本尊問答抄

本尊問答抄 /弘安元年九月 五十七歳御作

+        与浄顕房日仲

 問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし、問

うて云く何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説

き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には皆応に七宝の塔を起てて極めて高広厳飾なら令むべ

し復舎利を安んずることを須いじ所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、涅槃経の第四如来性品に

云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は所謂法なり是の故に如来恭敬供養す法常なるを以ての故に諸仏も亦常なり

」云云、天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し亦必ずしも形像舎利並

びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。

 疑つて云く天台大師の摩訶止観の第二の四種三昧の御本尊は阿弥陀仏なり、不空三蔵の法華経の観智の儀軌は

釈迦多宝を以て法華経の本尊とせり、汝何ぞ此等の義に相違するや、答えて云く是れ私の義にあらず上に出だす

ところの経文並びに天台大師の御釈なり、但し摩訶止観の四種三昧の本尊は阿弥陀仏とは彼は常坐常行非行非坐

の三種の本尊は阿弥陀仏なり、文殊問経般舟三昧経請観音経等による、是れ爾前の諸経の内未顕真実の経なり、

半行半坐三昧には二あり、一には方等経の七仏八菩薩等を本尊とす彼の経による、二には法華経の釈迦多宝等を

引き奉れども法華三昧を以て案ずるに法華経を本尊とすべし、不空三蔵の法華儀軌は宝塔品の文によれり、此れ

は法華経の教主を本尊とす法華経の正意にはあらず、上に挙ぐる所の本尊は釈迦多宝十方の諸仏の御本尊法華経

の行者の正意なり。

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 問うて云く日本国に十宗あり所謂倶舎成実律法相三論華厳真言浄土禅法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちな

り所謂倶舎成実律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな(

盧遮那)報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り

法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす其の義あるべし、問う其の義如何仏と経

といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とする

が如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし。

 問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの

経釈を見給へ私の義にはあらず釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法

華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母諸仏の眼目なり釈迦大日総じて十方の諸仏は法華経よ

り出生し給へり故に今能生を以て本尊とするなり、問う其証拠如何、答う普賢経に云く「此の大乗経典は諸仏の

宝蔵なり十方三世の諸仏の眼目なり三世の諸の如来を出生する種なり」等云云、又云く「此の方等経は是れ諸仏

の眼なり諸仏は是に因つて五眼を具することを得たまえり仏の三種の身は方等より生ず是れ大法印にして涅槃海

を印す此くの如き海中より能く三種の仏の清浄の身を生ず此の三種の身は人天の福田応供の中の最なり」等云云

、此等の経文仏は所生法華経は能生仏は身なり法華経は神なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にか

ぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもとも逆なり。

 問うて云く法華経を本尊とすると大日如来を本尊とするといづれか勝るや、答う弘法大師慈覚大師智証大師の

御義の如くならば大日如来はすぐれ法華経は劣るなり、問う其の義如何、答う弘法大師の秘蔵宝鑰十住心に云く

「第八法華第九華厳第十大日経」等云云是は浅きより深きに入る、

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慈覚大師の金剛頂経の疏蘇悉地経の疏智証大師の大日経の旨帰等に云く「大日経第一法華経第二」等云云、問う

