誦する今仏

前に於て自ら誓言を説け」とはしたたかに仰せ下せしか、又諸大菩薩も「譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し」

等と吉祥草の大風に随い河水の大海へ引くがごとく仏には随いまいらせしか。

 而れども霊山日浅くして夢のごとくうつつならずありしに証前の宝塔の上に起後の宝塔あつて十方の諸仏来集

せる皆我が分身なりとなのらせ給い宝塔は虚空に釈迦多宝坐を並べ日月の青天に並出せるが如し、人天大会は星

をつらね分身の諸仏は大地の上宝樹の下の師子のゆかにまします、華厳経の蓮華蔵世界は十方此土の報仏各各に

国国にして彼の界の仏此の土に来つて分身となのらず此の界の仏彼の界へゆかず但法慧等の大菩薩のみ互いに来

会せり、大日経金剛頂経等の八葉九尊三十七尊等大日如来の化身とはみゆれども其の化身三身円満の古仏にあら

ず、大品経の千仏阿弥陀経の六方の諸仏いまだ来集の仏にあらず大集経の来集の仏又分身ならず、金光明経の四

方の四仏は化身なり、総じて一切経の中に各修各行の三身円満の諸仏を集めて

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我が分身とはとかれず、これ寿量品の遠序なり、始成四十余年の釈尊が一劫十劫等已前の諸仏を集めて分身とと

かるさすが平等意趣にもにずをびただしくをどろかし、又始成の仏ならば所化十方に充満すべからざれば分身の

徳は備わりたりとも示現して益なし、天台云く「分身既に多し当に知るべし成仏の久しきことを」等云云、大会

のをどろきし意をかかれたり。

 其の上に地涌千界の大菩薩大地より出来せり釈尊に第一の御弟子とをぼしき普賢文殊等にもにるべくもなし、

華厳方等般若法華経の宝塔品に来集する大菩薩大日経等の金剛薩ト等の十六の大菩薩なんども此の菩薩に対当す

ればz猴の群る中に帝釈の来り給うが如し、山人に月卿等のまじはるにことならず、補処の弥勒すら猶迷惑せり

何に況や其の已下をや、此の千世界の大菩薩の中に四人の大聖まします所謂上行無辺行浄行安立行なり、此の四

人は虚空霊山の諸菩薩等眼もあはせ心もをよばず、華厳経の四菩薩大日経の四菩薩金剛頂経の十六大菩薩等も此

の菩薩に対すれば翳眼のものの日輪を見るが如く海人が皇帝に向い奉るが如し、大公等の四聖の衆中にありしに

にたり商山の四皓が恵帝に仕えしにことならず、巍巍堂堂として尊高なり、釈迦多宝十方の分身を除いては一切

衆生の善知識ともたのみ奉りぬべし、弥勒菩薩心に念言すらく、我は仏の太子の御時より三十成道今の霊山まで

四十二年が間此の界の菩薩十方世界より来集せし諸大菩薩皆しりたり、又十方の浄穢土に或は御使い或は我と遊

戯して其の国国に大菩薩を見聞せり、此の大菩薩の御師なんどはいかなる仏にてやあるらん、よも此の釈迦多宝

十方の分身の仏陀にはにるべくもなき仏にてこそをはすらめ、雨の猛を見て竜の大なる事をしり華の大なるを見

て池のふかきことはしんぬべし、此等の大菩薩の来る国又誰と申す仏にあいたてまつりいかなる大法をか習修し

給うらんと疑いし、あまりの不審さに音をもいだすべくもなけれども仏力にやありけん、弥勒菩薩疑つて云く「

無量千万億の大衆の諸の菩薩は昔より未だ曾て見ざる所なり

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是の諸の大威徳の精進の菩薩衆は誰か其の為に法を説いて教化して成就せる、誰に従つてか初めて発心し何れの

仏法をか称揚せる、世尊我昔より来未だ曾つて是の事を見ず、願くは其の所従の国土の名号を説きたまえ、我常

に諸国に遊べども未だ曾つて是の事を見ず、我れ此の衆の中に於て乃し一人をも識らず忽然に地より出でたり願

くは其の因縁を説きたまえ」等云云、天台云く「寂場より已降今座已往十方の大士来会絶えず限る可からずと雖

も我補処の智力を以つて悉く見悉く知る、而れども此の衆に於て一人をも識らず然るに我れ十方に遊戯して諸仏

に覲奉し大衆に快く識知せらる」等云云、妙楽云く「智人は起を知る蛇は自ら蛇を識る」等云云、経釈の心分明

なり詮ずるところは初成道よりこのかた此の土十方にて此等の菩薩を見たてまつらずきかずと申すなり。

 仏此の疑を答えて云く「阿逸多汝等昔より未だ見ざる所の者は我是の娑婆世界に於て阿耨多羅三藐三菩提を得

已つて是の諸の菩薩を教化し示導して其の心を調伏して道の意を発こさしめたり」等、又云く「我伽耶城菩提樹

下に於て坐して最正覚を成ずることを得て無上の法輪を転じ爾して乃ち之を教化して初めて道心を発さしむ今皆

不退に住せり、乃至我久遠より来是等の衆を教化せり」等云云、此に弥勒等の大菩薩大に疑いをもう、華厳経の

時法慧等の無量の大菩薩あつまるいかなる人人なるらんとをもへば我が善知識なりとをほせられしかば、さもや

とうちをもひき、其の後の大宝坊白鷺池等の来会の大菩薩もしかのごとし、此の大菩薩は彼等にはにるべくもな

きふりたりげにまします定めて釈尊の御師匠かなんどおぼしきを令初発道心とて幼稚のものどもなりしを教化し

て弟子となせりなんどをほせあれば大なる疑なるべし、日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子なり、

御年六歳の時百済高麗唐土より老人どものわたりたりしを六歳の太子我が弟子なりとをほせありしかば彼の老人

ども又合掌して我が師なり等云云、不思議なりし事なり、外典に申す或者道をゆけば路のほとりに年三十計りな

るわかものが八十計りなる老人をとらへて打ちけり、いかなる事ぞととえば此の老翁は我が子なり

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なんど申すとかたるにもにたり、されば弥勒菩薩等疑つて云く「世尊如来太子為りし時釈の宮を出で伽耶城を去

ること遠からずして道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得給えり、是より已来始めて四十余年を過

ぎたり、世尊云何ぞ此の少時に於て大いに仏事を作し給える」等云云、一切の菩薩始め華厳経より四十余年会会

に疑をまうけて一切衆生の疑網をはらす中に此の疑第一の疑なるべし、無量義経の大荘厳等の八万の大士四十余

年と今との歴劫疾成の疑にも超過せり、観無量寿経に韋提希夫人の阿闍世王が提婆にすかされて父の王をいまし

め母を殺さんとせしが耆婆月光にをどされて母をはなちたりし時仏を請じたてまつてまづ第一の問に云く「我れ

宿し何の罪あつて此の悪子を生む世尊復た何等の因縁有つて提婆達多と共に眷属となり給う」等云云、此の疑の

中に「世尊復た何等の因縁有つて」等の疑は大なる大事なり、輪王は敵と共に生れず帝釈は鬼とともならず仏は

無量劫の慈悲者なりいかに大怨と共にはまします還つて仏にはましまさざるかと疑うなるべし、而れども仏答え

給はず、されば観経を読誦せん人法華経の提婆品へ入らずばいたづらごとなるべし、大涅槃経に迦葉菩薩の三十

六の問もこれには及ばず、されば仏此の疑を晴させ給はずば一代の聖教は泡沫にどうじ一切衆生は疑網にかかる

べし、寿量の一品の大切なるこれなり。

 其の後仏寿量品を説いて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は釈氏の宮を出で伽耶城を去る

こと遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得給えりと謂えり」等云云、此の経文は始め寂滅道場より終り

