小乗大乗分別抄

小乗大乗分別抄        /文永十年 五十二歳御作

+ 与富木常忍

 夫れ小大定めなし一寸の物を一尺の物に対しては小と云い五尺の男に対しては六尺七尺の男を大の男と云う、

外道の法に対しては一切の大小の仏教を皆大乗と云う大法東漸通指仏教以為大法等と釈する是なり、仏教に入つ

ても鹿苑十二年の説四阿含経等の一切の小乗経をば諸大乗経に対して小乗経と名けたり、又諸大乗経には大乗の

中にとりて劣る教を小乗と云う華厳の大乗経に其余楽小法と申す文あり、天台大師はこの小法というは常の小乗

経にはあらず十地の大法に対して十住十行十回向の大法を下して小法と名くと釈し給へり、又法華経第一の巻方

便品に若以小乗化乃至於一人と申す文あり天台妙楽は阿含経を小乗と云うのみにあらず華厳経の別教方等般若の

通別の大乗をも小乗と定め給う、又玄義の第一に会小帰大是漸頓泯合と申す釈をば智証大師は初め華厳経より終

り般若経にいたるまで四教八教の権教諸大乗経を漸頓と釈す泯合とは八教を会して一大円教に合すとこそことは

られて候へ、又法華経の寿量品に楽於小法徳薄垢重者と申す文あり、天台大師は此経文に小法と云うは小乗経に

もあらず又諸大乗経にもあらず久遠実成を説かざる華厳経の円乃至方等般若法華経の迹門十四品の円頓の大法ま

で小乗の法なり、又華厳経等の諸大乗経の教主の法身報身毘盧遮那盧舎那大日如来等をも小仏なりと釈し給ふ、

此の心ならば涅槃経大日経等の一切の大小権実顕密の諸経は皆小乗経八宗の中には倶舎宗成実宗律宗を小乗と云

うのみならず華厳宗法相宗三論宗真言宗等の諸大乗宗を小乗宗として唯天台の一宗計り実大乗宗なるべし、彼彼

の大乗宗の所依の経経には絶えて二乗作仏久遠実成の最大の法をとかせ給はず、譬えば一尺二尺の石を持つ者を

ば大力といはず一丈二丈の石を持つを大力と云うが如し、華厳経の法界円融

P0521

四十一位般若経の混同無二十八空乾慧地等の十地瓔珞経の五十二位仁王経の五十一位薬師経の十二の大願雙観経

の四十八願大日経の真言印契等此等は小乗経に対すれば大法秘法なり、法華経の二乗作仏久遠実成に対すれば小

乗の法なり、一尺二尺を一丈二丈に対するが如し、又二乗作仏久遠実成は法華経の肝用にして諸経に対すれば奇

たりと云へども法華経の中にてはいまだ奇妙ならず一念三千と申す法門こそ奇が中の奇妙が中の妙にて華厳大日

経等に分絶たるのみならず、八宗の祖師の中にも真言等の七宗の人師名をだにもしらず天竺の大論師竜樹菩薩天

親菩薩は内には珠を含み外には書きあらはし給はざりし法門なり、雨衆が三徳米斉が六句の先仏の教を盗みとれ

る様に華厳宗の澄観真言宗の善無畏等は天台大師の一念三千の法門を盗み取って我が所依の経の心仏及衆生の文

の心とし心実相と申す文の神とせるなり、かくのごとく盗み取って我が宗の規模となせるが又還って天台宗を下

し華厳宗真言宗には劣れる法なりと申す、此等の人師は世間の盗人にはあらねども仏法の盗人なるべし、此等を

よくよく尋ね明むべし。

 又世間の天台宗の学者並びに諸宗の人人の云く法華経は但二乗作仏久遠実成計りなり等云云、今反詰して云く

汝等が承伏に付いて但二乗作仏と久遠実成計り法華経にかぎつて諸経になくば此れなりとも豈奇が中の奇にあら

ずや、二乗作仏諸経になくば仏の御弟子頭陀第一の迦葉智慧第一の舎利弗神通第一の目連等の十大弟子千二百の

羅漢万二千の声聞無数億の二乗界過去遠遠劫より未来無数劫にいたるまで法華経に値いたてまつらずば永く色心

倶に滅して永不成仏の者となるべし豈大なる失にあらずや、又二乗界仏にならずば迦葉等を供養せし梵天帝釈四

衆八部比丘比丘尼等の二界八番の衆はいかんがあるべき、又久遠実成が此の経に限らずんば三世の諸仏無常遷滅

の法に堕しなん、譬えば天に諸星ありとも日月ましまさずんばいかんがせん地に草木ありとも大地なくばいかん

がせん、是は汝が承伏に付いての義なり実をもつて勘へ申さば二乗作仏なきならば九界の衆生仏になるべからず

P0522

法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり、譬えば人一人は必ず四大を以てつくれり一大か

けなば人にあらじ、一切衆生のみならず十界の依正の二法非情の草木一微塵にいたるまで皆十界を具足せり、二

乗界仏にならずば余界の中の二乗界も仏になるべからず又余界の中の二乗界仏にならずば余界の八界仏になるべ

からず、譬えば父母ともに持ちたる者兄弟九人あらんか二人は凡下の者と定められば余の七人も必ず凡下の者と

なるべし、仏と経とは父母の如し九界の衆生は実子なり声聞縁覚の二人永不成仏の者となるならば菩薩六凡の七

人あに得道をゆるさるべきや、今此の三界は皆是我が有なり其の中の衆生は悉く是吾子なり乃至唯我一人のみ能

く救護を為すの文をもつて知るべし、又菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす第一衆生無辺誓願度の願成就せずば

