聖愚問答抄上

聖愚問答抄上     /文永二年   四十四歳御作

 夫れ生を受けしより死を免れざる理りは賢き御門より卑き民に至るまで人ごとに是を知るといへども実に是を

大事とし是を歎く者千万人に一人も有がたし、無常の現起するを見ては疎きをば恐れ親きをば歎くといへども先

立つははかなく留るはかしこきやうに思いて昨日は彼のわざ今日は此の事とて徒らに世間の五慾にほだされて白

駒のかげ過ぎやすく羊の歩み近づく事をしらずして空しく衣食の獄につながれ徒らに名利の穴にをち三途の旧里

に帰り六道のちまたに輪回せん事心有らん人誰か歎かざらん誰か悲しまざらん。

 嗚呼老少不定は娑婆の習ひ会者定離は浮世のことはりなれば始めて驚くべきにあらねども正嘉の初め世を早う

せし人のありさまを見るに或は幼き子をふりすて或は老いたる親を留めをき、いまだ壮年の齢にて黄泉の旅に趣

く心の中さこそ悲しかるらめ行くもかなしみ留るもかなしむ、彼楚王が神女に伴いし情を一片の朝の雲に残し劉

氏が仙客に値し思いを七世の後胤に慰む予か如き者底に縁つて愁いを休めん、かかる山左のいやしき心なれば身

には思のなかれかしと云いけん人の古事さへ思い出でられて末の代のわすれがたみにもとて難波のもしほ草をか

きあつめ水くきのあとを形の如くしるしをくなり。

 悲しいかな痛しいかな我等無始より已来無明の酒に酔て六道四生に輪回して或時は焦熱大焦熱の炎にむせび或

時は紅蓮大紅蓮の氷にとぢられ或時は餓鬼飢渇の悲みに値いて五百生の間飲食の名をも聞かず、或時は畜生残害

の苦みをうけて小さきは大きなるにのまれ短きは長きにまかる是を残害の苦と云う、或時は修羅闘諍の苦をうけ

或時は人間に生れて八苦をうく生老病死愛別離苦怨憎会苦求不得苦五盛陰苦等なり或時は天上に生れて五衰をう

く、

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此くの如く三界の間を車輪のごとく回り父子の中にも親の親たる子の子たる事をさとらず夫婦の会遇るも会遇た

る事をしらず、迷へる事は羊目に等しく暗き事は狼眼に同し、我を生たる母の由来をもしらず生を受けたる我が

身も死の終りをしらず、嗚呼受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあ

へるがごとし、今度若し生死のきづなをきらず三界の篭樊を出でざらん事かなしかるべしかなしかるべし。

 爰に或る智人来りて示して云く汝が歎く所実に爾なり此くの如く無常のことはりを思い知り善心を発す者は麟

角よりも希なり、此のことはりを覚らずして悪心を発す者は牛毛よりも多し、汝早く生死を離れ菩提心を発さん

と思はば吾最第一の法を知れり志あらば汝が為に之を説いて聞かしめん、其の時愚人座より起つて掌を合せて云

く我は日来外典を学し風月に心をよせていまだ仏教と云う事を委細にしらず願くば上人我が為に是を説き給へ、

其の時上人の云く汝耳を伶倫が耳に寄せ目を離朱が眼にかつて心をしづめて我が教をきけ汝が為に之を説かん夫

れ仏教は八万の聖教多けれども諸宗の父母たる事戒律にはしかずされば天竺には世親馬鳴等の薩ト唐土には慧曠

道宣と云いし人是を重んず、我が朝には人皇四十五代聖武天皇の御宇に鑒真和尚此の宗と天台宗と両宗を渡して

東大寺の戒壇之を立つ爾しより已来当世に至るまで崇重年旧り尊貴日に新たなり、就中極楽寺の良観上人は上一

人より下万民に至るまで生身の如来と是を仰ぎ奉る彼の行儀を見るに実に以て爾なり、飯嶋の津にて六浦の関米

を取つては諸国の道を作り七道に木戸をかまへて人別の銭を取つては諸河に橋を渡す慈悲は如来に斉しく徳行は

先達に越えたり、汝早く生死を離れんと思はば五戒二百五十戒を持ち慈悲をふかくして物の命を殺さずして良観

上人の如く道を作り橋を渡せ是れ第一の法なり、汝持たんや否や。

 愚人弥掌を合せて云く能く能く持ち奉らんと思ふ具に我が為に是を説き給へ抑五戒二百五十戒と云う事は我等

未だ存知せず委細に是を示し給へ、

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智人云く汝は無下に愚かなり五戒二百五十戒と云う事をば孩児も是をしる然れども汝が為に之を説かん、五戒と

は一には不殺生戒二には不偸盗戒三には不妄語戒四には不邪淫戒五には不飲酒戒是なり、二百五十戒の事は多き

間之を略す、其の時に愚人礼拝恭敬して云く我今日より深く此の法を持ち奉るべし。

 爰に予が年来の知音或所に隠居せる居士一人あり予が愁歎を訪わん為に来れるが始には往事渺茫として夢に似

たる事をかたり終には行末の冥冥として弁え難き事を談ず欝を散し思をのべて後予に問うて云く抑人の世に有る

誰か後生を思はざらん、貴辺何なる仏法をか持ちて出離をねがひ又亡者の後世をも訪い給うや、予答えて云く一

日或る上人来つて我が為に五戒二百五十戒を授け給へり実に以て心肝にそみて貴し、我深く良観上人の如く及ば

ぬ身にもわろき道を作り深き河には橋をわたさんと思へるなり、其の時居士示して云く汝が道心貴きに似て愚か

なり、今談ずる処の法は浅ましき小乗の法なり、されば仏は則ち八種の喩を設け文殊は又十七種の差別を宣べた

り或は螢火日光の喩を取り或は水精瑠璃の喩あり爰を以て三国の人師も其の破文一に非ず、次に行者の尊重の事

必ず人の敬ふに依つて法の貴きにあらずされば仏は依法不依人と定め給へり、我伝え聞く上古の持律の聖者の振

舞は殺を言い収を言うには知浄の語有り行雲廻雪には死屍の想を作す而るに今の律僧の振舞を見るに布絹財宝を

たくはへ利銭借請を業とす教行既に相違せり誰か是を信受せん、次に道を作り橋を渡す事還つて人の歎きなり、

飯嶋の津にて六浦の関米を取る諸人の歎き是れ多し諸国七道の木戸是も旅人のわづらい只此の事に在り眼前の事

なり汝見ざるや否や。

 愚人色を作して云く汝が智分をもつて上人を謗し奉り其の法を誹る事謂れ無し知つて云うか愚にして云うかお

そろしおそろし、其の時居士笑つて云く嗚呼おろかなりおろかなり彼の宗の僻見をあらあら申すべし、

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抑教に大小有り宗に権実を分かてり鹿苑施小の昔は化城の戸ぼそに導くといへども鷲峯開顕の莚には其の得益更