汝が意如何、答う釈迦如来多宝仏総じて十方の諸仏の御評定に云く已今当の一切経の中に法華最為第一なり云云

、問う今日本国中の天台真言等の諸僧並びに王臣万民疑つて云く日蓮法師めは弘法慈覚智証大師等に勝るべきか

如何、答う日蓮反詰して云く弘法慈覚智証大師等は釈迦多宝十方の諸仏に勝るべきか是一、今日本の国王より民

までも教主釈尊の御子なり釈尊の最後の御遺言に云く「法に依つて人に依らざれ」等云云、法華最第一と申すは

法に依るなり、然るに三大師等に勝るべしやとの給ふ諸僧王臣万民乃至所従牛馬等にいたるまで不孝の子にあら

ずや是二、問う弘法大師は法華経を見給はずや、答う弘法大師も一切経を読み給へり、其の中に法華経華厳経大

日経の浅深勝劣を読み給うに法華経を読給う様に云く文殊師利此の法華経は諸仏如来秘密の蔵なり諸経の中に於

て最も其の下に在り、又読み給う様に云く薬王今汝に告ぐ我が所説の諸経あり而も此の経の中に於て法華最第三

云云、又慈覚智証大師の読み給う様に云く諸経の中に於て最も其の中に在り又最為第二等云云、釈迦如来多宝仏

大日如来一切の諸仏法華経を一切経に相対して説いての給はく法華最第一、又説いて云く法華最も其の上に在り

云云、所詮釈迦十方の諸仏と慈覚弘法等の三大師といづれを本とすべきや、但し事を日蓮によせて釈迦十方の諸

仏には永く背きて三大師を本とすべきか如何。

 問う弘法大師は讃岐の国の人勤操僧正の弟子なり、三論法相の六宗を極む、去る延暦二十三年五月桓武天皇の

勅宣を帯びて漢土に入り順宗皇帝の勅に依りて青竜寺に入りて慧果和尚に真言の大法を相承し給へり慧果和尚は

大日如来よりは七代になり給う人はかはれども法門はをなじ譬えば瓶の水を猶瓶にうつすがごとし、大日如来と

金剛薩ト竜猛竜智金剛智不空慧果弘法との瓶は異なれども所伝の智水は同じ真言なり此の大師彼の真言を習いて

三千の波涛をわたりて日本国に付き給うに平城嵯峨淳和の三帝にさづけ奉る、

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去る弘仁十四年正月十九日に東寺を建立すべき勅を給いて真言の秘法を弘通し給う然らば五畿七道六十六箇国二

の島にいたるまでも鈴をとり杵をにぎる人たれかこの末流にあらざるや。

 又慈覚大師は下野の国の人広智菩薩の弟子なり、大同三年御歳十五にして伝教大師の御弟子となりて叡山に登

りて十五年の間六宗を習い法華真言の二宗を習い伝え承和五年御入唐漢土の会昌天子の御宇なり、法全元政義真

法月宗叡志遠等の天台真言の碩学に値い奉りて顕密の二道を習い極め給う、其の上殊に真言の秘教は十年の間功

を尽し給う大日如来よりは九代なり嘉祥元年仁明天皇の御師なり、仁寿斉衡に金剛頂経蘇悉地経の二経の疏を造

り叡山に総持院を建立して第三の座主となり給う天台の真言これよりはじまる。

 又智証大師は讃岐の国の人天長四年御年十四叡山に登り義真和尚の御弟子となり給う、日本国にては義真慈覚

円澄別当等の諸徳に八宗を習い伝え去る仁寿元年に文徳天皇の勅を給いて漢土に入り宣宗皇帝の大中年中に法全

良ー和尚等の諸大師に七年の間顕密の二教習い極め給いて去る天安二年に御帰朝文徳清和等の皇帝の御師なり、

何れも現の為当の為月の如く日の如く代代の明主時時の臣民信仰余り有り帰依怠り無し故に愚癡の一切偏に信ず

るばかりなり誠に法に依つて人に依らざれの金言を背かざるの外は争か仏によらずして弘法等の人によるべきや

、所詮其の心如何、答う夫れ教主釈尊の御入滅一千年の間月氏に仏法の弘通せし次第は先五百年は小乗後の五百

年は大乗小大権実の諍はありしかども顕密の定めはかすかなりき、像法に入りて十五年と申せしに漢土に仏法渡

る始は儒道と釈教と諍論して定めがたかりきされども仏法やうやく弘通せしかば小大権実の諍論いできたる、さ

れどもいたくの相違もなかりしに、漢土に仏法渡りて六百年玄宗皇帝の御宇善無畏金剛智不空の三三蔵月氏より

入り給いて後真言宗を立てしかば、華厳法華等の諸宗は以ての外にくだされき上一人自り下万民に至るまで真言

には法華経は雲泥なりと思いしなり、其の後徳宗皇帝の御宇に妙楽大師と申す人

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真言は法華経にあながちにをとりたりとおぼしめししかども、いたく立てる事もなかりしかば法華真言の勝劣を