法華経の安楽行品にいたるまでの一切の大菩薩等の所知をあげたるなり、「然るに善男子我れ実に成仏してより

已来無量無辺百千万億那由佗劫なり」等云云、此の文は華厳経の「三処の始成正覚」阿含経に云く「初成」浄名

経の「始坐仏樹」大集経に云く「始十六年」大日経の「我昔坐道場」等仁王経の「二十九年」無量義経の「我先

道場」法華経の方便品に云く「我始坐道場」等を一言に大虚妄なりとやぶるもんなり。

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 此の過去常顕るる時諸仏皆釈尊の分身なり爾前迹門の時は諸仏釈尊に肩を並べて各修各行の仏なり、かるがゆ

へに諸仏を本尊とする者釈尊等を下す、今華厳の台上方等般若大日経等の諸仏は皆釈尊の眷属なり、仏三十成道

の御時は大梵天王第六天等の知行の娑婆世界を奪い取り給いき、今爾前迹門にして十方を浄土とがうして此の土

を穢土ととかれしを打ちかへして此の土は本土なり十方の浄土は垂迹の穢土となる、仏は久遠の仏なれば迹化他

方の大菩薩も教主釈尊の御弟子なり、一切経の中に此の寿量品ましまさずば天に日月の国に大王の山河に珠の人

に神のなからんがごとくしてあるべきを華厳真言等の権宗の智者とをぼしき澄観嘉祥慈恩弘法等の一往権宗の人

人且は自の依経を讃歎せんために或は云く「華厳経の教主は報身法華経は応身」と或は云く「法華寿量品の仏は

無明の辺域大日経の仏は明の分位」等云云、雲は月をかくし讒臣は賢人をかくす人讃すれば黄石も玉とみへ諛臣

も賢人かとをぼゆ、今濁世の学者等彼等の讒義に隠されて寿量品の玉を翫ばず、又天台宗の人人もたぼらかされ

て金石一同のをもひをなせる人人もあり、仏久成にましまさずば所化の少かるべき事を弁うべきなり、月は影を

慳ざれども水なくばうつるべからず、仏衆生を化せんとをぼせども結縁うすければ八相を現ぜず、例せば諸の声

聞が初地初住にはのぼれども爾前にして自調自度なりしかば未来の八相をごするなるべし、しかれば教主釈尊始

成ならば今此の世界の梵帝日月四天等は劫初より此の土を領すれども四十余年の仏弟子なり、霊山八年の法華結

縁の衆今まいりの主君にをもひつかず久住の者にへだてらるるがごとし、今久遠実成あらはれぬれば東方の薬師

如来の日光月光西方阿弥陀如来の観音勢至乃至十方世界の諸仏の御弟子大日金剛頂等の両部の大日如来の御弟子

の諸大菩薩猶教主釈尊の御弟子なり、諸仏釈迦如来の分身たる上は諸仏の所化申すにをよばず何に況や此の土の

劫初よりこのかたの日月衆星等教主釈尊の御弟子にあらずや。

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 而るを天台宗より外の諸宗は本尊にまどえり、倶舎成実律宗は三十四心断結成道の釈尊を本尊とせり、天尊の

太子が迷惑して我が身は民の子とをもうがごとし、華厳宗真言宗三論宗法相宗等の四宗は大乗の宗なり、法相三

論は勝応身ににたる仏を本尊とす天王の太子我が父は侍とをもうがごとし、華厳宗真言宗は釈尊を下げて盧舎那

の大日等を本尊と定む天子たる父を下げて種姓もなき者の法王のごとくなるにつけり、浄土宗は釈迦の分身の阿

弥陀仏を有縁の仏とをもうて教主をすてたり、禅宗は下賎の者一分の徳あつて父母をさぐるがごとし、仏をさげ

経を下す此皆本尊に迷えり、例せば三皇已前に父をしらず人皆禽獣に同ぜしが如し、寿量品をしらざる諸宗の者

は畜に同じ不知恩の者なり、故に妙楽云く「一代教の中未だ曾て遠を顕さず、父母の寿知らずんばある可からず

若し父の寿の遠きを知らずんば復父統の邦に迷う、徒に才能と謂うとも全く人の子に非ず」等云云、妙楽大師は

唐の末天宝年中の者なり三論華厳法相真言等の諸宗並に依経を深くみ広く勘えて寿量品の仏をしらざる者は父統

の邦に迷える才能ある畜生とかけるなり、徒謂才能とは華厳宗の法蔵澄観乃至真言宗の善無畏三蔵等は才能の人

師なれども子の父を知らざるがごとし、伝教大師は日本顕密の元祖秀句に云く「他宗所依の経は一分仏母の義有

りと雖も然も但愛のみ有つて厳の義を闕く、天台法華宗は厳愛の義を具す一切の賢聖学無学及び菩薩心を発せる

者の父なり」等云云、真言華厳等の経経には種熟脱の三義名字すら猶なし何に況や其の義をや、華厳真言経等の

一生初地の即身成仏等は経は権経にして過去をかくせり、種をしらざる脱なれば超高が位にのぼり道鏡が王位に

居せんとせしがごとし。

 宗宗互に種を諍う予此をあらそはず但経に任すべし、法華経の種に依つて天親菩薩は種子無上を立てたり天台

の一念三千これなり、華厳経乃至諸大乗経大日経等の諸尊の種子皆一念三千なり天台智者大師一人此の法門を得

給えり、華厳宗の澄観此の義を盗んで華厳経の心如工画師の文の神とす、真言大日経等には二乗作仏久遠実成一

念三千の法門これなし、

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善無畏三蔵震旦に来つて後天台の止観を見て智発し大日経の心実相我一切本初の文の神に天台の一念三千を盗み

入れて真言宗の肝心として其の上に印と真言とをかざり法華経と大日経との勝劣を判ずる時理同事勝の釈をつく

れり、両界の漫荼羅の二乗作仏十界互具は一定大日経にありや第一の誑惑なり、故に伝教大師云く「新来の真言

家は則ち筆受の相承を泯じ、旧到の華厳家は則ち影響の規模を隠す」等云云、俘囚の嶋なんどにわたてほのぼの

といううたはわれよみたりなんど申すはえぞていの者はさこそとをもうべし、漢土日本の学者又かくのごとし、

良ー和尚云く「真言禅門華厳三論乃至若し法華等に望めば是接引門」等云云、善無畏三蔵の閻魔の責にあづから

せ給しは此の邪見による後に心をひるがへし法華経に帰伏してこそこのせめをば脱させ給いしか、其の後善無畏

不空等法華経を両界の中央にをきて大王のごとくし胎蔵の大日経金剛の金剛頂経をば左右の臣下のごとくせしこ

れなり、日本の弘法も教相の時は華厳宗に心をよせて法華経をば第八にをきしかども事相の時には実慧真雅円澄

光定等の人人に伝え給いし時両界の中央に上のごとくをかれたり、例せば三論の嘉祥は法華玄十巻に法華経を第

四時会二破二と定れども天台に帰伏して七年つかへ廃講散衆して身を肉橋となせり、法相の慈恩は法苑林七巻十

二巻に一乗方便三乗真実等の妄言多し、しかれども玄賛の第四には故亦両存等と我が宗を不定になせり、言は両

方なれども心は天台に帰伏せり、華厳の澄観は華厳の疏を造て華厳法華相対して法華を方便とかけるに似れども

彼の宗之を以て実と為す此の宗の立義理通ぜざること無し等とかけるは悔い還すにあらずや、弘法も又かくのご

とし、亀鏡なければ我が面をみず敵なければ我が非をしらず、真言等の諸宗の学者等我が非をしらざりし程に伝

教大師にあひたてまつて自宗の失をしるなるべし。

 されば諸経の諸仏菩薩人天等は彼彼の経経にして仏にならせ給うやうなれども実には法華経にして正覚なり給

へり、

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釈迦諸仏の衆生無辺の総願は皆此の経にをいて満足す今者已満足の文これなり、予事の由ををし計るに華厳観経

