四信五品抄

四信五品抄 / 建治三年四月十日 五十六歳御作

+ 与富木常忍

青鳧一結送り給び候い了んぬ。

今来の学者一同の御存知に云く「在世滅後異なりと雖も法華を修行するには必ず三学を具す一を欠いても成ぜ

ず」云云。

余又年来此の義を存する処一代聖教は且らく之を置く法華経に入つて此の義を見聞するに序正の二段は且らく

之を置く流通の一段は末法の明鏡尤も依用と為すべし、而して流通に於て二有り一には所謂迹門の中の法師等の

五品二には所謂本門の中の分別功徳の半品より経を終るまで十一品半なり、此の十一品半と五品と合せて十六品

半此の中に末法に入つて法華を修行する相貌分明なり是に尚事行かずんば普賢経涅槃経等を引き来りて之れを糾

明せんに其の隠れ無きか、其の中の分別功徳品の四信と五品とは法華を修行するの大要在世滅後の亀鏡なり。

 荊谿の云く「一念信解とは即ち是れ本門立行の首なり」と云云、其の中に現在の四信の初の一念信解と滅後の

五品の第一の初随喜と此の二処は

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一同に百界千如一念三千の宝篋十方三世の諸仏の出る門なり、天台妙楽の二の聖賢此の二処の位を定むるに三の

釈有り所謂或は相似十信鉄輪の位或は勧行五品の初品の位未断見思或は名字即の位なり、止観に其の不定を会し

て云く「仏意知り難し機に赴きて異説す此を借って開解せば何ぞ労しく苦に諍わん」云云等。

 予が意に云く、三釈の中名字即は経文に叶うか滅後の五品の初の一品を説いて云く「而も毀呰せずして随喜の

心を起す」と若し此の文相似の五品に渡らば而不毀呰の言は便ならざるか、就中寿量品の失心不失心等は皆名字

即なり、涅槃経に「若信若不信乃至熈連」とあり之を勘えよ、又一念信解の四字の中の信の一字は四信の初めに

居し解の一字は後に奪わるる故なり、若し爾らば無解有信は四信の初位に当る経に第二信を説いて云く「略解言

趣」と云云、記の九に云く「唯初信を除く初は解無きが故に」随つて次下の随喜品に至って上の初随喜を重ねて

之を分明にす五十人是皆展転劣なり、第五十人に至って二の釈有り一には謂く第五十人は初随喜の内なり二には

謂く第五十人は初随喜の外なりと云うは名字即なり、教弥よ実なれば位弥よ下れりと云う釈は此の意なり、四味

三教よりも円教は機を摂し爾前の円教よりも法華経は機を摂し迹門よりも本門は機を尽すなり教弥実位弥下の六

字心を留めて案ず可し。

 問う末法に入って初心の行者必ず円の三学を具するや不や、答えて日く此の義大事たる故に経文を勘え出して

貴辺に送付す、所謂五品の初二三品には仏正しく戒定の二法を制止して一向に慧の一分に限る慧又勘ざれば信を

以て慧に代え信の一字を詮と為す、不信は一闡提謗法の因信は慧の因名字即の位なり、天台云く「若し相似の益

は隔生すれども忘れず名字勧行の益は隔生すれば即ち忘る或は忘れざるも有り忘るる者も若し知識に値えば宿善

還つて生ず若し悪友に値えば則ち本心を失う」云云、恐らくは中古の天台宗の慈覚智証の両大師も

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天台伝教の善知識に違背して心無畏不空等の悪友に遷れり、末代の学者慧心の往生要集の序に誑惑せられて法華