弁える人なし。

 日本国は人王三十代欽明の御時百済国より仏法始めて渡りたりしかども始は神と仏との諍論こわくして三十余

年はすぎにき、三十四代推古天皇の御宇に聖徳太子始めて仏法を弘通し給う慧観観勒の二の上人百済国よりわた

りて三論宗を弘め、孝徳の御宇に道昭禅宗をわたす文武の御宇に新羅国の智鳳法相宗をわたす第四十四代元正天

皇の御宇に善無畏三蔵大日経をわたす然而弘まらず、聖武の御宇に審祥大徳朗弁僧正等華厳宗をわたす人王四十

六代孝謙天皇の御宇に唐代の鑒真和尚律宗と法華経をわたす律をばひろめ法華をば弘めず、第五十代桓武天皇の

御宇に延暦二十三年七月伝教大師勅宣を給いて漢土に渡り妙楽大師の御弟子道邃行満に値い奉りて法華宗の定慧

を伝え道宣律師に菩薩戒を伝え順暁和尚と申せし人に真言の秘教を習い伝えて日本国に帰り給いて、真言法華の

勝劣は漢土の師のおしへに依りては定め難しと思食しければここにして大日経と法華経と彼の釈と此の釈とを引

き並べて勝劣を判じ給いしに大日経は法華経に劣りたるのみならず大日経の疏は天台の心をとりて我が宗に入れ

たりけりと勘え給へり。

 其の後弘法大師真言経を下されける事を遺恨とや思食しけむ真言宗を立てんとたばかりて法華経は大日経に劣

るのみならず華厳経に劣れりと云云、あはれ慈覚智証叡山園城にこの義をゆるさずば弘法大師の僻見は日本国に

ひろまらざらまし、彼の両大師華厳法華の勝劣をばゆるさねど法華真言の勝劣をば永く弘法大師に同心せしかば

存外に本の伝教大師の大怨敵となる、其の後日本国の諸碩徳等各智慧高く有るなれども彼の三大師にこえざれば

今四百余年の間日本一同に真言は法華経に勝れけりと定め畢んぬたまたま天台宗を習へる人人も真言は法華に及

ばざるの由存ぜども天台の座主御室等の高貴におそれて申す事なしあるは又其の義をもわきまへぬかのゆへに

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からくして同の義をいへば一向真言師はさる事おもひもよらずとわらふなり。

 然らば日本国中に数十万の寺社あり皆真言宗なりたまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従の如く

なり若しくは兼学の人も心中は一同に真言なり、座主長吏検校別当一向に真言たるうへ上に好むところ下皆した

がふ事なれば一人ももれず真言師なり、されば日本国或は口には法華経最第一とはよめども心は最第二最第三な

り或は身口意共に最第二三なり、三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなしまして能

持此経の行者はあるべしともおぼへず、如来現在猶多怨嫉況滅度後の衆生は上一人より下万民にいたるまで法華

経の大怨敵なり。

 然るに日蓮は東海道十五箇国の内第十二に相当る安房の国長狭の郡東条の郷片海の海人が子なり、生年十二同

じき郷の内清澄寺と申す山にまかり登り住しき、遠国なるうへ寺とはなづけて候へども修学の人なし然而随分諸

国を修行して学問し候いしほどに我が身は不肖なり人はおしへず十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところ

に、たまたま仏菩薩に祈請して一切の経論を勘て十宗に合せたるに倶舎宗は浅近なれども一分は小乗経に相当す

るに似たり、成実宗は大小兼雑して謬ワあり律宗は本は小乗中比は権大乗今は一向に大乗宗とおもへり又伝教大

師の律宗あり別に習う事なり、法相宗は源権大乗経の中の浅近の法門にてありけるが次第に増長して権実と並び

結句は彼の宗宗を打ち破らんと存ぜり譬えば日本国の将軍将門純友等のごとし下に居て上を破る、三論宗も又権

大乗の空の一分なり此れも我は実大乗とおもへり、華厳宗は又権大乗と云ひながら余宗にまされり譬えば摂政関

白のごとし然而法華経を敵となして立てる宗なる故に臣下の身を以て大王に順ぜんとするがごとし、浄土宗と申

すも権大乗の一分なれども善導法然がたばかりかしこくして諸経をば上げ観経をば下し正像の機をば上げ末法の

機をば下して末法の機に相叶える念仏を取り出して機を以て経を打ち一代の聖教を失いて念仏の一門を立てたり

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譬えば心かしこくして身は卑しき者が身を上げて心はかなきものを敬いて賢人をうしなふがごとし、禅宗と申す

は一代聖教の外に真実の法有りと云云譬えばをやを殺して子を用い主を殺せる所従のしかも其の位につけるがご

とし、真言宗と申すは一向に大妄語にて候が深く其の根源をかくして候へば浅機の人あらはしがたし一向に誑惑

せられて数年を経て候先ず天竺に真言宗と申す宗なし然れども有りと云云、其の証拠を尋ぬ可きなり所詮大日経

ここにわたれり法華経に引き向けて其の勝劣を見候処に大日経は法華経より七重下劣の経なり証拠彼の経此の経

に分明なり[此に之を引かず]しかるを或は云く法華経に三重の主君或は二重の主君なりと云云以ての外の大僻

見なり、譬えば劉聡が下劣の身として愍帝に馬の口をとらせ超高が民の身として横に帝位につきしがごとし又彼

の天竺の大慢婆羅門が釈尊を床として坐せしがごとし漢土にも知る人なく日本にもあやしめずしてすでに四百余

年をおくれり。

 是くの如く仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国他国にやぶられて亡国となるべきなり、此の

事日蓮独り勘え知れる故に仏法のため王法のため諸経の要文を集めて一巻の書を造る仍つて故最明寺入道殿に奉

る立正安国論と名けき、其の書にくはしく申したれども愚人は知り難し、所詮現証を引いて申すべし抑人王八十

二代隠岐の法王と申す王有き去ぬる承久三年[太歳辛巳]五月十五日伊賀太郎判官光末を打捕まします鎌倉の義

時をうち給はむとての門出なり、やがて五畿七道の兵を召して相州鎌倉の権の太夫義時を打ち給はんとし給うと

ころに還りて義時にまけ給いぬ、結句我が身は隠岐の国にながされ太子二人は佐渡の国阿波の国にながされ給う

公卿七人は忽に頚をはねられてき、これはいかにとしてまけ給いけるぞ国王の身として民の如くなる義時を打ち

給はんは鷹の雉をとり猫の鼠を食むにてこそあるべけれこれは猫のねずみにくらはれ鷹の雉にとられたるやうな

り、しかのみならず調伏力を尽せり所謂天台の座主慈円僧正真言の長者仁和寺の御室園城寺の長吏

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総じて七大寺十五大寺智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法慈覚等の三大師の心中の深密の大法十五壇の秘法なり

、五月十九日より六月の十四日にいたるまであせをながしなづきをくだきて行いき最後には御室紫宸殿にして日

本国にわたりていまだ三度までも行はぬ大法六月八日始めて之を行う程に同じき十四日に関東の兵軍宇治勢多を

おしわたして洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉りて九重に火を放ちて一時に焼失す、三院をば三国へ流罪し奉