大日経等をよみ修行する人をばその経経の仏菩薩天等守護し給らん疑あるべからず、但し大日経観経等をよむ行

者等法華経の行者に敵対をなさば彼の行者をすてて法華経の行者を守護すべし、例せば孝子慈父の王敵となれば

父をすてて王にまいる孝の至りなり、仏法も又かくのごとし、法華経の諸仏菩薩十羅刹日蓮を守護し給う上浄土

宗の六方の諸仏二十五の菩薩真言宗の千二百等七宗の諸尊守護の善神日蓮を守護し給うべし、例せば七宗の守護

神伝教大師をまほり給いしが如しとをもう、日蓮案じて云く法華経の二処三会の座にましましし、日月等の諸天

は法華経の行者出来せば磁石の鉄を吸うがごとく月の水に遷るがごとく須臾に来つて行者に代り仏前の御誓をは

たさせ給べしとこそをぼへ候にいままで日蓮をとぶらひ給はぬは日蓮法華経の行者にあらざるか、されば重ねて

経文を勘えて我が身にあてて、身の失をしるべし。

 疑て云く当世の念仏宗禅宗等をば何なる智眼をもって法華経の敵人一切衆生の悪知識とはしるべきや、答えて

云く私の言を出すべからず経釈の明鏡を出して謗法の醜面をうかべ其の失をみせしめん生盲は力をよばず、法華

経の第四宝塔品に云く「爾の時に多宝仏宝塔の中に於て半座を分ち釈迦牟尼仏に与う、爾の時に大衆二如来の七

宝の塔の中の師子の座の上に在して結跏趺坐し給うを見たてまつる、大音声を以て普く四衆に告げ給わく、誰か

能く此の娑婆国土に於て広く妙法華経を説かん、今正しく是れ時なり、如来久しからずして当に涅槃に入るべし

、仏此の妙法華経を以て付属して在ること有らしめんと欲す」等云云、第一の勅宣なり。

 又云く「爾の時に世尊重ねて此の義を宣べんと欲して偈を説いて言く、聖主世尊久しく滅度し給うと雖も宝塔

の中に在して尚法の為に来り給えり、諸人云何ぞ勤めて法に為わざらん、又我が分身の無量の諸仏恒沙等の如く

来れる法を聴かんと欲す各妙なる土及び弟子衆天人竜神諸の供養の事を捨てて法をして久しく住せしめんが故に

此に来至し給えり、

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譬えば大風の小樹の枝を吹くが如し、是の方便を以て法をして久しく住せしむ、諸の大衆に告ぐ我が滅度の後誰

か能く此の経を護持し読誦せん今仏前に於て自ら誓言を説け」、第二の鳳詔なり。

「多宝如来および我が身集むる所の化仏当に此の意を知るべし、諸の善男子各諦かに思惟せよ此れは為れ難き事

なり、宜しく大願を発こすべし、諸余の経典数恒沙の如し此等を説くと雖も未だ為れ難しとするに足らず、若し

須弥を接つて他方無数の仏土に擲げ置かんも亦未だ為れ難しとせず、若し仏滅後悪世の中に於て能く此の経を説

かん是則ち為れ難し、仮使劫焼に乾れたる草を担い負うて中に入つて焼けざらんも亦未だ為れ難しとせず、我が

滅度の後に若し此の経を持ちて一人の為にも説かん是則ち為れ難し、諸の善男子我が滅後に於て誰か能く此の経

を護持し読誦せん、今仏前に於て自ら誓言を説け」等云云、第三の諌勅なり、第四第五の二箇の諌暁提婆品にあ

り下にかくべし。

 此の経文の心は眼前なり青天に大日輪の懸がごとし白面に黶のあるににたり、而れども生盲の者と邪眼の者と

一眼のものと各謂自師の者辺執家の者はみがたし万難をすてて道心あらん者にしるしとどめてみせん、西王母が

そののもも輪王出世の優曇華よりもあいがたく沛公が項羽と八年漢土をあらそいし頼朝と宗盛が七年秋津嶋にた

たかひし修羅と帝釈と金翅鳥と竜王と阿耨池に諍える此にはすぐべからずとしるべし、日本国に此の法顕るるこ

と二度なり伝教大師と日蓮となりとしれ、無眼のものは疑うべし力及ぶべからず此の経文は日本漢土月氏竜宮天

上十方世界の一切経の勝劣を釈迦多宝十方の仏来集して定め給うなるべし。

 問うて云く華厳経方等経般若経深密経楞伽経大日経涅槃経等は九易の内か六難の内か、答えて云く華厳宗の杜

順智儼法蔵澄観等の三蔵大師読んで云く「華厳経と法華経と六難の内名は二経なれども所説乃至理これ同じ四門

観別見真諦同のごとし」、法相の玄奘三蔵慈恩大師等読んで云く「深密経と法華経とは同く唯識の法門にして第

三時の教六難の内なり」

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三論の吉蔵等読んで云く「般若経と法華経とは名異体同二経一法なり」善無畏三蔵金剛智三蔵不空三蔵等読んで

云く「大日経と法華経とは理同じ、をなじく六難の内の経なり」、日本の弘法読んで云く「大日経は六難九易の

内にあらず大日経は釈迦所説の一切経の外法身大日如来の所説なり」、又或る人云く「華厳経は報身如来の所説

六難九易の内にはあらず」、此の四宗の元祖等かやうに読みければ其の流れをくむ数千の学徒等も又此の見をい

でず、日蓮なげいて云く上の諸人の義を左右なく非なりといはば当世の諸人面を向くべからず非に非をかさね結

句は国王に讒奏して命に及ぶべし、但し我等が慈父雙林最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云

、不依人等とは初依二依三依第四依普賢文殊等の等覚の菩薩が法門を説き給うとも経を手ににぎらざらんをば用

ゆべからず、「了義経に依つて不了義経に依らざれ」と定めて経の中にも了義不了義経を糾明して信受すべきこ

そ候いぬれ、竜樹菩薩の十住毘婆沙論に云く「修多羅黒論に依らずして修多羅白論に依れ」等云云、天台大師云

く「修多羅と合う者は録して之を用いよ文無く義無きは信受すべからず」等云云、伝教大師云く「仏説に依憑し

て口伝を信ずること莫れ」等云云、円珍智証大師云く「文に依つて伝うべし」等云云、上にあぐるところの諸師

の釈皆一分経論に依つて勝劣を弁うやうなれども皆自宗を堅く信受し先師の謬義をたださざるゆへに曲会私情の

勝劣なり荘厳己義の法門なり仏滅後の犢子方広後漢已後の外典は仏法外の外道の見よりも三皇五帝の儒書よりも

邪見強盛なり邪法巧なり、華厳法相真言等の人師天台宗の正義を嫉ゆへに実経の文を会して権義に順ぜしむるこ

と強盛なり、しかれども道心あらん人偏党をすて自他宗をあらそはず人をあなづる事なかれ。

 法華経に云く「已今当」等云云、妙楽云く「縦い経有つて諸経の王と云うとも已今当説最為第一と云わず」等

云云、又云く「已今当の妙茲に於て固く迷う謗法の罪苦長劫に流る」等云云、此の経釈にをどろいて一切経並に

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人師の疏釈を見るに狐疑の冰とけぬ今真言の愚者等印真言のあるをたのみて真言宗は法華経にすぐれたりとをも