第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず、前四味の諸経にては菩薩凡夫は仏になるべし二乗は永く仏になる

べからず等云云、而るをかしこげなる菩薩もはかなげなる六凡も共に思へり我等仏になるべし二乗は仏にならざ

ればかしこくして彼の道には入ざりけると思ふ、二乗はなげきをいたき此の道には入るまじかりし者をと恐れか

なしみしが今法華経にして二乗を仏になし給へる時二乗仏になるのみならずかの九界の成仏をもときあらはし給

へり、諸の菩薩此の法門を聞いて思はく我等が思ひははかなかりけり爾前の経経にして二乗仏にならずば我等も

なるまじかりける者なり、二乗を永不成仏と説き給ふは二乗一人計りなげくべきにあらざりけり我等も同じなげ

きにてありけりと心うるなり。

 又寿量品の久遠実成が爾前の経経になき事を以て思ふに爾前には久遠実成なきのみならず仏は天下第一の大妄

語の人なるべし、爾前の大乗第一たる華厳経大日経等に始めて正覚を成じ我昔道場に坐す等云云、真実甚深正直

捨方便の無量義経と法華経の迹門には我先に道場にして我始め道場に坐すと説れたり、此等の経文は寿量品の然

るに我実に成仏してより已来無量無辺なりの文より思い見ればあに大妄語にあらずや、仏の一身すでに大妄語の

身なり

P0523

一身に備えたる六根の諸法あに実なるべきや、大冰の上に造れる諸舎は春をむかへては破れざるべしや水中の満

月は実に体ありや、爾前の成仏往生等は水中の星月の如し爾前の成仏往生等は体に随ふ影の如し、本門寿量品を

もつて見れば寿量品の智慧をはなれては諸経は跨節当分の得道共に有名無実なり、天台大師此の法門を道場にし

て独り覚知し玄義十巻文句十巻止観十巻等かきつけ給うに諸経に二乗作仏久遠実成絶えてなき由を書きをき給ふ

、是は南北の十師が教相に迷つて三時四時五時四宗五宗六宗一音半満三教四教等を立てて教の浅深勝劣に迷いし

此等の非義を破らんが為にまず眼前たる二乗作仏久遠実成をもつて諸経の勝劣を定め給いしなり、然りと云つて

余界の得道をゆるすにはあらず、其の後華厳宗の五教法相宗の三時真言宗の顕密五蔵十住心義釈の四句等は南三

北七の十師の義よりも尚ワれる教相なり。

 此等は他師の事なればさてをきぬ又自宗の学者が天台妙楽伝教大師の御釈に迷うて爾前の経経には二乗作仏久

遠実成計りこそ無けれども余界の得道は有りなんど申す人人一人二人ならず日本国に弘まれり、他宗の人人是に

便を得て弥天台宗を失ふ此等の学者は譬えば野馬の蜘蛛の網にかかり渇る鹿の陽炎をおふよりもはかなし例せば

頼朝の右大将家は泰衡を討たんが為に泰衡を誑して義経を討たせ、太政入道清盛は源氏を喪して世をとらんが為

に我が伯父平馬介忠正を切る義朝はたぼらかされて慈父為義を切るが如し、此等は墓なき人人のためしなり、天

台大師法華経より外の経経には二乗作仏久遠実成は絶えてなしなんど釈し給へば菩薩の作仏凡夫の往生はあるな

んめりとうち思いて我等は二乗にもあらざれば爾前の経経にても得道なるべし此の念い心中にさしはさめり、其

の中にも観経の九品往生はねがひやすき事なれば法華経をばなげすて念仏申して浄土に生れて観音勢至阿弥陀仏

に値いたてまつて成仏を遂ぐべし云云、当世の天台宗の人人を始として諸宗の学者皆此くの如し実義をもつて申

さば一切衆生の成仏のみならず六道を出で十方の浄土に往生する事はかならず法華経の力なり、

P0524

例せば日本国の人唐土の内裏に入らん事は必ず日本の国王の勅定によるべきが如し穢土を離れて浄土に入る事は

必ず法華経の力なるべし、例せば民の女乃至関白大臣の女に至るまで大王の種を下せば其の産る子王となりぬ、

大王の女なれども臣下の種を懐姙せば其の子王とならざるが如し、十方の浄土に生るる者は三乗人天畜生等まで

も皆王の種姓と成つて生るべし皆仏となるべきが故なり、阿含経は民の女の民を夫とし華厳方等般若等は臣の女

の臣を夫とせるが如し、又華厳経方等般若大日経等の円教の菩薩等は大王の女の臣下を夫とせるが如し、皆浄土

に生るべき法にはあらず、又華厳阿含方等般若等の経経の間に六道を出づる人あり是は彼彼の経経の力には非ず