に之れ無し、其の時愚人茫然として居士に問うて云く文証現証実に以て然なりさて何なる法を持つてか生死を離

れ速に成仏せんや、居士示して云く我れ在俗の身なれども深く仏道を修行して幼少より多くの人師の語を聞き粗

経教をも聞き見るに末代我等が如くなる無悪不造のためには念仏往生の教にしくはなし、されば慧心の僧都は「

夫れ往生極楽の教行は濁世末代の目足なり」と云ひ法然上人は諸経の要文を集めて一向専修の念仏を弘め給ふ中

にも弥陀の本願は諸仏超過の崇重なり始め無三悪趣の願より終り得三法忍の願に至るまでいづれも悲願目出けれ

ども第十八の願殊に我等が為に殊勝なり、又十悪五逆をもきらはず一念多念をもえらばずされば上一人より下万

民に至るまで此の宗をもてなし給う事他に異なり又往生の人それ幾ぞや。

 其の時愚人の云く実に小を恥じて大を慕ひ浅を去て深に就は仏教の理のみに非ず世間にも是れ法なり我早く彼

の宗にうつらんと思ふ委細に彼の旨を語り給へ、彼の仏の悲願の中に五逆十悪をも簡ばずと云へる五逆とは何等

ぞや十悪とは如何、智人の云く五逆とは父を殺し母を殺し阿羅漢を殺し仏身の血を出し和合僧を破す是を五逆と

云うなり、十悪とは身に三口に四意に三なり身に三とは殺盗婬口に四とは妄語綺語悪口両舌意に三とは貪瞋癡是

を十悪と云うなり、愚人云く我今解しぬ今日よりは他力往生に憑を懸くべきなり、爰に愚人又云く以ての外盛に

いみじき密宗の行人あり是も予が歎きを訪わんが為に来臨して始には狂言綺語のことはりを示し終には顕密二宗

の法門を談じて予に問うて云く抑汝は何なる仏法をか修行し何なる経論をか読誦し奉るや、予答えて云く我一日

或る居士の教に依つて浄土の三部経を読み奉り西方極楽の教主に憑を深く懸くるなり、行者の云く仏教に二種有

り一には顕教二には密教なり顕教の極理は密教の初門にも及ばずと云云、汝が執心の法を聞けば釈迦の顕教なり

我が所持の法は大日覚王の秘法なり、実に三界の火宅を恐れ寂光の宝台を願はば須く顕教を捨てて密教につくべ

し。

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 愚人驚いて云く我いまだ顕密二道と云う事を聞かず何なるを顕教と云ひ何なるを密教と云へるや、行者の云く

予は是れ頑愚にして敢て賢を存ぜず然りと雖も今一二の文を挙げて汝が矇昧を挑げん、顕教とは舎利弗等の請に

依つて応身如来の説き給う諸教なり密教とは自受法楽の為に法身大日如来の金剛薩トを所化として説き給う処の

大日経等の三部なり、愚人の云く実に以て然なり先非をひるがへして賢き教に付き奉らんと思うなり。

 又爰に萍のごとく諸州を回り蓬のごとく県県に転ずる非人のそれとも知らず来り門の柱に寄り立ちて含笑語る

事なし、あやしみをなして是を問うに始めには云う事なし後に強て問を立つる時彼が云く月蒼蒼として風忙忙た

りと、形質常に異に言語又通ぜず其の至極を尋れば当世の禅法是なり、予彼の人の有様を見其の言語を聞きて仏

道の良因を問う時、非人の云く修多羅の教は月をさす指教網は是れ言語にとどこほる妄事なり我が心の本分にお

ちつかんと出立法は其の名を禅と云うなり、愚人云く願くは我聞んと思ふ、非人の云く実に其の志深くば壁に向

い坐禅して本心の月を澄ましめよ爰を以て西天には二十八祖系乱れず東土には六祖の相伝明白なり、汝是を悟ら

ずして教網にかかる不便不便、是心即仏即心是仏なれば此の身の外に更に何にか仏あらんや。

 愚人此の語を聞いてつくづくと諸法を観じ閑かに義理を案じて云く仏教万差にして理非明らめ難し宜なるかな

常啼は東に請い善財は南に求め薬王は臂を焼き楽法は皮を剥ぐ善知識実に値い難し、或は教内と談じ或は教外と

云う此のことはりを思うに未だ淵底を究めず法水に臨む者は深淵の思いを懐き人師を見る族は薄冰の心を成せり

、爰を以て金言には依法不依人と定め又爪上土の譬あり若し仏法の真偽をしる人あらば尋ねて師とすべし求めて

崇べし、夫れ人界に生を受くるを天上の糸にたとへ仏法の視聴は浮木の穴の類せり、身を軽くして法を重んずべ

しと思うに依つて衆山に攀歎きに引れて諸寺を回る足に任せて一つの巌窟に至るに後には青山峨峨として松風常

楽我浄を奏し

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前には碧水湯湯として岸うつ波四徳波羅蜜を響かす深谷に開敷せる花も中道実相の色を顕し広野に綻ぶる梅も界

如三千の薫を添ふ言語道断心行所滅せり謂つ可し商山の四皓の所居とも又知らず古仏経行の迹なるか、景雲朝に

立ち霊光夕べに現ず嗚呼心を以て計るべからず詞を以て宣ぶべからず、予此の砌に沈吟とさまよひ彷徨とたちも

とをり徙倚とたたずむ、此処に忽然として一の聖人坐す其の行儀を拝すれば法華読誦の声深く心肝に染みて閑

の戸ほそを伺へば玄義の牀に臂をくだす、爰に聖人予が求法の志を酌知て詞を和げ予に問うて云く汝なにに依つ

て此の深山の窟に至れるや、予答えて云く生をかろくして法をおもくする者なり、聖人問て云く其の行法如何、

予答えて云く本より我は俗塵に交りて未だ出離を弁えず、適善知識に値て始には律次には念仏真言並に禅此等を

聞くといへども未だ真偽を弁えず、聖人云く汝が詞を聞くに実に以て然なり身をかろくして法をおもくするは先

聖の教へ予が存ずるところなり、抑上は非想の雲の上下は那落の底までも生を受けて死をまぬかるる者やはある

、然れば外典のいやしきをしえにも朝に紅顔有つて世路に誇るとも夕には白骨と為つて郊原に朽ちぬと云へり、

雲上に交つて雲のびんづらあざやかに廻雪たもとをひるがへすとも其の楽みをおもへば夢の中の夢なり、山のふ

もと蓬がもとはつゐの栖なり玉の台錦の帳も後世の道にはなにかせん、小野の小町衣通姫が花の姿も無常の風に

散り攀●張良が武芸に達せしも獄卒の杖をかなしむ、されば心ありし古人の云くあはれなり鳥べの山の夕煙をく

る人とてとまるべきかは、末のつゆ本のしづくや世の中のをくれさきたつためしなるらん、先亡後滅の理り始め

て驚くべきにあらず願ふても願ふべきは仏道求めても求むべきは経教なり、抑汝が云うところの法門をきけば或

は小乗或は大乗位の高下は且らく之を置く還つて悪道の業たるべし。

 爰に愚人驚いて云く如来一代の聖教はいづれも衆生を利せんが為なり、始め七処八会の筵より終り跋提河の儀

式まで何れか釈尊の所説ならざる設ひ一分の勝劣をば判ずとも何ぞ悪道の因と云べきや、聖人云く如来一代の聖

教に権有り

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実有り大有り小有り又顕密二道相分ち其の品一に非ず、須く其の大途を示して汝が迷を悟らしめん、夫れ三界の

教主釈尊は十九歳にして伽耶城を出て檀特山に篭りて難行苦行し三十成道の刻に三惑頓に破し無明の大夜爰に明

しかば須く本願に任せて一乗妙法蓮華経を宣ぶべしといへども機縁万差にして其の機仏乗に堪えず、然れば四十

余年に所被の機縁を調へて後八箇年に至つて出世の本懐たる妙法蓮華経を説き給へり、然れば仏の御年七十二歳

にして序分無量義経に説き定めて云く「我先きに道場菩提樹の下に端坐すること六年にして阿耨多羅三藐三菩提

を成ずることを得たり、仏眼を以て一切の諸法を観ずるに宣説す可からず、所以は何ん諸の衆生の性慾不同なる

を知れり性慾不同なれば種種に法を説く種種に法を説くこと方便の力を以てす四十余年には未だ真実を顕わさず

」文、此の文の意は仏の御年三十にして寂滅道場菩提樹の下に坐して仏眼を以て一切衆生の心根を御覧ずるに衆

生成仏の直道たる法華経をば説くべからず、是を以て空拳を挙げて嬰児をすかすが如く様様のたばかりを以て四

十余年が間はいまだ真実を顕わさずと年紀をさして青天に日輪の出で暗夜に満月のかかるが如く説き定めさせ給

へり、此の文を見て何ぞ同じ信心を以て仏の虚事と説かるる法華已前の権教に執著して、めずらしからぬ三界の

故宅に帰るべきや、されば法華経の一の巻方便品に云く「正直に方便を捨て但無上道を説く」文、此の文の意は

前四十二年の経経汝が語るところの念仏真言禅律を正直に捨てよとなり、此の文明白なる上重ねていましめて第

二の巻譬喩品に云く「但楽つて大乗経典を受持し乃至余経の一偈をも受けざれ」文、此の文の意は年紀かれこれ

煩はし所詮法華経より自余の経をば一偈をも受くべからずとなり、然るに八宗の異義蘭菊に道俗形ちを異にすれ

ども一同に法華経をば崇むる由を云う、されば此等の文をばいかが弁へたる正直に捨てよと云つて余経の一偈を

も禁むるに或は念仏或は真言或は禅或は律是れ余経にあらずや、今此の妙法蓮華経とは諸仏出世の本意衆生成仏

の直道なり、されば釈尊は付属を宣べ多宝は証明を遂げ諸仏は舌相を梵天に付けて

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皆是真実と宣べ給へり、此の経は一字も諸仏の本懐一点も多生の助なり一言一語も虚妄あるべからず此の経の禁