りぬ又公卿七人は忽に頚をきる、しかのみならず御室の御所に押し入りて最愛の弟子の小児勢多伽と申せしをせ

めいだして終に頚をきりにき御室思いに堪えずして死に給い畢んぬ母も死す童も死す、すべて此のいのりをたの

みし人いく千万といふ事をしらず死にきたまたまいきたるもかひなし、御室祈りを始め給いし六月八日より同じ

き十四日までなかをかぞふれば七日に満じける日なり、此の十五壇の法と申すは一字金輪四天王不動大威徳転法

輪如意輪愛染王仏眼六字金剛童子尊星王太元守護経等の大法なり此の法の詮は国敵王敵となる者を降伏して命を

召し取りて其の魂を密厳浄土へつかはすと云う法なり、其の行者の人人も又軽からず天台の座主慈円東寺御室三

井の常住院の僧正等の四十一人並びに伴僧等三百余人なり云云、法と云ひ行者と云ひ又代も上代なりいかにとし

てまけ給いけるぞたとひかつ事こそなくとも即時にまけおはりてかかるはぢにあひたりける事、いかなるゆへと

いふ事を余人いまだしらず、国主として民を討たん事鷹の鳥をとらんがごとしたとひまけ給うとも一年二年十年

二十年もささうべきぞかし五月十五日におこりて六月十四日にまけ給いぬわづかに三十余日なり、権の大夫殿は

此の事を兼てしらねば祈祷もなしかまへもなし。

 然而日蓮小智を以て勘えたるに其の故あり所謂彼の真言の邪法の故なり僻事は一人なれども万国のわづらひな

り一人として行ずとも一国二国やぶれぬべし況や三百余人をや国主とともに法華経の大怨敵となりぬいかでかほ

ろびざらん、かかる大悪法としをへてやうやく関東におち下りて諸堂の別当供僧となり連連と行えり本より辺域

の武士なれば教法の邪正をば知らず

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ただ三宝をばあがむべき事とばかり思ふゆへに自然としてこれを用いきたりてやうやく年数を経る程に今他国の

せめをかうふりて此の国すでにほろびなんとす、関東八箇国のみならず叡山東寺園城七寺等の座主別当皆関東の

御はからひとなりぬるゆへに隠岐の法皇のごとく大悪法の檀那と成定まり給いぬるなり、国主となる事は大小皆

梵王帝釈日月四天の御計いなり、法華経の怨敵となり定まり給はば忽に治罰すべきよしを誓い給へり、随つて人

王八十一代安徳天皇に太政入道の一門与力して兵衛佐頼朝を調伏せんがために、叡山を氏寺と定め山王を氏神と

たのみしかども安徳は西海に沈み明雲は義仲に殺さる一門皆一時にほろび畢んぬ、第二度なり今度は第三度にあ

たるなり。

 日蓮がいさめを御用いなくて真言の悪法を以て大蒙古を調伏せられば日本国還つて調伏せられなむ還著於本人

と説けりと申すなり、然らば則ち罰を以て利生を思うに法華経にすぎたる仏になる大道はなかるべきなり現世の

祈祷は兵衛佐殿法華経を読誦する現証なり。

 此の道理を存ぜる事は父母と師匠との御恩なれば父母はすでに過去し給い畢んぬ、故道善御房は師匠にておは

しまししかども法華経の故に地頭におそれ給いて心中には不便とおぼしつらめども外にはかたきのやうににくみ

給いぬ、後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども臨終にはいかにやおはしけむおぼつかなし地獄までは

よもおはせじ又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず中有にやただよひましますらむとなげかし、貴辺は地

頭のいかりし時義城房とともに清澄寺を出でておはせし人なれば何となくともこれを法華経の御奉公とおぼしめ

して生死をはなれさせ給うべし。

 此の御本尊は世尊説きおかせ給いて後二千二百三十余年が間一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず、漢土

の天台日本の伝教ほぼしろしめしていささかひろめさせ給はず当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候へ

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経には上行無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見へて候へどもいまだ見へさせ給はず、日蓮は其の人に候

はねどもほぼこころえて候へば地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して況滅度後のほこさき

に当り候なり、願わくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候、其の旨をしらせま

いらせむがために御不審を書きおくりまいらせ候に他事をすてて此の御本尊の御前にして一向に後世をもいのら

せ給い候へ、又これより申さんと存じ候、いかにも御房たちはからい申させ給へ。

                日蓮花押

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