過去に法華経の種を殖えたりし人現在に法華経を待たずして機すすむ故に爾前の経経を縁として過去の法華経の

種を発得して成仏往生をとぐるなり、例せば縁覚の無仏世にして飛花落葉を観じて独覚の菩提を証し孝養父母の

者の梵天に生るるが如し飛花落葉孝養父母等は独覚と梵天との修因にはあらねどもかれを縁として過去の修因を

引きおこし彼の天に生じ独覚の菩提を証す、而るに尚過去に小乗の三賢四善根にも入らず有漏の禅定をも修せざ

る者は月を観じ花を詠じ孝養父母の善を修すれども独覚ともならず色天にも生ぜず、過去に法華経の種を殖ざる

人は華厳経の席に侍りしかども初地初住にものぼらず、鹿苑説教の砌にても見思をも断ぜず観経等にても九品の

往生をもとげず、但大小の賢位のみに入つて聖位にはのぼらずして法華経に来つて始めて仏種を心田に下して一

生に初地初住等に登る者もあり、又涅槃の座へさがり乃至滅後未来までゆく人もあり、過去に法華経の種を殖た

る人人は結縁の厚薄に随つて華厳経を縁として初地初住に登る人もあり、阿含経を縁として見思を断じて二乗と

成る者もあり、観経等の九品の行業を縁として往生する者もあり、方等般若も此れをもつて知んぬべし、此等は

彼彼の経経の力にはあらず偏に法華経の力なり譬えば民の女に王の種を下せるを人しらずして民の子と思ひ大臣

等の女に王の種を下せるを人しらずして

P0525

臣下の子と思へども大王より是を尋ぬれば皆王種となるべし、爾前にして界外へ至る人を法華経より之を尋ぬれ

ば皆法華経の得道なるべし、又過去に法華経の種を殖えたる人の根鈍にして爾前の経経に発得せざる人人は法華

経にいたりて得道なる、是は爾前の経経をばめのととしてきさき腹の太子王子と云うが如くなるべし、又仏の滅

後にも正法一千年が間は在世の如くこそなけれども過去に法華経の種を殖えて法華涅槃経にて覚りをとぐる者も

ありぬ現在在世にて種を下せる人人も是多し。

 又滅後なれども現に法華経ましませば外道の法より小乗経にうつり小乗経より権大乗にうつり権大乗より法華

経にうつる人人数をしらず、竜樹菩薩無著菩薩世親論師等是なり、像法一千年には正法のほどこそ無けれども又

過去現在に法華経の種を殖えたる人人も少少之有り、而るを漸漸に仏法澆薄になる程に宗宗も偏執石の如くかた

く我慢山の如く高し、像法の末に成りぬれば仏法によつて諍論興盛して仏法の合戦ひまなし、世間の罪よりも仏

法の失に依つて無間地獄に堕つる者数をしらず。

 今は又末法に入つて二百余歳過去現在に法華経の種を殖えたりし人人もやうやくつきはてぬ、又種をうへたる

人人は少少あるらめども世間の大悪人出生の謗法の者数をしらず国に充満せり、譬えば大火の中の小水大水の中

の小火大海の中の水大地の中の金なんどの如く悪業とのみなりぬ、又過去の善業もなきが如く現在の善業もしる

しなし、或は弥陀の名号をもつて人を狂はし法華経をすてしむれば背上向下のとがあり、或は禅宗を立てて教外

と称し仏教をば真の法にあらずと蔑如して増上慢を起し、或は法相三論華厳宗を立てて法華経を下し、或は真言

宗大日宗と称して法華経は釈迦如来の顕教にして真言宗に及ばず等云云、而るに自然に法門に迷う者もあり或は

師師に依つて迷う者もあり、或は元祖論師人師の迷法を年久しく真実の法ぞと伝へ来る者もあり、或は悪鬼天魔

の身に入りかはりて悪法を弘めて正法ぞと思ふ者もあり、或ははづかの小乗一途の小法をしりて大法を行ずる人

はしからずと我慢して

P0526

我が小法を行ぜんが為に大法秘法の山寺をおさへとる者もあり、或は慈悲魔と申す魔身に入つて三衣一鉢を身に

帯し小乗の一法を行ずるやからはづかの小法を持ちて国中の棟梁たる比叡山竜象の如くなる智者どもを一分我が

教にたがへるを見て邪見の者悪人なんどうち思へり、此の悪見をもつて国主をたぼらかし誑惑して正法の御帰依

をうすうなしかへつて破国破仏の因縁となせるなり、彼の妹己妲己褒モと申せし后は心もおだやかにみめかたち

も人にすぐれたりき、愚王これを愛して国をほろぼす因縁となす、当世の禅師律師念仏者なんど申す聖一道隆良

観道阿弥念阿弥なんど申す法師どもは鳩鴿が糞土を食するが如し西施が呉王をたぼらかししに似たり、或は我が

小乗の臭糞驢乳の戒を持て。

P0527