を用いざる者は諸仏の舌をきり賢聖をあざむく人に非ずや其の罪実に怖るべし、されば二の巻に云く「若し人信

ぜずして此の経を毀謗せば則ち一切世間の仏種を断ず」文、此の文の意は若人此経の一偈一句をも背かん人は過

去現在未来三世十方の仏を殺さん罪と定む、経教の鏡をもつて当世にあてみるに法華経をそむかぬ人は実に以て

有りがたし、事の心を案ずるに不信の人尚無間を免れず況や念仏の祖師法然上人は法華経をもつて念仏に対して

抛てよと云云、五千七千の経教に何れの処にか法華経を抛てよと云う文ありや、三昧発得の行者生身の弥陀仏と

あがむる善導和尚五種の雑行を立てて法華経をば千中無一とて千人持つとも一人も仏になるべからずと立てたり

、経文には若有聞法者無一不成仏と談じて此の経を聞けば十界の依正皆仏道を成ずと見えたり、爰を以て五逆の

調達は天王如来の記に予り非器五障の竜女も南方に頓覚成道を唱ふ況や復~の六即を立てて機を漏らす事な

し、善導の言と法華経の文と実に以て天地雲泥せり何れに付くべきや就中其の道理を思うに諸仏衆経の怨敵聖僧

衆人の讎敵なり、経文の如くならば争か無間を免るべきや。

 爰に愚人色を作して云く汝賎き身を以て恣に莠言を吐く悟つて言うか迷つて言うか理非弁え難し、忝なくも善

導和尚は弥陀善逝の応化或は勢至菩薩の化身と云へり、法然上人も亦然なり善導の後身といへり、上古の先達た

る上行徳秀発し解了底を極めたり何ぞ悪道に堕ち給うと云うや、聖人云く汝が言然なり予も仰いで信を取ること

此くの如し但し仏法は強ちに人の貴賎には依るべからず只経文を先きとすべし身の賎をもつて其の法を軽んずる

事なかれ、有人楽生悪死有人楽死悪生の十二字を唱へし毘摩大国の狐は帝釈の師と崇められ諸行無常等の十六字

を談ぜし鬼神は雪山童子に貴まる是れ必ず狐と鬼神との貴きに非ず只法を重んずる故なり、されば我等が慈父教

主釈尊雙林最後の御遺言涅槃経の第六には依法不依人とて普賢文殊等の等覚已還の大薩ト法門を説き給ふとも

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経文を手に把らずば用ゐざれとなり、天台大師の云く「修多羅と合する者は録して之を用いよ文無く義無きは信

受す可からず」文、釈の意は経文に明ならんを用いよ文証無からんをば捨てよとなり、伝教大師の云く「仏説に

依憑して口伝を信ずること莫れ」文、前の釈と同意なり、竜樹菩薩の云く「修多羅白論に依つて修多羅黒論に依

らざれ」と文、意は経の中にも法華已前の権教をすてて此の経につけよとなり、経文にも論文にも法華に対して

諸余の経典を捨てよと云う事分明なり、然るに開元の録に挙る所の五千七千の経巻に法華経を捨てよ乃至抛てよ

と嫌ふことも又雑行に摂して之を捨てよと云う経文も全く無しされば慥の経文を勘へ出して善導法然の無間の苦

を救はるべし、今世の念仏の行者俗男俗女経文に違するのみならず又師の教にも背けり、五種の雑行とて念仏申

さん人のすつべき日記善導の釈之れ有り、其の雑行とは選択に云く「第一に読誦雑行とは上の観経等の往生浄土

の経を除いて已外大小乗顕密の諸経に於て受持読誦するを悉く読誦雑行と名く乃至第三に礼拝雑行とは上の弥陀

を礼拝するを除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天に於て礼拝恭敬するを悉く礼拝雑行と名く、第四に称名

雑行とは上の弥陀の名号を称するを除いて已外自余の一切仏菩薩等及諸の世天等の名号を称するを悉く称名雑行

と名く、第五に讃歎供養雑行とは上の弥陀仏を除いて已外一切諸余の仏菩薩等及諸の世天等に於て讃歎し供養す

るを悉く讃歎供養雑行と名く」文。

 此の釈の意は第一の読誦雑行とは念仏申さん道俗男女読むべき経あり読むまじき経ありと定めたり、読むまじ

き経は法華経仁王経薬師経大集経般若心経転女成仏経北斗寿命経ことさらうち任せて諸人読まるる八巻の中の観

音経此等の諸経を一句一偈も読むならばたとひ念仏を志す行者なりとも雑行に摂せられて往生す可からず云云予

愚眼を以て世を見るに設ひ念仏申す人なれども此の経経を読む人は多く師弟敵対して七逆罪となりぬ。

 又第三の礼拝雑行とは念仏の行者は弥陀三尊より外は上に挙ぐる所の諸仏菩薩諸天善神を礼するをば礼拝雑行

と名け又之を禁ず、

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然るを日本は神国として伊奘諾伊奘册の尊此の国を作り天照大神垂迹御坐して御裳濯河の流れ久しくして今にた

えず豈此の国に生を受けて此の邪義を用ゆべきや、又普天の下に生れて三光の恩を蒙りながら誠に日月星宿を破

する事尤も恐れ有り。

 又第四の称名雑行とは念仏申さん人は唱うべき仏菩薩の名あり唱えまじき仏菩薩の名あり、唱うべき仏菩薩の

名とは弥陀三尊の名号、唱うまじき仏菩薩の名号とは釈迦薬師大日等の諸仏、地蔵普賢文殊日月星、二所と三嶋

と熊野と羽黒と天照大神と八幡大菩薩と此等の名を一遍も唱えん人は念仏を十万遍百万遍申したりとも此の仏菩

薩日月神等の名を唱うる過に依つて無間にはおつとも往生すべからずと云云、我世間を見るに念仏を申す人も此

等の諸仏菩薩諸天善神の名を唱うる故に是れ又師の教に背けり。

 第五の讃歎供養雑行とは念仏申さん人は供養すべき仏は弥陀三尊を供養せん外は上に挙ぐる所の仏菩薩諸天善

神に香華のすこしをも供養せん人は念仏の功は貴とけれども此の過に依つて雑行に摂すと是をきらふ、然るに世

を見るに社壇に詣でては幣帛を捧げ堂舎に臨みては礼拝を致す是れ又師の教に背けり、汝若し不審ならば選択を

見よ其の文明白なり、又善導和尚の観念法門経に云く「酒肉五辛誓つて発願して手に捉らざれ口に喫まざれ若し

此の語に違せば即ち身口倶に悪瘡を著けんと願ぜよ」文、此の文の意は念仏申さん男女尼法師は酒を飲まざれ魚

鳥をも食わざれ其の外にらひる蒜)等の五つのからくくさき物を食わざれ是を持たざる念仏者は今生には悪瘡身

に出で後生には無間に堕すべしと云云、然るに念仏申す男女尼法師此の誡をかへりみず恣に酒をのみ魚鳥を食ふ

事剣を飲む譬にあらずや。

 爰に愚人の云く誠に是れ此の法門を聞くに念仏の法門実に往生すと雖も其の行儀修行し難し況や彼の憑む所の

経論は皆以て権説なり往生す可からざるの条分明なり、但真言を破する事は其の謂れ無し夫れ大日経とは大日覚

王の秘法なり

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大日如来より系も乱れず善無畏不空之を伝え弘法大師は日本に両界の曼陀羅を弘め、尊高三十七尊秘奥なるもの