ひ慈覚大師等の真言勝れたりとをほせられぬればなんどをもえるはいうにかいなき事なり。

 密厳経に云く「十地華厳等と大樹と神通勝鬘及び余経と皆此の経従り出でたり、是くの如きの密厳経は一切経

の中に勝れたり」等云云、大雲経に云く「是の経は即是諸経の転輪聖王なり何を以ての故に是の経典の中に衆生

の実性仏性常住の法蔵を宣説する故なり」等云云、六波羅蜜経に云く「所謂過去無量の諸仏所説の正法及び我今

説く所の所謂八万四千の諸の妙法蘊なり、摂して五分と為す一には索咀纜二には毘奈耶三には阿毘達磨四には般

若波羅蜜五には陀羅尼門となり此の五種の蔵をもつて有情を教化す、若し彼の有情契経調伏対法般若を受持する

こと能わず或は復有情諸の悪業四重八重五無間罪方等経を謗ずる一闡提等の種種の重罪を造るに銷滅して速疾に

解脱し頓に涅槃を悟ることを得せしむ、而も彼が為に諸の陀羅尼蔵を説く、此の五の法蔵譬えば乳酪生蘇熟蘇及

び妙なる醍醐の如し、総持門とは譬えば醍醐の如し醍醐の味は乳酪蘇の中に微妙第一にして能く諸の病を除き諸

の有情をして身心安楽ならしむ、総持門とは契経等の中に最も第一と為す能く重罪を除く」等云云、解深密経に

云く「爾の時に勝義生菩薩復仏に白して云く世尊初め一時に於て波羅ヌ斯仙人堕処施鹿林の中に在て唯声聞乗を

発趣する者の為に四諦の相を以て正法輪を転じ給いき、是甚だ奇にして甚だ此れ希有なり一切世間の諸の天人等

先より能く法の如く転ずる者有ること無しと雖も、而も彼の時に於て転じ給う所の法輪は有上なり有容なり是れ

未了義なり是れ諸の諍論安足の処所なり、世尊在昔第二時の中に唯発趣して大乗を修する者の為にして一切の法

は皆無自性なり無性無滅なり本来寂静なり自性涅槃なるに依る隠密の相を以て正法輪を転じ給いき、更に甚だ奇

にして甚だ為れ希有なりと雖も、彼の時に於て転じ給う所の法輪亦是れ有上なり容受する所有り猶未だ了義なら

ず、是れ諸の諍論安足の処所なり、世尊今第三時の中に於て普く一切乗を発趣する者の為に

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一切の法は皆無自性無生無滅本来寂静自性涅槃にして無自性の性なるに依り顕了の相を以て正法輪を転じ給う、

第一甚だ奇にして最も為れ希有なり、今に世尊転じ給う所の法輪無上無容にして是れ真の了義なり諸の諍論安息

の処所に非ず」等云云、大般若経に云く「聴聞する所の世出世の法に随つて皆能く方便して般若甚深の理趣に会

入し諸の造作する所の世間の事業も亦般若を以て法性に会入し一事として法性を出ずる者を見ず」等云云、大日

経第一に云く「秘密主大乗行あり無縁乗の心を発す法に我性無し何を以ての故に彼往昔是くの如く修行せし者の

如く蘊の阿頼耶を観察して自性幻の如しと知る」等云云、又云く「秘密主彼是くの如く無我を捨て心主自在にし

て自心の本不生を覚す」等云云、又云く「所謂空性は根境を離れ無相にして境界無く諸の戯論に越えて虚空に等

同なり乃至極無自性」等云云、又云く「大日尊秘密主に告げて言く秘密主云何なるか菩提謂く実の如く自心を知

る」等云云、華厳経に云く「一切世界の諸の群生声聞乗を求めんと欲すること有ること尠し縁覚を求むる者転復

少し、大乗を求むる者甚だ希有なり大乗を求むる者猶為れ易く能く是の法を信ずる為れ甚だ難し、況や能く受持

し正憶念し説の如く修行し真実に解せんをや、若し三千大千界を以て頂戴すること一劫身動ぜざらんも彼の所作

未だ為れ難からず是の法を信ずるは為れ甚だ難し、大千塵数の衆生の類に一劫諸の楽具を供養するも彼の功徳未

だ為れ勝れず是の法を信ずるは為れ殊勝なり、若し掌を以て十仏刹を持し虚空に中に於て住すること一劫なるも

彼の所作未だ為れ難からず是の法を信ずるは為れ甚だ難し、十仏刹塵の衆生の類に一劫諸の楽具を供養せんも彼

の功徳未だ勝れりと為さず是の法を信ずるは為れ殊勝なり、十仏刹塵の諸の如来を一劫恭敬して供養せん若し能

く此の品を受持せん者の功徳彼よりも最勝と為す」等云云、涅槃経に云く「是の諸の大乗方等経典復無量の功徳

を成就すと雖も是の経に比せんと欲するに喩を為すを得ざること百倍千倍百千万倍、乃至算数譬喩も及ぶこと能

わざる所なり、善男子譬えば牛従り乳を出し乳従り酪を出し酪従り生蘇を出し

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生蘇従り熟蘇を出し熟蘇従り醍醐を出す醍醐は最上なり、若し服すること有る者は衆病皆除き所有の諸薬も悉く

其の中に入るが如し、善男子仏も亦是くの如し仏従り十二部経を出し十二部経従り修多羅を出し修多羅従り方等

経を出し方等経従り般若波羅蜜を出し般若波羅蜜従り大涅槃を出す猶醍醐の如し醍醐と言うは仏性に喩う」等云

云。

 此等の経文を法華経の已今当六難九易に相対すれば月に星をならべ九山に須弥を合せたるににたり、しかれど

も華厳宗の澄観法相三論真言等の慈恩嘉祥弘法等の仏眼のごとくなる人猶此の文にまどへり、何に況や盲眼のご

とくなる当世の学者等勝劣を弁うべしや、黒白のごとくあきらかに須弥芥子のごとくなる勝劣なをまどへりいは

んや虚空のごとくなる理に迷わざるべしや、教の浅深をしらざれば理の浅深を弁うものなし巻をへだて文前後す

れば教門の色弁えがたければ文を出して愚者を扶けんとをもう、王に小王大王一切に少分全分五乳に全喩分喩を

弁うべし、六波羅蜜経は有情の成仏あつて無性の成仏なし何に況や久遠実成をあかさず、猶涅槃経の五味にをよ

ばず何に況や法華経の迹門本門にたいすべしや、而るに日本の弘法大師此の経文にまどひ給いて法華経を第四の

熟蘇味に入れ給えり、第五の総持門の醍醐味すら涅槃経に及ばずいかにし給いけるやらん、而るを震旦の人師争

つて醍醐を盗むと天台等を盗人とかき給へり惜い哉古賢醍醐を嘗めず等と自歎せられたり、此等はさてをく我が

一門の者のためにしるす他人は信ぜざれば逆縁なるべし、一ィをなめて大海のしををしり一華を見て春を推せよ

、万里をわたて宋に入らずとも三箇年を経て霊山にいたらずとも竜樹のごとく竜宮に入らずとも無著菩薩のごと

く弥勒菩薩にあはずとも二所三会に値わずとも一代の勝劣はこれをしれるなるべし、蛇は七日が内の洪水をしる

竜の眷属なるゆへ烏は年中の吉凶をしれり過去に陰陽師なりしゆへ鳥はとぶ徳人にすぐれたり。

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 日蓮は諸経の勝劣をしること華厳の澄観三論の嘉祥法相の慈恩真言の弘法にすぐれたり、天台伝教の跡をしの

ぶゆへなり、彼の人人は天台伝教に帰せさせ給はずば謗法の失脱れさせ給うべしや、当世日本国に第一に富める

者は日蓮なるべし命は法華経にたてまつり名をば後代に留べし、大海の主となれば諸の河神皆したがう須弥山の

王に諸の山神したがはざるべしや、法華経の六難九易を弁うれば一切経よまざるにしたがうべし。

 宝塔品の三箇の勅宣の上に提婆品に二箇の諌暁あり、提婆達多は一闡提なり天王如来と記せらる、涅槃経四十

巻の現証は此の品にあり、善星阿闍世等の無量の五逆謗法の者の一をあげ頭をあげ万ををさめ枝をしたがふ、一

切の五逆七逆謗法闡提天王如来にあらはれ了んぬ毒薬変じて甘露となる衆味にすぐれたり、竜女が成仏此れ一人

にはあらず一切の女人の成仏をあらはす、法華已前の諸の小乗教には女人の成仏をゆるさず、諸の大乗経には成

仏往生をゆるすやうなれども或は改転の成仏にして一念三千の成仏にあらざれば有名無実の成仏往生なり、挙一

例諸と申して竜女が成仏は末代の女人の成仏往生の道をふみあけたるなるべし、儒家の孝養は今生にかぎる未来

の父母を扶けざれば外家の聖賢は有名無実なり、外道は過未をしれども父母を扶くる道なし仏道こそ父母の後世

を扶くれば聖賢の名はあるべけれ、しかれども法華経已前等の大小乗の経宗は自身の得道猶かなひがたし何に況

や父母をや但文のみあつて義なし、今法華経の時こそ女人成仏の時悲母の成仏も顕われ達多の悪人成仏の時慈父

の成仏も顕わるれ、此の経は内典の孝経なり、二箇のいさめ了んぬ。

 已上五箇の鳳詔にをどろきて勧持品の弘経あり、明鏡の経文を出して当世の禅律念仏者並びに諸檀那の謗法を

しらしめん、日蓮といゐし者は去年九月十二日子丑の時に頚はねられぬ、此れは魂魄佐土の国にいたりて返年の

二月雪中にしるして有縁の弟子へをくればをそろしくてをそろしからずみん人いかにをぢぬらむ、此れは釈迦多

宝十方の諸仏の未来日本国当世をうつし給う明鏡なりかたみともみるべし。

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 勧持品に云く「唯願くは慮したもうべからず仏滅度の後恐怖悪世の中に於て我等当に広く説くべし、諸の無智