の本心を失い弥陀の権門に入る退大取小の者なり、過去を以て之を推するに未来無量劫を経て三悪道に処せん若

し悪友に値えば即ち本心を失うとは是なり。

 問うて日く其の証如何答えて日く止観第六に云く「前教に其の位を高うする所以は方便の説なればなり円教の

位下きは真実の説なればなり」弘決に云く「前教と云うより下は正く権実を判ず教弥よ実なれば位弥よ下く教弥

よ権なれば位弥よ高き故に」と、又記の九に云く「位を判ずることをいわば観境弥よ深く実位弥よ下きを顕す」

と云云、他宗は且らく之を置く天台一門の学者等何ぞ実位弥下の釈を閣いて慧心僧都の筆を用ゆるや、畏智空と

覚証との事は追つて之を習え大事なり大事なり一閻浮提第一の大事なり心有らん人は聞いて後に我を外め。

 問うて云く末代初心の行者何物をか制止するや、答えて日く檀戒等の五度を制止して一向に南無妙法蓮華経と

称せしむるを一念信解初随喜の気分と為すなり是れ則ち此の経の本意なり、疑って云く此の義未だ見聞せず心を

驚かし耳を迷わす明かに証文を引て請う苦に之を示せ、答えて云く経に云く「須く我が為に復た塔寺を起て及び

僧坊を作り四事を以て衆僧を供養することをもちいざれ」此の経文明かに初心の行者に檀戒等の五度を制止する

文なり、疑って云く汝が引く所の経文は但寺塔と衆僧と計りを制止して未だ諸の戒等に及ばざるか、答えて日く

初を挙げて後を略す、問て日く何を以て之を知らん、答えて日く次下の第四品の経文に云く「況や復人有つて能

く是の経を持ちて兼ねて布施持戒等を行ぜんをや」云云、経文分明に初二三品の人には檀戒等の五度を制止し第

四品に至って始めて之を許す後に許すを以て知んぬ初に制する事を、問うて日く経文一往相似たり将た又疏釈有

りや、答えて日く汝が尋ぬる所の釈とは月氏四依の論か将た又漢土日本の人師の書か本を捨て末を尋ね体を離れ

て影を求め源を忘れて流を貴ぶ分明なる経文を閣いて論釈を請い尋ぬ本経に相違する末釈有らば本経を捨てて

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末釈に付く可きか然りと雖も好みに随て之を示さん、文句の九に云く「初心は縁に紛動せられて正業を修するを

妨げんことを畏る直ちに専ら此の経を持つ即ち上供養なり事を廃して理を存するは所益弘多なり」と、此の釈に

縁と云うは五度なり初心の者兼ねて五度を行ずれば正業の信を妨ぐるなり、譬えば小船に財を積んで海を渡るに

財と倶に没するが如し、直専持此経と云うは一経に亘るに非ず専ら題目を持って余文を雑えず尚一経の読誦だも

許さず何に況や五度をや、「廃事存理」と云うは戒等の事を捨てて題目の理を専らにす云云、所益弘多とは初心

の者諸行と題目と並び行ずれば所益全く失うと云云。

 文句に云く「問う若爾らば経を持つは即ち是れ第一義の戒なり何が故ぞ復能く戒を持つ者と言うや、答う此は

初品を明かす後を以て難を作すべからず」等云云、当世の学者此の釈を見ずして末代の愚人を以て南岳天台の二

聖に同ず誤りの中の誤りなり、妙楽重ねて之を明して云く「問う若し爾らば若し事の塔及び色身の骨を須いず亦

須く事の戒を持つべからざるべし乃至事の僧を供養することを須いざるや」等云云、伝教大師の云く「二百五十

戒忽に捨て畢んぬ」唯教大師一人に限るに非ず鑒真の弟子如宝道忠並びに七大寺等一同に捨て了んぬ、又教大師

未来を誡めて云く「末法の中に持戒の者有らば是れ怪異なり市に虎有るが如し此れ誰か信ず可き」云云。

 問う汝何ぞ一念三千の観門を勧進せず唯題目許りを唱えしむるや、答えて日く日本の二字に六十六国の人畜財

を摂尽して一も残さず月氏の両字に豈七十ケ国無からんや、妙楽の云く「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む