なり然るに顕教の極理は尚密教の初門にも及ばず爰を以て後唐院は法華尚及ばず況や自余の教をやと釈し給へり

此の事如何が心うべきや。

 聖人示して云く予も始は大日に憑を懸けて密宗に志を寄す然れども彼の宗の最底を見るに其の立義も亦謗法な

り汝が云う所の高野の大師は嵯峨天皇の御宇の人師なり、然るに皇帝より仏法の浅深を判釈すべき由の宣旨を給

いて十住心論十巻之を造る、此の書広博なる間要を取つて三巻に之を縮め其の名を秘蔵宝鑰と号す始異生羝羊心

より終秘密荘厳心に至るまで十に分別し、第八法華第九華厳第十真言と立てて法華は華厳にも劣れば大日経には

三重の劣と判じて此くの如きの乗乗は自乗に仏の名を得れども後に望めば戯論と作ると書いて法華経を狂言綺語

と云い釈尊をば無明に迷へる仏と下せり、仍て伝法院建立せし弘法の弟子正覚房は法華経は大日経のはきものと

り(履物採)に及ばず釈迦仏は大日如来の牛飼にも足らずと書けり、汝心を静めて聞け一代五千七千の経教外典

三千余巻にも法華経は戯論三重の劣華厳経にも劣り釈尊は無明に迷へる仏にて大日如来の牛飼にも足らずと云う

慥なる文ありや、設ひさる文有りと云うとも能く能く思案あるべきか。

 経教は西天より東土にぼす時訳者の意楽に随つて経論の文不定なり、さて後秦の羅什三蔵は我漢土の仏法を

見るに多く梵本に違せり我が訳する所の経若し誤りなくば我死して後身は不浄なれば焼くると云えども舌計り焼

けざらんと常に説法し給いしに焼き奉る時御身は皆骨となるといへども御舌計りは青蓮華の上に光明を放つて日

輪を映奪し給いき有り難き事なり、さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給いしか、

然れば延暦寺の根本大師諸宗を責め給いしには法華を訳する三蔵は舌の焼けざる験あり汝等が依経は皆誤れりと

破し給ふは是なり、涅槃経にも我が仏法は他国へ移らん時誤り多かるべしと説き給へば経文に設ひ法華経はいた

ずら事

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釈尊をば無明に迷へる仏なりとありとも権教実教大乗小乗説時の前後訳者能く能く尋ぬべし、所謂老子孔子は九

思一言三思一言周公旦は食するに三度吐き沐するに三度にぎる外典のあさき猶是くの如し況や内典の深義を習は

ん人をや、其の上此の義経論に迹形もなし人を毀り法を謗じては悪道に堕つべしとは弘法大師の釈なり必ず地獄

に堕んこと疑い無き者なり。

 爰に愚人茫然とほれ忽然となげひて良久しうして云く此の大師は内外の明鏡衆人の導師たり徳行世に勝れ名誉

普く聞えて或は唐土より三鈷を八万余里の海上をなぐるに即日本に至り或は心経の旨をつづるに蘇生の族途に彳

む、然れば此の人ただ人にあらず大聖権化の垂迹なり仰いで信を取らんにはしかじ、聖人云く予も始めは然なり

但し仏道に入つて理非を勘へ見るに仏法の邪正は必ず得通自在にはよらず是を以て仏は依法不依人と定め給へり

前に示すが如し、彼の阿伽陀仙は恒河を片耳にただへて十二年耆兎仙は一日の中に大海をすひほす張階は霧を吐

き欒巴は雲を吐く然れども未だ仏法の是非を知らず因果の道理をも弁へず、異朝の法雲法師は講経勤修の砌に須

臾に天華をふらせしかども妙楽大師は感応斯くの如きも猶理に称わずとていまだ仏法をばしらずと破し給う、夫

れ此の法華経と申すは已今当の三説を嫌つて已前の経をば未顕真実と打破り肩を並ぶる経をば今説の文を以てせ

め已後の経をば当説の文を以て破る実に三説第一の経なり、第四の巻に云く「薬王今汝に告ぐ我所説の経典而か

も此の経の中に於て法華最第一なり」文、此の文の意は霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告げて云く始華厳