の人の悪口罵詈等し及び刀杖を加うる者有らん我等皆当に忍ぶべし、悪世の中の比丘は邪智にして心諂曲に未だ

得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん、或は阿練若に納衣にして空閑に在つて自ら真の道を行ずと謂つて

人間を軽賎する者有らん利養に貪著するが故に白衣の与に法を説いて世に恭敬せらるることを為ること六通の羅

漢の如くならん、是の人悪心を懐き常に世俗の事を念い名を阿練若に仮て好んで我等が過を出さん、常に大衆の

中に在つて我等を毀らんと欲するが故に国王大臣婆羅門居士及び余の比丘衆に向つて誹謗して我が悪を説いて是

れ邪見の人外道の論議を説くと謂わん、濁劫悪世の中には多く諸の恐怖有らん悪鬼其身に入つて我を罵詈毀辱せ

ん、濁世の悪比丘は仏の方便随宜の所説の法を知らず悪口し顰蹙し数数擯出せられん」等云云、記の八に云く「

文に三初に一行は通じて邪人を明す即ち俗衆なり、次に一行は道門増上慢の者を明す、三に七行は僣聖増上慢の

者を明す、此の三の中に初は忍ぶ可し次の者は前に過ぎたり第三最も甚だし後後の者は転識り難きを以ての故に

」等云云、東春に智度法師云く「初に有諸より下の五行は第一に一偈は三業の悪を忍ぶ是れ外悪の人なり次に悪

世の下の一偈は是上慢出家の人なり第三に或有阿練若より下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云

、又云く「常在大衆より下の両行は公処に向つて法を毀り人を謗ず」等云云、涅槃経の九に云く「善男子一闡提

有り羅漢の像を作して空処に住し方等大乗経典を誹謗せん諸の凡夫人見已つて皆真の阿羅漢是大菩薩なりと謂わ

ん」等云云、又云く「爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経

を抄略し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来

の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に

著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり」等云云、

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六巻の般泥。経に云く「阿羅漢に似たる一闡提有つて悪業を行ず、一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん羅

漢に似たる一闡提有りとは是の諸の衆生方等を誹謗するなり、一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰し広く方等

を説くなり衆生に語つて言く我れ汝等と倶に是れ菩薩なり所以は何ん一切皆如来の性有る故に然も彼の衆生一闡

提なりと謂わん」等云云、涅槃経に云く「我涅槃の後乃至正法滅して後像法の中に於て当に比丘有るべし持律に

似像して少かに経を読誦し飲食を貪嗜し其の身を長養す、袈裟を服ると雖も猶猟師の細視徐行するが如く猫の鼠

を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現わし内には貪嫉を懐かん唖法を受けたる婆

羅門等の如し、実に沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」等云云。

 夫れ鷲峯雙林の日月毘湛東春の明鏡に当世の諸宗並に国中の禅律念仏者が醜面を浮べたるに一分もくもりなし

、妙法華経に云く「於仏滅度後恐怖悪世中」安楽行品に云く「於後悪世」又云く「於末世中」又云く「於後末世

法欲滅時」分別功徳品に云く「悪世末法時」薬王品に云く「後五百歳」等云云、正法華経の勧説品に云く「然後

末世」又云く「然後来末世」等云云、添品法華経に云く等、天台の云く「像法の中の南三北七は法華経の怨敵な

り」、伝教の云く「像法の末南都六宗の学者は法華の怨敵なり」等云云、彼等の時はいまだ分明ならず、此は教

主釈尊多宝仏宝塔の中に日月の並ぶがごとく十方分身の諸仏樹下に星を列ねたりし中にして正法一千年像法一千

年二千年すぎて末法の始に法華経の怨敵三類あるべしと八十万億那由佗の諸菩薩の定め給いし虚妄となるべしや

、当世は如来滅後二千二百余年なり大地は指ばはづるとも春は花はさかずとも三類の敵人必ず日本国にあるべし

、さるにてはたれたれの人人か三類の内なるらん又誰人か法華経の行者なりとさされたるらんをぼつかなし、彼

の三類の怨敵に我等入りてやあるらん又法華経の行者の内にてやあるらんをぼつかなし、周の第四昭王の御宇二

十四年甲寅四月八日の夜中に天に五色の光気南北に亘りて昼のごとし、大地六種に震動し

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雨ふらずして江河井池の水まさり一切の草木に花さき菓なりたりけり不思議なりし事なり、昭王大に驚き大史蘇

由占つて云く「西方に聖人生れたり」昭王問て云く「此の国いかん」答えて云く「事なし一千年の後に彼の聖言

此の国にわたつて衆生を利すべし」彼のわづかの外典の一毫未断見思の者しかれども一千年のことをしる、はた

して仏教一千一十五年と申せし後漢の第二明帝の永平十年丁卯の年仏法漢土にわたる、此は似るべくもなき釈迦

多宝十方分身の仏の御前の諸菩薩の未来記なり、当世日本国に三類の法華経の敵人なかるべしや、されば仏付法

蔵経等に記して云く「我が滅後に正法一千年が間我が正法を弘むべき人二十四人次第に相続すべし」迦葉阿難等

はさてをきぬ一百年の脇比丘六百年の馬鳴七百年の竜樹菩薩等一分もたがはずすでに出で給いぬ、此の事いかん

がむなしかるべき此の事相違せば一経皆相違すべし、所謂舎利弗が未来の華光如来迦葉の光明如来も皆妄語とな

るべし、爾前返つて一定となつて永不成仏の諸声聞なり、犬野干をば供養すとも阿難等をば供養すべからずとな

ん、いかんがせんいかんがせん。

 第一の有諸無智人と云うは経文の第二の悪世中比丘と第三の納衣の比丘の大檀那と見へたり、随つて妙楽大師

は「俗衆」等云云、東春に云く「公処に向う」等云云、第二の法華経の怨敵は経に云く「悪世中の比丘は邪智に

して心諂曲に未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」等云云、涅槃経に云く「是の時に当に諸の悪比

丘有るべし乃至是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来深密の要義を滅除せん」等云云、止観に云く

「若し信無きは高く聖境に推して己が智分に非ずとす、若し智無きは増上慢を起し己れ仏に均しと謂う」等云云

、道綽禅師が云く「二に理深解微なるに由る」等云云、法然云く「諸行は機に非ず時を失う」等云云、記の十に

云く「恐くは人謬り解せん者初心の功徳の大なることを識らずして功を上位に推り此の初心を蔑にせん故に今彼

の行浅く功深きことを示して以て経力を顕す」等云云、伝教大師云く「正像稍過ぎ已て

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末法太はだ近きに有り法華一乗の機今正しく是其の時なり何を以て知ることを得る安楽行品に云く末世法滅の時