」又云く「略して界如を挙ぐるに具さに三千を摂す、文殊師利菩薩阿難尊者三会八年の間の仏語之を挙げて妙法

蓮華経と題し次下に領解して云く「如是我聞」と云云。

 問う其の義を知らざる人唯南無妙法蓮華経と唱うるに解義の功徳を具するや否や、答う小児乳を含むに其の味

を知らざれども自然に身を益す耆婆が妙薬誰か弁えて之を服せん水心無けれども火を消し火物を焼く豈覚有らん

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竜樹天台皆此の意なり重ねて示す可し。

 問う何が故ぞ題目に万法を含むや、答う章安の云く「蓋し序王とは経の玄意を叙す玄意は文の心を述す文の心

は迹本に過ぎたるは莫し」妙楽の云く「法華の文心を出して諸教の所以を弁ず」云云、濁水心無けれども月を得

て自ら清めり草木雨を得豈覚有つて花さくならんや妙法蓮華経の五字は経文に非ず其の義に非ず唯一部の意なる

のみ、初心の行者其の心を知らざれども而も之を行ずるに自然に意に当るなり。

 問う汝が弟子一分の解無くして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何、答う此の人は但四味三教の極位

並びに爾前の円人に超過するのみに非ず将た又真言等の諸宗の元祖畏厳恩蔵宣摩導等に勝出すること百千万億倍

なり、請う国中の諸人我が末弟等を軽ずる事勿れ進んで過去を尋ぬれば八十万億劫に供養せし大菩薩なり豈熈連

一恒の者に非ずや退いて未来を論ずれば八十年の布施に超過して五十の功徳を備う可し天子の襁褓に纒れ大竜の

始めて生ずるが如し蔑如すること勿れ蔑如すること勿れ、妙楽の云く「若し悩乱する者は頭七分に破れ供養する

こと有る者は福十号に過ぐ」と、優陀延王は賓頭盧尊者を蔑如して七年の内に身を喪失し相州は日蓮を流罪して

百日の内に兵乱に遇えり、経に云く「若し復是の経典を受持する者を見て其の過悪を出さん若は実にもあれ若は

不実にもあれ此の人現世に白癩の病を得ん乃至諸悪重病あるべし」又云く「当に世世に眼無かるべし」等云云、

明心と円智とは現に白癩を得道阿弥は無眼の者と成りぬ、国中の疫病は頭破七分なり罰を以て徳を推するに我が

門人等は福過十号疑い無き者なり。

 夫れ人王三十代欽明の御宇に始めて仏法渡りし以来桓武の御宇に至るまで二十代二百余年の間六宗有りと雖も

仏法未だ定らず、爰に延暦年中に一りの聖人有つて此の国に出現せり所謂伝教大師是なり、此の人先きより弘通

する六宗を糾明し七寺を弟子と為して終に叡山を建てて本寺と為し諸寺を取つて末寺と為す、

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日本の仏法唯一門なり王法も二に非ず法定まり国清めり其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり其の後弘法慈

覚智証の三大師事を漢土に寄せて大日の三部は法華経に勝ると謂い剰さえ教大師の削ずる所の真言宗の宗の一字

之を副えて八宗と云云、三人一同に勅宣を申し下して日本に弘通し寺毎に法華経の義を破る是偏に已今当の文を

破らんと為して釈迦多宝十方の諸仏の大怨敵と成りぬ、然して後仏法漸く廃れ王法次第に衰え天照太神正八幡等

の久住の守護神は力を失い梵帝四天は国を去つて已に亡国と成らんとす情有らん人誰か傷み嗟かざらんや、所詮

三大師の邪法の興る所は所謂東寺と叡山の総持院と園城寺との三所なり禁止せずんば国土の滅亡と衆生の悪道と

疑い無き者か予粗此の旨を勘え国主に示すと雖も敢て叙用無し悲む可し悲む可し。