より終涅槃経に至るまで無量無辺の経恒河沙等の数多し其の中には今の法華経最第一と説かれたり、然るを弘法

大師は一の字を三と読まれたり、同巻に云く「我仏道の為に無量の土に於て始より今に至るまで広く諸経を説く

而も其の中に於て此の経第一なり」と、此の文の意は又釈尊無量の国土にして或は名字を替え或は年紀を不同に

なし種種の形を現して説く所の諸経の中には此の法華経を第一と定められたり、同き第五巻には最在其上と宣べ

P0486

大日経金剛頂経等の無量の経の頂に此の経は有るべしと説かれたるを弘法大師は最在其下と謂へり、釈尊と弘法

と法華経と宝鑰とは実に以て相違せり釈尊を捨て奉つて弘法に付くべきか、又弘法を捨てて釈尊に付奉るべきか

、又経文に背いて人師の言に随ふべきか人師の言を捨てて金言を仰ぐべきか用捨心に有るべし、又第七の巻薬王

品に十喩を挙げて教を歎ずるに第一は水の譬なり江河を諸経に譬へ大海を法華に譬へたり、然るを大日経は勝れ

たり法華は劣れりと云う人は即大海は小河よりもすくなしと云わん人なり、然るに今の世の人は海の諸河に勝る

事をば知るといへども法華経の第一なる事をば弁へず、第二は山の譬なり衆山を諸経に譬へ須弥山を法華に譬へ

たり須弥山は上下十六万八千由旬の山なり何れの山か肩を並ぶべき法華経を大日経に劣ると云う人は富士山は須

弥山より大なりと云わん人なり、第三は星月の譬なり諸経を星に譬へ法華経を月に譬ふ月と星とは何れ勝りたり

と思へるや、乃至次下には此の経も亦復是くの如し一切の如来の所説若しは菩薩の所説若しは声聞の所説諸の経

法の中に最も為れ第一とて此の法華経は只釈尊一代の第一と説き給うのみにあらず大日及び薬師阿弥陀等の諸仏

普賢文殊等の菩薩の一切の所説諸経の中に此の法華経第一と説けり、されば若し此の経に勝りたりと云う経有ら

ば外道天魔の説と知るべきなり、其の上大日如来と云うは久遠実成の教主釈尊四十二年和光同塵して其の機に応

ずる時三身即一の如来暫く毘盧遮那と示せり、是の故に開顕実相の前には釈迦の応化と見えたり、爰を以て普賢

経には釈迦牟尼仏を毘盧遮那遍一切処と名け其の仏の住処を常寂光と名くと説けり、今法華経は十界互具一念三

千三諦即是四土不二と談ず其の上に一代聖教の骨髄たる二乗作仏久遠実成は今経に限れり、汝語る所の大日経金

剛頂経等の三部の秘経に此等の大事ありや善無畏不空等此等の大事の法門を盗み取つて己が経の眼目とせり本経

本論には迹形もなき誑惑なり急ぎ急ぎ是を改むべし。

 抑大日経とは四教含蔵して尽形寿戒等を明せり唐土の人師は天台所立の第三時方等部の経なりと定めたる権教

なりあさましあさまし、

P0487

汝実に道心あらば急いで先非を悔ゆべし夫れ以れば此の妙法蓮華経は一代の観門を一念にすべ十界の依正を三千

につづめたり。

  *聖愚問答抄 下   

 爰に愚人聊か和いで云く経文は明鏡なり疑慮をいたすに及ばず但し法華経は三説に秀で一代に超ゆるといへど

も言説に拘はらず経文に留まらざる我等が心の本分の禅の一法にはしくべからず凡そ万法を払遣して言語の及ば

ざる処を禅法とは名けたり、されば跋提河の辺り沙羅林の下にして釈尊金棺より御足を出し拈華微笑して此の法

門を迦葉に付属ありしより已来天竺二十八祖系乱れず唐土には六祖次第に弘通せり、達磨は西天にしては二十八

祖の終東土にしては六祖の始なり相伝をうしなはず教網に滞るべからず、爰を以て大梵天王問仏決疑経に云く「

吾に正法眼蔵の涅槃妙心実相無相微妙の法門有り教外に別に云う文字を立てず摩訶迦葉に付属す」とて迦葉に此

の禅の一法をば教外に伝ふと見えたり、都て修多羅の経教は月をさす指月を見て後は指何かはせん心の本分禅の

一理を知つて後は仏教に心を留むべしや、されば古人の云く十二部経は総て是れ閑文字と云云、仍つて此の宗の

六祖慧能の壇経を披見するに実に以て然なり、言下に契会して後は教は何かせん此の理如何が弁えんや、聖人示

して云く汝先ず法門を置いて道理を案ぜよ、抑我一代の大途を伺わず十宗の淵底を究めずして国を諌め人を教ふ

べきか、汝が談ずる所の禅は我最前に習い極めて其の至極を見るに甚だ以て僻事なり、禅に三種あり所謂如来禅

と教禅と祖師禅となり、汝が言う所の祖師禅等の一端之を示さん聞いて其の旨を知れ若し教を離れて之を伝うと

いわば

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教を離れて理なく理を離れて教無し理全く教教全く理と云う道理汝之を知らざるや拈華微笑して迦葉に付属し給

うと云うも是れ教なり不立文字と云う四字も即教なり文字なり此の事和漢両国に事旧りぬ今いへば事新きに似た

れども一両の文を勘えて汝が迷を払はしめん、補註十一に云く又復若し言説に滞ると謂わば且く娑婆世界には何

を将つて仏事と為るや、禅徒豈言説をもつて人に示さざらんや、文字を離れて解脱の義を談ずること無し豈に聞

かざらんや乃至次ぎ下に云く豈に達磨西来して直指人心見性成仏すと而るに華厳等の諸大乗経に此の事無からん

や、嗚呼世人何ぞ其れ愚かなるや汝等当に仏の所説を信ずべし諸仏如来は言虚妄無し、此の文の意は若し教文に

とどこほり言説にかかはるとて教の外に修行すといはば此の娑婆国にはさて如何がして仏事善根を作すべき、さ

ように云うところの禅人も人に教ゆる時は言を以て云はざるべしや其の上仏道の解了を云う時文字を離れて義な

し、又達磨西より来つて直に人心を指して仏なりと云う是程の理は華厳大集大般若等の法華已前の権大乗経にも

在在処処に之を談ぜり是をいみじき事とせんは無下に云いがひなき事なり嗚呼今世の人何ぞ甚ひがめるや只中道

実相の理に契当せる妙覚果満の如来誠諦の言を信ずべきなり又妙楽大師の弘決の一に此の理を釈して云く「世人

教を蔑にして理観を尚ぶは誤れるかな誤れるかな」と、此の文の意は今の世の人人は観心観法を先として経教を

尋ね学ばず還つて教をあなづり経をかろしむる是れ誤れりと云う文なり、其の上当世の禅人自宗に迷へり、続高

僧伝を披見するに習禅の初祖達磨大師の伝に云く教に藉つて宗を悟ると、如来一代の聖教の道理を習学し法門の

旨宗宗の沙汰を知るべきなり、又達磨の弟子六祖の第二祖慧可の伝に云く達磨禅師四巻の楞伽を以て可に授けて

云く「我漢の地を観るに唯此の経のみ有り仁者依行せば自ら世を度する事を得ん」と、此の文の意は達磨大師天

竺より唐土に来つて四巻の楞伽経をもつて慧可に授けて云く我此の国を見るに是の経殊に勝れたり汝持ち修行し

て仏に成れとなり、此等の祖師既に経文を前とす若し之に依つて経に依ると云はば

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大乗か小乗か権教か実教か能く能く弁ふべし、或は経を用いるには禅宗も楞伽経首楞厳経金剛般若経等による是

れ皆法華已前の権教覆蔵の説なり、只諸経に是心即仏即心是仏等の理の方を説ける一両の文と句とに迷いて大小

権実顕露覆蔵をも尋ねず、只不二を立てて而二を知らず謂己均仏の大慢を成せり、彼の月氏の大慢が迹をつぎ此

の尸那の三階禅師が古風を追う然りと雖も大慢は生ながら無間に入り三階は死して大蛇と成りぬをそろしをそろ

し、釈尊は三世了達の解了朗かに妙覚果満の智月潔くして未来を鑒みたまい像法決疑経に記して云く「諸の悪比

丘或は禅を修する有つて経論に依らず自ら己見を逐つて非を以て是と為し是邪是正と分別すること能わずメく道

俗に向つて是くの如き言を作さく我能く是を知り我能く是を見ると当に知るべし此の人は速かに我法を滅す」と

、此の文の意は諸悪比丘あつて禅を信仰して経論をも尋ねず邪見を本として法門の是非をば弁えずして而も男女

尼法師等に向つて我よく法門を知れり人はしらずと云つて此の禅を弘むべし、当に知るべし此の人は我が正法を

滅すべしとなり、此の文をもつて当世を見るに宛も符契の如し汝慎むべし汝畏るべし、先に談ずる所の天竺に二

十八祖有つて此の法門を口伝すと云う事其の証拠何に出でたるや仏法を相伝する人二十四人或は二十三人と見え

たり、然るを二十八祖と立つる事所出の翻訳何にかある全く見えざるところなり、此の付法蔵の人の事私に書く

べきにあらず如来の記文分明なり、其の付法蔵伝に云く「復比丘有り名けて師子と曰うタ賓国に於て大に仏事を

作す、時に彼の国王をば弥羅掘と名け邪見熾盛にして心に敬信無くタ賓国に於て塔寺を毀壊し衆僧を殺害す、即

ち利剣を以て用いて師子を斬る頚の中血無く唯乳のみ流出す法を相付する人是に於て便ち絶えん」此の文の意は

仏我が入涅槃の後に我が法を相伝する人二十四人あるべし其の中に最後弘通の人に当るをば師子比丘と云わん、

タ賓国と云う国にて我が法を弘むべし彼の国の王をば檀弥羅王と云うべし邪見放逸にして仏法を信ぜず衆僧を敬

はず堂塔を破り失ひ剣をもつて諸僧の頚を切るべし即師子比丘の頚をきらん時

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に頚の中に血無く只乳のみ出ずべし、是の時に仏法を相伝せん人絶ゆべしと定められたり、案の如く仏の御言違