なり」等云云、慧心の云く「日本一州円機純一なり」等云云、道綽と伝教と法然と慧心といづれ此を信ずべしや

、彼の一切経に証文なし此れは正しく法華経によれり、其の上日本国一同に叡山の大師は受戒の師なり何ぞ天魔

のつける法然に心をよせ我が剃頭の師をなげすつるや、法然智者ならば何ぞ此の釈を選択に載せて和会せざる人

の理をかくせる者なり、第二の悪世中比丘と指さるるは法然等の無戒邪見の者なり、涅槃経に云く「我れ等悉く

邪見の人と名く」等云云、妙楽云く「自ら三教を指して皆邪見と名く」等云云、止観に云く「大経に云く此より

の前は我等皆邪見の人と名くるなり、邪豈悪に非ずや」等云云、弘決に云く「邪は即ち是れ悪なり是の故に当に

知るべし唯円を善と為す、復二意有り、一には順を以つて善と為し背を以つて悪と為す相待の意なり、著を以つ

て悪と為し達を以つて善と為す相待絶待倶に須く悪を離るべし円に著する尚悪なり況や復余をや」等云云、外道

の善悪は小乗経に対すれば皆悪道小乗の善道乃至四味三教は法華経に対すれば皆邪悪但法華のみ正善なり、爾前

の円は相待妙なり、絶待妙に対すれば猶悪なり前三教に摂すれば猶悪道なり、爾前のごとく彼の経の極理を行ず

る猶悪道なり、況や観経等の猶華厳般若経等に及ばざる小法を本として法華経を観経に取り入れて還つて念仏に

対して閣抛閉捨せるは法然並びに所化の弟子等檀那等は誹謗正法の者にあらずや、釈迦多宝十方の諸仏は法をし

て久しく住せしめんが故に此に来至し給えり、法然並に日本国の念仏者等は法華経は末法に念仏より前に滅尽す

べしと豈三聖の怨敵にあらずや。

 第三は、法華経に云く「或は阿練若に有り納衣にして空閑に在つて乃至白衣の与に法を説いて世に恭敬せらる

ることを為ること六通の羅漢の如くならん」等云云、六巻の般泥。経に云く「羅漢に似たる一闡提有つて悪業を

行じ一闡提に似たる阿羅漢あつて慈心を作さん、羅漢に似たる一闡提有りとは是諸の衆生の方等を誹謗するなり

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一闡提に似たる阿羅漢とは声聞を毀呰して広く方等を説き衆生に語つて言く我汝等と倶に是れ菩薩なり所以は何

ん一切皆如来の性有るが故に然かも彼の衆生は一闡提と謂わん」等云云、涅槃経に云く「我れ涅槃の後像法の中

に当に比丘有るべし持律に似像して少かに経典を読誦し飲食を貪嗜して其の身を長養せん袈裟を服ると雖も猶猟

師の細視徐行するが如く猫の鼠を伺うが如し、常に是の言を唱えん我羅漢を得たりと外には賢善を現し内には貪

嫉を懐く唖法を受けたる婆羅門等の如く実には沙門に非ずして沙門の像を現じ邪見熾盛にして正法を誹謗せん」

等云云、妙楽云く「第三最も甚し後後の者転識り難きを以つての故に」等云云、東春云く「第三に或有阿練若よ

り下の三偈は即是出家の処に一切の悪人を摂す」等云云、東春に「即是出家の処に一切の悪人を摂する」等とは

当世日本国には何れの処ぞや、叡山か園城か東寺か南都か建仁寺か寿福寺か建長寺かよくよくたづぬべし、延暦

寺の出家の頭に甲冑をよろうをさすべきか、園城寺の五分法身の膚に鎧杖を帯せるか、彼等は経文に納衣在空閑

と指すにはにず為世所恭敬如六通羅漢と人をもはず又転難識故というべしや華洛には聖一等鎌倉には良観等にに

たり、人をあだむことなかれ眼あらば経文に我が身をあわせよ、止観の第一に云く「止観の明静なることは前代

未だ聞かず」等云云、弘の一に云く「漢の明帝夜夢みし自り陳朝にぶまで禅門に予り厠て衣鉢伝授する者」等

云云、補注に云く「衣鉢伝授とは達磨を指す」等云云、止の五に云く「又一種の禅人乃至盲跛の師徒二倶に堕落

す」等云云、止の七に云く「九の意世間の文字の法師と共ならず、事相の禅師と共ならず、一種の禅師は唯観心

の一意のみ有り或は浅く或は偽る余の九は全く此無し虚言に非ず後賢眼有らん者は当に証知すべきなり」、弘の

七に云く「文字法師とは内に観解無くして唯法相を構う事相の禅師とは境智を閑わず鼻膈に心を止む乃至根本有

漏定等なり、一師唯有観心一意等とは此は且く与えて論を為す奪えば則ち観解倶に闕く、世間の禅人偏えに理観

を尚ぶ既に教を諳んぜず観を以つて経を消し八邪八風を数えて丈六の仏と為し五陰三毒を合して名けて八邪と為

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六入を用いて六通と為し四大を以つて四諦と為す、此くの如く経を解するは偽の中の偽なり何ぞ浅くして論ず可

けんや」等云云、止観の七に云く「昔蝸撃フ禅師名河海に播き住するときは四方雲の如くに仰ぎ去るときは阡陌

群を成し隠隠轟轟亦何の利益か有る、臨終に皆悔ゆ」等云云、弘の七に云く「蝸撃フ禅師とは蛯ヘ相州に在り即

ち斉魏の都する所なり、大に仏法を興す禅祖の一其の地を王化す、時人の意を譲りて其の名を出さず洛は即ち洛

陽なり」等云云、六巻の般泥。経に云く「究竟の処を見ずとは彼の一闡提の輩の究竟の悪業を見ざるなり」等云

云、妙楽云く「第三最も甚だし転識り難きが故に」等、無眼の者一眼の者邪見の者は末法の始の三類を見るべか

らず一分の仏眼を得るもの此れをしるべし、向国王大臣婆羅門居士等云云、東春に云く「公処に向い法を毀り人

を謗ず」等云云、夫れ昔像法の末には護命修円等奏状をささげて伝教大師を讒奏す、今末法の始には良観念阿等

偽書を注して将軍家にささぐあに三類の怨敵にあらずや。

 当世の念仏者等天台法華宗の檀那の国王大臣婆羅門居士等に向つて云く「法華経は理深我等は解微法は至つて

深く機は至つて浅し」等と申しうとむるは高推聖境非己智分の者にあらずや、禅宗の云く「法華経は月をさす指

禅宗は月なり月をえて指なにかせん、禅は仏の心法華経は仏の言なり仏法華経等の一切経をとかせ給いて後最後

に一ふさの華をもつて迦葉一人にさづく、其のしるしに仏の御袈裟を迦葉に付属し乃至付法蔵の二十八六祖まで

に伝う」等云云、此等の大妄語国中を誑酔せしめてとしひさし、又天台真言の高僧等名は其の家にえたれども我

が宗にくらし、貪欲は深く公家武家ををそれて此の義を証伏し讃歎す、昔の多宝分身の諸仏は法華経の令法久住

を証明す、今天台宗の碩徳は理深解微を証伏せり、かるがゆへに日本国に但法華経の名のみあつて得道の人一人

もなし、誰をか法華経の行者とせん、寺塔を焼いて流罪せらるる僧侶はかずをしらず、公家武家に諛うてにくま

るる高僧これ多し、此等を法華経の行者というべきか。

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 仏語むなしからざれば三類の怨敵すでに国中に充満せり、金言のやぶるべきかのゆへに法華経の行者なしいか

がせんいかがせん、抑たれやの人か衆俗に悪口罵詈せらるる誰の僧か刀杖を加へらるる、誰の僧をか法華経のゆ

へに公家武家に奏する誰の僧か数数見擯出と度度ながさるる、日蓮より外に日本国に取り出さんとするに人なし

、日蓮は法華経の行者にあらず天これをすて給うゆへに、誰をか当世の法華経の行者として仏語を実語とせん、

仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず聖徳太子と守屋とは蓮華の花菓同時なるがごとし、法華経の行者