わず師子尊者頚をきられ給う事実に以て爾なり、王のかいな共につれて落ち畢んぬ、二十八祖を立つる事甚以て

僻見なり禅の僻事是より興るなるべし、今慧能が壇経に二十八祖を立つる事は達磨を高祖と定むる時師子と達磨

との年紀遥かなる間三人の禅師を私に作り入れて天竺より来れる付法蔵系乱れずと云うて人に重んぜさせん為の

僻事なり此の事異朝にして事旧りぬ、補註の十一に云く「今家は二十三祖を承用す豈ワ有らんや、若し二十八祖

を立つるは未だ所出の翻訳を見ざるなり、近来更に石に刻み版に鏤め七仏二十八祖を図状し各一偈を以て伝授相

付すること有り嗚呼仮託何ぞ其れ甚だしきや識者力有らば宜しく斯の弊を革むべし」是も二十八祖を立て石にき

ざみ版にちりばめて伝うる事甚だ以て誤れり此の事を知る人あらば此の誤をあらためなをせとなり、祖師禅甚だ

僻事なる事是にあり先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に汝之を引く既に自語相違せり、其

の上此の経は説相権教なり又開元貞元の再度の目録にも全く載せず是録外の経なる上権教と見えたり、然れば世

間の学者用ゐざるところなり証拠とするにたらず。

 抑今の法華経を説かるる時益をうる輩迹門界如三千の時敗種の二乗仏種を萠す四十二年の間は永不成仏と嫌は

れて在在処処の集会にして罵詈誹謗の音をのみ聞き人天大会に思いうとまれて既に飢え死ぬべかりし人人も今の

経に来つて舎利弗は華光如来目連は多摩羅跋旃檀香如来阿難は山海慧自在通王仏羅ョ羅はミ七宝華如来五百の羅

漢は普明如来二千の声聞は宝相如来の記に予る顕本遠寿の日は微塵数の菩薩増道損生して位大覚に鄰る、され

ば天台大師の釈を披見するに他経には菩薩は仏になると云つて二乗の得道は永く之れ無し、善人は仏になると云

つて悪人の成仏を明さず男子は仏になると説いて女人は地獄の使と定む人天は仏になると云つて畜類は仏になる

といはず、然るを今の経は是等が皆仏になると説くたのもしきかな末代濁世に生を受くといへども

P0491

提婆が如くに五逆をも造らず三逆をも犯さず、而るに提婆猶天王如来の記を得たり況や犯さざる我等が身をや

、八歳の竜女既に蛇身を改めずして南方に妙果を証す況や人界に生を受けたる女人をや、只得難きは人身値い難

きは正法なり汝早く邪を翻えし正に付き凡を転じて聖を証せんと思はば念仏真言禅律を捨てて此の一乗妙典を受

持すべし、若し爾らば妄染の塵穢を払つて清浄の覚体を証せん事疑なかるべし。

 爰に愚人云く今聖人の教誡を聴聞するに日来の矇昧忽に開けぬ天真発明とも云つべし理非顕然なれば誰か信仰

せざらんや、但し世上を見るに上一人より下万民に至るまで念仏真言禅律を深く信受し御座すさる前には国土に

生を受けながら争か王命を背かんや、其の上我が親と云い祖と云い旁念仏等の法理を信じて他界の雲に交り畢ん

ぬ、又日本には上下の人数幾か有る、然りと雖も権教権宗の者は多く此の法門を信ずる人は未だ其の名をも聞か

ず、仍て善処悪処をいはず邪法正法を簡ばず内典五千七千の多きも外典三千余巻の広きも只主君の命に随ひ父母

の義に叶うが肝心なり、されば教主釈尊は天竺にして孝養報恩の理を説き孔子は大唐にして忠功孝高の道を示す

師の恩を報ずる人は肉をさき身をなぐ主の恩をしる人は弘演は腹をさき予譲は剣をのむ親の恩を思いし人は丁蘭

は木をきざみ伯瑜は杖になく、儒外内道は異なりといへども報恩謝徳の教は替る事なし然れば主師親のいまだ信

ぜざる法理を我始めて信ぜん事既に違背の過に沈みなん法門の道理は経文明白なれば疑網都て尽きぬ後生を願は

ずば来世苦に沈むべし進退惟谷れり我如何がせんや、聖人云く汝此の理を知りながら猶是の語をなす理の通ぜざ

るか意の及ばざるか我釈尊の遺法をまなび仏法に肩を入れしより已来知恩をもて最とし報恩をもて前とす世に四

恩あり之を知るを人倫となづけ知らざるを畜生とす、予父母の後世を助け国家の恩徳を報ぜんと思うが故に身命

を捨つる事敢て他事にあらず唯知恩を旨とする計りなり、先ず汝目をふさぎ心を静めて道理を思へ我は善道を知

りながら親と主との悪道にかからんを諌めざらんや、又愚心の狂ひ酔つて毒を服せんを我知りながら是をいまし

めざらんや、

P0492

其の如く法門の道理を存じて火血刀の苦を知りながら争か恩を蒙る人の悪道におちん事を歎かざらんや、身をも

なげ命をも捨つべし諌めてもあきたらず歎きても限りなし、今世に眼を合する苦み猶是を悲む況や悠悠たる冥途

の悲み豈に痛まざらんや恐れても恐るべきは後世慎みても慎むべきは来世なり、而るを是非を論ぜず親の命に随

ひ邪正を簡ばず主の仰せに順はんと云う事愚癡の前には忠孝に似たれども賢人の意には不忠不孝是に過ぐべから

ず。

 されば教主釈尊は転輪聖王の末師子頬王の孫浄飯王の嫡子として五天竺の大王たるべしといへども生死無常の

理をさとり出離解脱の道を願つて世を厭ひ給しかば浄飯大王是を歎き四方に四季の色を顕して太子の御意を留め

奉らんと巧み給ふ、先づ東には霞たなびくたえまよりかりがねこしぢに帰りの梅の香玉簾の中にかよひでうで

うたる花の色ももさへづりの鴬春の気色を顕はせり、南には泉の色白たへにしてかの玉川の卯の華信太の森のほ

ととぎす夏のすがたを顕はせり、西には紅葉常葉に交ればさながら錦をおり交え荻ふく風閑かにして松の嵐もの

すごし過ぎにし夏のなごりには沢辺にみゆる螢の光あまつ空なる星かと誤り松虫鈴虫の声声涙を催せり、北には

枯野の色いつしかものうく池の汀につららゐて谷の小川もをとさびぬ、かかるありさまを造つて御意をなぐさめ

給うのみならず四門に五百人づつの兵を置いて守護し給いしかども終に太子の御年十九と申せし二月八日の夜半

の比車匿を召して金泥駒に鞍置かせ伽耶城を出て檀特山に入り十二年高山に薪をとり深谷に水を結んで難行苦行

し給ひ三十成道の妙果を感得して三界の独尊一代の教主と成つて父母を救ひ群生を導き給いしをばさて不孝の人

と申すべきか、仏を不孝の人と云いしは九十五種の外道なり父母の命に背いて無為に入り還つて父母を導くは孝

の手本なる事仏其の証拠なるべし、彼の浄蔵浄眼は父の妙荘厳王外道の法に著して仏法に背き給いしかども二人

の太子は父の命に背いて雲雷音王仏の御弟子となり終に父を導いて沙羅樹王仏と申す仏になし申されけるは不孝

の人と云うべきか、

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経文には棄恩入無為真実報恩者と説いて今生の恩愛をば皆すてて仏法の実の道に入る是れ実に恩をしれる人なり

と見えたり、又主君の恩の深き事汝よりも能くしれり汝若し知恩の望あらば深く諌め強いて奏せよ非道にも主命

に随はんと云う事佞臣の至り不忠の極りなり、殷の紂王は悪王比干は忠臣なり政事理に違いしを見て強て諌めし

かば即比干は胸を割かる紂王は比干死して後周の王に打たれぬ、今の世までも比干は忠臣といはれ紂王は悪王と

いはる、夏の桀王を諌めし竜蓬は頭をきられぬされども桀王は悪王竜蓬は忠臣とぞ云う主君を三度諌むるに用ゐ

ずば山林に交れとこそ教へたれ何ぞ其の非を見ながら黙せんと云うや、古の賢人世を遁れて山林に交りし先蹤を

集めて聊か汝が愚耳に聞かしめん、殷の代の太公望はソ渓と云う谷に隠る、周の代の伯夷叔斉は首陽山と云う山

に篭る、秦の綺里季は商洛山に入り漢の厳光は孤亭に居し、晋の介子綏は緜上山に隠れぬ、此等をば不忠と云う

べきか愚かなり汝忠を存ぜば諌むべし孝を思はば言うべきなり。

 先ず汝権教権宗の人は多く此の宗の人は少し何ぞ多を捨て少に付くと云う事必ず多きが尊くして少きが卑きに

あらず、賢善の人は希に愚悪の者は多し麒麟鸞鳳は禽獣の奇秀なり然れども是は甚だ少し牛羊烏鴿は畜鳥の拙卑

なりされども是は転多し、必ず多きがたつとくして少きがいやしくば麒麟をすてて牛羊をとり鸞鳳を閣いて烏鴿

をとるべきか、摩尼金剛は金石の霊異なり、此の宝は乏しく瓦礫土石は徒物の至り是は又巨多なり、汝が言の如

くならば玉なんどをば捨てて瓦礫を用ゆべきかはかなしはかなし、聖君は希にして千年に一たび出で賢佐は五百

年に一たび顕る摩尼は空しく名のみ聞く麟鳳誰か実を見たるや世間出世善き者は乏しく悪き者は多き事眼前なり

、然れば何ぞ強ちに少きをおろかにして多きを詮とするや土沙は多けれども米穀は希なり木皮は充満すれども布

絹は些少なり、汝只正理を以て前とすべし別して人の多きを以て本とすることなかれ。

P0494

 爰に愚人席をさり袂をかいつくろいて云く誠に聖教の理をきくに人身は得難く天上の絲筋の海底の針に貫ける

よりも希に仏法は聞き難くして一眼の亀の浮木に遇うよりも難し、今既に得難き人界に生をうけ値い難き仏教を

見聞しつ今生をもだしては又何れの世にか生死を離れ菩提を証すべき、夫れ一劫受生の骨は山よりも高けれども

仏法の為にはいまだ一骨をもすてず多生恩愛の涙は海よりも深けれども尚後世の為には一滴をも落さず、拙きが

中に拙く愚かなるが中に愚かなり設ひ命をすて身をやぶるとも生を軽くして仏道に入り父母の菩提を資け愚身が

獄縛をも免るべし能く能く教を示し給へ。

 抑法華経を信ずる其の行相如何五種の行の中には先ず何れの行をか修すべき丁寧に尊教を聞かん事を願う、聖

人示して云く汝蘭室の友に交つて麻畝の性と成る誠に禿樹禿に非ず春に遇つて栄え華さく枯草枯るに非ず夏に入

つて鮮かに注ふ、若し先非を悔いて正理に入らば湛寂の潭に遊泳して無為の宮に優遊せん事疑なかるべし、抑仏

法を弘通し群生を利益せんには先ず教機時国教法流布の前後を弁ふべきものなり、所以は時に正像末あり法に大

小乗あり修行に摂折あり摂受の時折伏を行ずるも非なり折伏の時摂受を行ずるも失なり、然るに今世は摂受の時

か折伏の時か先づ是を知るべし摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて邪法邪師一人もなしといはん、此の時は

山林に交つて観法を修し五種六種乃至十種等を行ずべきなり、折伏の時はかくの如くならず経教のおきて蘭菊に

諸宗のおぎろ誉れを擅にし邪正肩を並べ大小先を争はん時は万事を閣いて謗法を責むべし是れ折伏の修行なり、

此の旨を知らずして摂折途に違はば得道は思もよらず悪道に堕つべしと云う事法華涅槃に定め置き天台妙楽の解

釈にも分明なり是れ仏法修行の大事なるべし、譬ば文武両道を以て天下を治るに武を先とすべき時もあり文を旨

とすべき時もあり、天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしは

さまんには武を先とすべきなり、文武のよき事計りを心えて時をもしらず万邦安堵の思をなして

P0495

世間無為ならん時甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非なり、又王敵起らん時戦場にて武具をば閣いて筆硯を提ん事

是も亦時に相応せず摂受折伏の法門も亦是くの如し正法のみ弘まつて邪法邪師無からん時は深谷にも入り閑静に

も居して読誦書写をもし観念工夫をも凝すべし、是れ天下の静なる時筆硯を用ゆるが如し権宗謗法国にあらん時

は諸事を閣いて謗法を責むべし是れ合戦の場に兵杖を用ゆるが如し、然れば章安大師涅槃の疏に釈して云く「昔

は時平かにして法弘まる応に戒を持すべし杖を持すること勿れ今は時嶮しくして法翳る応に杖を持すべし戒を持

すること勿れ今昔倶に嶮しくば倶に杖を持すべし今昔倶に平かならば応に倶に戒を持すべし、取捨宜きを得て一

向にす可からず」と此の釈の意分明なり、昔は世もすなをに人もただしくして邪法邪義無かりき、されば威儀を

ただし穏便に行業を積んで杖をもつて人を責めず邪法をとがむる事無かりき、今の世は濁世なり人の情もひがみ

ゆがんで権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用なり、只折伏を

行じて力あらば威勢を以て謗法をくだき又法門を以ても邪義を責めよとなり、取捨其旨を得て一向に執する事な

かれと書けり、今の世を見るに正法一純に弘まる国か邪法の興盛する国か勘ふべし、然るを浄土宗の法然は念仏

に対して法華経を捨閉閣抛とよみ善導は法華経を雑行と名け剰へ千中無一とて千人信ずとも一人得道の者あるべ

からずと書けり、真言宗の弘法は法華経を華厳にも劣り大日経には三重の劣と書き戯論の法と定めたり、正覚房

は法華経は大日経のはきものとりにも及ばずと云ひ釈尊をば大日如来の牛飼にもたらずと判せり、禅宗は法華経

を吐たるつばき月をさす指教網なんど下す、小乗律等は法華経は邪教天魔の所説と名けたり、此等豈謗法にあら

ずや責めても猶あまりあり禁めても亦たらず。

 愚人云く日本六十余州人替り法異りといへども或は念仏者或は真言師或は禅或は律誠に一人として謗法ならざ

る人はなし、然りと雖も人の上沙汰してなにかせん只我が心中に深く信受して人の誤りをば余所の事にせんと思

ふ、

P0496

聖人示して云く汝言う所実にしかなり我も其の義を存ぜし処に経文には或は不惜身命とも或は寧喪身命とも説く

、何故にかやうには説かるるやと存ずるに只人をはばからず経文のままに法理を弘通せば謗法の者多からん世に

は必ず三類の敵人有つて命にも及ぶべしと見えたり、其の仏法の違目を見ながら我もせめず国主にも訴へずば教

へに背いて仏弟子にはあらずと説かれたり、涅槃経第三に云く「若し善比丘あつて法を壊らん者を見て置いて呵

責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり、若し能く駈遣し呵責し挙処せば是れ我が弟子

真の声聞なり」と、此の文の意は仏の正法を弘めん者経教の義を悪く説かんを聞き見ながら我もせめず我が身及

ばずば国主に申し上げても是を対治せずば仏法の中の敵なり、若し経文の如くに人をもはばからず我もせめ国主

にも申さん人は仏弟子にして真の僧なりと説かれて候、されば仏法中怨の責を免れんとてかやうに諸人に悪まる

れども命を釈尊と法華経に奉り慈悲を一切衆生に与へて謗法を責むるを心えぬ人は口をすくめ眼を瞋らす、汝実

に後世を恐れば身を軽しめ法を重んぜよ是を以て章安大師云く「寧ろ身命を喪ふとも教を匿さざれとは身は軽く

法は重し身を死して法を弘めよ」と、此の文の意は身命をばほろぼすとも正法をかくさざれ、其の故は身はかろ

く法はおもし身をばころすとも法をば弘めよとなり、悲いかな生者必滅の習なれば設ひ長寿を得たりとも終には

無常をのがるべからず、今世は百年の内外の程を思へば夢の中の夢なり、非想の八万歳未だ無常を免れず利の

一千年も猶退没の風に破らる、況や人間閻浮の習は露よりもあやうく芭蕉よりももろく泡沫よりもあだなり、水

中に宿る月のあるかなきかの如く草葉にをく露のをくれさきだつ身なり、若し此の道理を得ば後世を一大事とせ

よ歓喜仏の末の世の覚徳比丘正法を弘めしに無量の破戒此の行者を怨みて責めしかば有徳国王正法を守る故に謗

法を責めて終に命終して阿「仏の国に生れて彼の仏の第一の弟子となる、大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法

を誡めし仙予国王は不退の位に登る、憑しいかな

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正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり、されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道

に堕ちん事疑い無し、南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有つて悪人を将護し治罰すること能わず乃至其の人

命終して諸悪人と倶に地獄に堕せん」と、此の文の意は若し仏法を行ずる人有つて謗法の悪人を治罰せずして観

念思惟を専らにして邪正権実をも簡ばず詐つて慈悲の姿を現ぜん人は諸の悪人と倶に悪道に堕つべしと云う文な

り、今真言念仏禅律の謗人をたださずいつはつて慈悲を現ずる人此の文の如くなるべし。

 爰に愚人意を竊にし言を顕にして云く誠に君を諌めて家を正しくする事先賢の教へ本文に明白なり外典此くの

如し内典是に違うべからず、悪を見ていましめず謗を知つてせめずば経文に背き祖師に違せん其の禁め殊に重し

今より信心を至すべし、但し此経を修行し奉らん事叶いがたし若し其の最要あらば証拠を聞かんと思ふ、聖人示

して云く今汝の道意を見るに鄭重慇懃なり、所謂諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字なり、檀王の