あらば必ず三類の怨敵あるべし、三類はすでにあり法華経の行者は誰なるらむ、求めて師とすべし一眼の亀の浮

木に値うなるべし。

 有る人云く当世の三類はほぼ有るににたり、但し法華経の行者なし汝を法華経の行者といはんとすれば大なる

相違あり、此の経に云く「天の諸の童子以て給使を為さん、刀杖も加えず、毒も害すること能わざらん」又云く

「若し人悪罵すれば口則閉塞す」等、又云く「現世には安穏にして後善処に生れん」等云云、又「頭破れて七分

と作ること阿梨樹の枝の如くならん」又云く「亦現世に於て其の福報を得ん」等又云く「若し復是の経典を受持

する者を見て其の過悪を出せば若しは実にもあれ若しは不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん」等云云、答

えて云く汝が疑い大に吉しついでに不審を晴さん、不軽品に云く「悪口罵詈」等、又云く「或は杖木瓦石を以て

之を打擲す」等云云、涅槃経に云く「若しは殺若しは害」等云云、法華経に云く「而かも此の経は如来の現在す

ら猶怨嫉多し」等云云、仏は小指を提婆にやぶられ九横の大難に値い給う此は法華経の行者にあらずや、不軽菩

薩は一乗の行者といはれまじきか、目連は竹杖に殺さる法華経記の後なり、付法蔵の第十四の提婆菩薩第二十

五の師子尊者の二人は人に殺されぬ、此等は法華経の行者にはあらざるか、竺の道生は蘇山に流されぬ法道は火

印を面にやいて江南にうつさる此等は一乗の持者にあらざるか、外典の者なりしかども白居易北野の天神は遠流

せらる賢人にあらざるか、

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事の心を案ずるに前生に法華経誹謗の罪なきもの今生に法華経を行ずこれを世間の失によせ或は罪なきをあだす

れば忽に現罰あるか修羅が帝釈をいる金翅鳥の阿耨池に入る等必ず返つて一時に損するがごとし、天台云く「今

我が疾苦は皆過去に由る今生の修福は報将来に在り」等云云、心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の

現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」等云云、不軽品に云く「其の罪畢已」等云云、

不軽菩薩は過去に法華経を謗じ給う罪身に有るゆへに瓦石をかほるとみへたり、又順次生に必ず地獄に堕つべき

者は重罪を造るとも現罰なし一闡提人これなり、涅槃経に云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊仏の所説の如く大

涅槃の光一切衆生の毛孔に入る」等云云、又云く「迦葉菩薩仏に白して言く世尊云何んぞ未だ菩提の心を発さざ

る者菩提の因を得ん」等云云、仏此の問を答えて云く「仏迦葉に告わく若し是の大涅槃経を聞くこと有つて我菩

提心を発すことを用いずと言つて正法を誹謗せん、是の人即時に夜夢の中に羅刹の像を見て心中怖畏す羅刹語つ

て言く咄し善男子汝今若し菩提心を発さずんば当に汝が命を断つべし是の人惶怖し寤め已つて即ち菩提の心を発

す当に是の人是れ大菩薩なりと知るべし」等云云、いたうの大悪人ならざる者が正法を誹謗すれば即時に夢みて

ひるがへる心生ず、又云く「枯木石山」等、又云く「」種甘雨に遇うと雖も」等又「明珠淤泥」等、又云く「人

の手に創あるに毒薬を捉るが如し」等、又云く「大雨空に住せず」等云云、此等多くの譬あり、詮ずるところ上

品の一闡提人になりぬれば順次生に必ず無間獄に堕つべきゆへに現罰なし例せば夏の桀殷の紂の世には天変なし

重科有て必ず世ほろぶべきゆへか、又守護神此国をすつるゆへに現罰なきか謗法の世をば守護神すて去り諸天ま

ほるべからずかるがゆへに正法を行ずるものにしるしなし還つて大難に値うべし金光明経に云く「善業を修する

者は日日に衰減す」等云云、悪国悪時これなり具さには立正安国論にかんがへたるがごとし。

P0232

 詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の

責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは

地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の

頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難風

の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべか

らず。

 疑つて云くいかにとして汝が流罪死罪等を過去の宿習としらむ、答えて云く銅鏡は色形を顕わす秦王験偽の鏡

は現在の罪を顕わす仏法の鏡は過去の業因を現ず、般泥。経に云く「善男子過去に曾て無量の諸罪種種の悪業を

作るに是の諸の罪報は或は軽易せられ或は形状醜陋衣服足らず飲食疎財を求むるに利あらず貧賎の家邪見の家

に生れ或は王難に遭い及び余の種種の人間の苦報あらん現世に軽く受るは斯れ護法の功徳力に由るが故なり」云

云、此の経文日蓮が身に宛も符契のごとし狐疑の氷とけぬ千万の難も由なし一一の句を我が身にあわせん、或被

軽易等云云、法華経に云く「軽賎憎嫉」等云云二十余年が間の軽慢せらる、或は形状醜陋又云く衣服不足は予が

身なり飲食疎は予が身なり求財不利は予が身なり生貧賎家は予が身なり、或遭王難等此の経文疑うべしや、法

華経に云く「数数擯出せられん」此の経文に云く「種種」等云云、斯由護法功徳力故等とは摩訶止観の第五に云

く「散善微弱なるは動せしむること能わず今止観を修して健病虧ざれば生死の輪を動ず」等云云、又云く「三障

四魔紛然として競い起る」等云云我れ無始よりこのかた悪王と生れて法華経の行者の衣食田畠等を奪いとりせし

ことかずしらず、当世日本国の諸人の法華経の山寺をたうすがごとし、又法華経の行者の頚を刎こと其の数をし

らず此等の重罪はたせるもありいまだはたさざるもあるらん、

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果すも余残いまだつきず生死を離るる時は必ず此の重罪をけしはてて出離すべし、功徳は浅軽なり此等の罪は深

重なり、権経を行ぜしには此の重罪いまだをこらず鉄を熱にいたうきたわざればきず隠れてみえず、度度せむれ

ばきずあらはる、麻子をしぼるにつよくせめざれば油少きがごとし、今ま日蓮強盛に国土の謗法を責むれば此の

大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出だせるなるべし、鉄は火に値わざれば黒し火と合いぬれば赤し木

をもつて急流をかけば波山のごとし睡れる師子に手をつくれば大に吼ゆ。

 涅槃経に曰く「譬えば貧女の如し居家救護の者有ること無く加うるに復病苦飢渇に逼められて遊行乞丐す、他

の客舎に止り一子を寄生す是の客舎の主駈逐して去らしむ、其の産して未だ久しからず是の児を抱して他国に

至らんと欲し、其の中路に於て悪風雨に遇て寒苦並び至り多く蚊虻蜂螫毒虫のい食う所となる、恒河に逕由し

児を抱いて渡る其の水漂疾なれども而も放ち捨てず是に於て母子遂に共倶に没しぬ、是くの如き女人慈念の功徳

命終の後梵天に生ず、文殊師利若し善男子有つて正法を護らんと欲せば彼の貧女の恒河に在つて子を愛念するが

為に身命を捨つるが如くせよ、善男子護法の菩薩も亦是くの如くなるべし、寧ろ身命を捨てよ是くの如きの人解

脱を求めずと雖も解脱自ら至ること彼の貧女の梵天を求めざれども梵天自ら至るが如し」等云云、此の経文は章

安大師三障をもつて釈し給へり、それをみるべし、貧人とは法財のなきなり女人とは一分の慈ある者なり、客舎

とは穢土なり一子とは法華経の信心了因の子なり舎主駈逐とは流罪せらる其の産して未だ久しからずとはいまだ

信じてひさしからず、悪風とは流罪の勅宣なり蚊虻等とは諸の無智の人有り悪口罵詈等なり母子共に没すとは終

に法華経の信心をやぶらずして頚を刎らるるなり、梵天とは仏界に生るるをいうなり引業と申すは仏界までかは

らず、日本漢土の万国の諸人を殺すとも五逆謗法なければ無間地獄には堕ちず、余の悪道にして多歳をふべし、

色天に生るること万戒を持てども万善を修すれども散善にては生れず、

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又梵天王となる事有漏引業の上に慈悲を加えて生ずべし、今此の貧女が子を念うゆへに梵天に生る常の性相には