宝位を退き竜女が蛇身を改めしも只此の五字の致す所なり、夫れ以れば今の経は受持の多少をば一偈一句と宣べ

修行の時刻をば一念随喜と定めたり、凡そ八万法蔵の広きも一部八巻の多きも只是の五字を説かんためなり、霊

山の雲の上鷲峯の霞の中に釈尊要を結び地涌付属を得ることありしも法体は何事ぞ只此の要法に在り、天台妙楽

の六千張の疏玉を連ぬるも道邃行満の数軸の釈金を並ぶるも併しながら此の義趣を出でず、誠に生死を恐れ涅槃

を欣い信心を運び渇仰を至さば遷滅無常は昨日の夢菩提の覚悟は今日のうつつなるべし、只南無妙法蓮華経とだ

にも唱へ奉らば滅せぬ罪やあるべき来らぬ福や有るべき、真実なり甚深なり是を信受すべし。

 愚人掌を合せ膝を折つて云く貴命肝に染み教訓意を動ぜり然りと雖も上能兼下の理なれば広きは狭きを括り多

は少を兼ぬ、然る処に五字は少く文言は多し首題は狭く八軸は広し如何ぞ功徳斉等ならんや、聖人云く汝愚かな

り捨少取多の執須弥よりも高く軽狭重広の情溟海よりも深し、今の文の初後は必ず多きが尊く少きが卑しきにあ

らざる事前に示すが如し、

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爰に又小が大を兼ね、一が多に勝ると云う事之を談ぜん彼の尼拘類樹の実は芥子三分が一のせいなりされども五

百輛の車を隠す徳あり是小が大を含めるにあらずや、又如意宝珠は一あれども万宝を雨して欠処之れ無し是れ又

少が多を兼ねたるにあらずや、世間のことわざにも一は万が母といへり此等の道理を知らずや、所詮実相の理の

背契を論ぜよ強ちに多少を執する事なかれ、汝至つて愚かなり今一の譬を仮らん、夫れ妙法蓮華経とは一切衆生

の仏性なり仏性とは法性なり法性とは菩提なり、所謂釈迦多宝十方の諸仏上行無辺行等普賢文殊舎利弗目連等、

大梵天王釈提桓因日月明星北斗七星二十八宿無量の諸星天衆地類竜神八部人天大会閻魔法王上は非想の雲の上下

は那落の炎の底まで所有一切衆生の備うる所の仏性を妙法蓮華経とは名くるなり、されば一遍此の首題を唱へ奉

れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともにひかれて顕れ出ずる是を成仏

とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとする

が如し。

 爰に愚人云く首題の功徳妙法の義趣今聞く所詳かなり但し此の旨趣正しく経文に是をのせたりや如何、聖人云

く其の理詳かならん上は文を尋ぬるに及ばざるか然れども請に随つて之れを示さん法華経第八陀羅尼品に云く「

汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せん福量るべからず」此の文の意は仏鬼子母神十羅刹女の法華経の行者

を守らんと誓い給うを讃むるとして汝等法華の首題を持つ人を守るべしと誓ふ、其の功徳は三世了達の仏の智慧

も尚及びがたしと説かれたり、仏智の及ばぬ事何かあるべきなれども法華の題名受持の功徳ばかりは是を知らず

と宣べたり、法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に篭れり、一部八巻文文ごとに二十八品生起かはれども首題

の五字は同等なり、譬ば日本の二字の中に六十余州島二つ入らぬ国やあるべき篭らぬ郡やあるべき、飛鳥とよべ

ば空をかける者と知り走獣といへば地をはしる者と心うる一切名の大切なる事蓋し以て是くの如し、

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天台は名詮自性句詮差別とも名者大綱とも判ずる此の謂れなり、又名は物をめす徳あり物は名に応ずる用あり法

華題名の功徳も亦以て此くの如し。

 愚人云く聖人の言の如くば実に首題の功莫大なり但し知ると知らざるとの不同あり、我は弓箭に携り兵杖をむ

ねとして未だ仏法の真味を知らず若し然れば得る所の功徳何ぞ其れ深からんや、聖人云く円頓の教理は初後全く

不二にして初位に後位の徳あり一行一切行にして功徳備わらざるは之れ無し若し汝が言の如くば功徳を知つて植

えずんば上は等覚より下は名字に至るまで得益更にあるべからず、今の経は唯仏与仏と談ずるが故なり、譬喩品

に云く「汝舎利弗尚此の経に於ては信を以て入ることを得たり況や余の声聞をや」文の心は大智舎利弗も法華経

には信を以て入る其の智分の力にはあらず況や自余の声聞をやとなり、されば法華経に来つて信ぜしかば永不成

仏の名を削りて華光如来となり嬰児に乳をふくむるに其の味をしらずといへども自然に其の身を生長す、医師が

病者に薬を与うるに病者薬の根源をしらずといへども服すれば任運と病愈ゆ若し薬の源をしらずと云つて医師の

与ふる薬を服せずば其の病愈ゆべしや薬を知るも知らざるも服すれば病の愈ゆる事以て是れ同じ、既に仏を良医

と号し法を良薬に譬へ衆生を病人に譬ふされば如来一代の教法を擣l和合して妙法一粒の良薬に丸ぜり豈知るも

知らざるも服せん者煩悩の病愈えざるべしや病者は薬をもしらず病をも弁へずといへども服すれば必ず愈ゆ、行

者も亦然なり法理をもしらず煩悩をもしらずといへども只信ずれば見思塵沙無明の三惑の病を同時に断じて実報

寂光の台にのぼり本有三身の膚を磨かん事疑いあるべからず、されば伝教大師云く「能化所化倶に歴劫無く妙法

経の力即身成仏す」と法華経の法理を教へん師匠も又習はん弟子も久しからずして法華経の力をもつて倶に仏に

なるべしと云う文なり、天台大師も法華経に付いて玄義文句止観の三十巻の釈を造り給う、妙楽大師は又釈籤疏

記輔行の三十巻の末文を重ねて消釈す、天台六十巻とは是なり、玄義には名体宗用教の五重玄を建立して妙法蓮

華経の五字の功能を判釈す、

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五重玄を釈する中の宗の釈に云く「綱維を提ぐるに目として動かざること無く衣の一角を牽くに縷として来らざ

る無きが如し」と、意は此の妙法蓮華経を信仰し奉る一行に功徳として来らざる事なく善根として動かざる事な

し、譬ば網の目無量なれども一つの大綱を引くに動かざる目もなく衣の糸筋巨多なれども一角を取るに糸筋とし

て来らざることなきが如しと云う義なり、さて文句には如是我聞より作礼而去まで文文句句に因縁約教本迹観心

の四種の釈を設けたり、次に止観には妙解の上に立てる所の観不思議境の一念三千是れ本覚の立行本具の理心な

り、今爰に委しくせず、悦ばしいかな生を五濁悪世に受くといへども一乗の真文を見聞する事を得たり、熈連恒

沙の善根を致せる者此の経にあい奉つて信を取ると見えたり、汝今一念随喜の信を致す函蓋相応感応道交疑い無

し。

 愚人頭を低れ手を挙げて云く我れ今よりは一実の経王を受持し三界の独尊を本師として今身自り仏身に至るま

で此の信心敢て退転無けん、設ひ五逆の雲厚くとも乞ふ提婆達多が成仏を続ぎ十悪の波あらくとも願くは王子覆

講の結縁に同じからん、聖人云く人の心は水の器にしたがふが如く物の性は月の波に動くに似たり、故に汝当座

は信ずといふとも後日は必ず翻へさん魔来り鬼来るとも騒乱する事なかれ、夫れ天魔は仏法をにくむ外道は内道

をきらふ、されば猪の金山を摺り衆流の海に入り薪の火を盛んになし風の求羅をますが如くせば豈好き事にあら

ずや。

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