相違せり、章安の二はあれども詮ずるところは子を念う慈念より外の事なし、念を一境にする、定に似たり専子

を思う又慈悲にもにたり、かるがゆへに他事なけれども天に生るるか、又仏になる道は華厳の唯心法界三論の八

不法相の唯識真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ、此

の一念三千も我等一分の慧解もなし、而ども一代経経の中には此の経計り一念三千の玉をいだけり、余経の理は

玉ににたる黄石なり沙をしぼるに油なし石女に子のなきがごとし、諸経は智者猶仏にならず此の経は愚人も仏因

を種べし不求解脱解脱自至等と云云、我並びに我が弟子諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天

の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども疑いををこして皆す

てけんつたなき者のならひは約束せし事をまことの時はわするるなるべし、妻子を不便とをもうゆへ現身にわか

れん事をなげくらん、多生曠劫にしたしみし妻子には心とはなれしか仏道のためにはなれしか、いつも同じわか

れなるべし、我法華経の信心をやぶらずして霊山にまいりて返てみちびけかし。

 疑つて云く念仏者と禅宗等を無間と申すは諍う心あり修羅道にや堕つべかるらむ、又法華経の安楽行品に云く

「楽つて人及び経典の過を説かざれ亦諸余の法師を軽慢せざれ」等云云、汝此の経文に相違するゆへに天にすて

られたるか、答て云く止観に云く「夫れ仏に両説あり一には摂二には折安楽行に不称長短という如き是れ摂の義

なり、大経に刀杖を執持し乃至首を斬れという是れ折の義なり与奪途を殊にすと雖も倶に利益せしむ」等云云、

弘決に云く「夫れ仏に両説あり等とは大経に刀杖を執持すとは第三に云く正法を護る者は五戒を受けず威儀を修

せず、乃至下の文仙予国王等の文、又新医禁じて云く若し更に為すこと有れば当に其の首を断つべし是くの如き

等の文並びに是れ破法の人を折伏するなり一切の経論此の二を出でず」等云云、文句に云く

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「問う大経には国王に親付し弓を持ち箭を帯し悪人を摧伏せよと明す、此の経は豪勢を遠離し謙下慈善せよと剛

柔碩いに乖く云何ぞ異ならざらん、答う大経には偏に折伏を論ずれども一子地に住す何ぞ曾て摂受無からん、此

の経には偏に摂受を明せども頭破七分と云う折伏無きに非ず各一端を挙げて時に適う而已」等云云、涅槃経の疏

に云く「出家在家法を護らんには其の元心の所為を取り事を棄て理を存して匡に大経を弘む故に護持正法と言う

は小節に拘わらず故に不修威儀と言うなり、昔の時は平にして法弘まる応に戒を持つべし杖を持つこと勿れ今の

時は嶮にして法翳る応に杖を持つべし戒を持つこと勿れ、今昔倶に嶮ならば倶に杖を持つべし今昔倶に平ならば

倶に戒を持つべし、取捨宜きを得て一向にす可からず」等云云、汝が不審をば世間の学者多分道理とをもう、い

かに諌暁すれども日蓮が弟子等も此のをもひをすてず一闡提人のごとくなるゆへに先づ天台妙楽等の釈をいだし

てかれが邪難をふせぐ、夫れ摂受折伏と申す法門は水火のごとし火は水をいとう水は火をにくむ、摂受の者は折

伏をわらう折伏の者は摂受をかなしむ、無智悪人の国土に充満の時は摂受を前とす安楽行品のごとし、邪智謗法

の者の多き時は折伏を前とす常不軽品のごとし、譬へば熱き時に寒水を用い寒き時に火をこのむがごとし、草木

は日輪の眷属寒月に苦をう諸水は月輪の所従熱時に本性を失う、末法に摂受折伏あるべし所謂悪国破法の両国あ

るべきゆへなり、日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。

 問うて云く摂受の時折伏を行ずると折伏の時摂受を行ずると利益あるべしや、答えて云く涅槃経に云く「迦葉

菩薩仏に白して言く如来の法身は金剛不壊なり未だ所因を知ること能わず云何、仏の言く迦葉能く正法を護持す

る因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり、迦葉我護持正法の因縁にて今是の金剛身常住不壊を成

就することを得たり、善男子正法を護持する者は五戒を受けず威儀を修せず応に刀剣弓箭を持つべし、是くの如

く種種に法を説くも然も故師子吼を作すこと能わず非法の悪人を降伏すること能わず、是くの如き比丘自利し

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及び衆生を利すること能わず、当に知るべし是の輩は懈怠懶惰なり能く戒を持ち浄行を守護すと雖も当に知るべ

し是の人は能く為す所無からん、乃至時に破戒の者有つて是の語を聞き已つて咸共に瞋恚して是の法師を害せん

是の説法の者設い復命終すとも故持戒自利利他と名く」等云云、章安の云く「取捨宜きを得て一向にす可からず

」等、天台云く「時に適う而已」等云云、譬へば秋の終りに種子を下し田畠をかえさんに稲米をうることかたし

、建仁年中に法然大日の二人出来して念仏宗禅宗を興行す、法然云く「法華経は末法に入つては未有一人得者千

中無一」等云云、大日云く「教外別伝」等云云、此の両義国土に充満せり、天台真言の学者等念仏禅の檀那をへ

つらいをづる事犬の主にををふりねづみの猫ををそるるがごとし、国王将軍にみやつかひ破仏法の因縁破国の因

縁を能く説き能くかたるなり、天台真言の学者等今生には餓鬼道に堕ち後生には阿鼻を招くべし、設い山林にま

じわつて一念三千の観をこらすとも空閑にして三密の油をこぼさずとも時機をしらず摂折の二門を弁へずばいか

でか生死を離るべき。

 問うて云く念仏者禅宗等を責めて彼等にあだまれたるいかなる利益かあるや、答えて云く涅槃経に云く「若し

善比丘法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈

遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子真の声聞なり」等云云、「仏法を壊乱するは仏法中の怨なり慈無くして詐り親

しむは是れ彼が怨なり能く糾治せんは是れ護法の声聞真の我が弟子なり彼が為に悪を除くは即ち是れ彼が親なり

能く呵責する者は是れ我が弟子駈遣せざらん者は仏法中の怨なり」等云云。

 夫れ法華経の宝塔品を拝見するに釈迦多宝十方分身の諸仏の来集はなに心ぞ「令法久住故来至此」等云云、三

仏の未来に法華経を弘めて未来の一切の仏子にあたえんとおぼしめす御心の中をすいするに父母の一子の大苦に

値うを見るよりも強盛にこそみへたるを法然いたはしともおもはで末法には法華経の門を堅く閉じて人を入れじ

とせき

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狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに法華経を抛させける心こそ無慚に見へ候へ、我が父母を人の殺さんに

父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人寺塔に火を放たんにせいせざるべ

しや、一子の重病を炙せざるべしや、日本の禅と念仏者とをみて制せざる者はかくのごとし「慈無くして詐り親

しむは即ち是れ彼が怨なり」等云云。

 日蓮は日本国の諸人にしうし(主師親)父母なり一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり「彼が為に悪を除くは即

ち是れ彼が親」等云云、無道心の者生死をはなるる事はなきなり、教主釈尊の一切の外道に大悪人と罵詈せられ

させ給い天台大師の南北並びに得一に三寸の舌もつて五尺の身をたつと伝教大師の南京の諸人に「最澄未だ唐都

を見ず」等といはれさせ給いし皆法華経のゆへなればはぢならず愚人にほめられたるは第一のはぢなり、日蓮が

御勘気をかほれば天台真言の法師等悦ばしくやをもうらんかつはむざんなりかつはきくわいなり、夫れ釈尊は娑

婆に入り羅什は秦に入り伝教は尸那に入り提婆師子は身をすつ薬王は臂をやく上宮は手の皮をはぐ釈迦菩薩は肉

をうる楽法は骨を筆とす、天台の云く「適時而已」等云云、仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば

なげかしからず、後生には大楽をうくべければ大に悦ばし。

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