立正観抄送状

立正観抄送状          /文永十二年二月 五十四歳御作

+                         与最蓮房日浄

 今度の御使い誠に御志の程顕れ候い畢んぬ又種種の御志慥に給候い畢んぬ。

 抑承わり候、当世の天台宗等止観は法華経に勝れ禅宗は止観に勝る、又観心の大教興る時は本迹の大教を捨つ

と云う事先ず天台一宗に於て流流各別なりと雖も慧心檀那の両流を出でず候なり、慧心流の義に云く止観の一部

は本迹二門に亘るなり謂く止観の六に云く「観は仏知と名く止は仏見と名く念念の中に於て止観現前す乃至三乗

の近執を除く」文、弘決の五に云く「十法既に是れ法華の所乗なり是の故に還つて法華の文を用いて歎ず、若し

迹説に約せば即ち大通智勝仏の時を指して以て積劫と為し寂滅道場を以て妙悟と為す、若し本門に約せば我本行

菩薩道の時を指して以て積劫と為し本成仏の時を以て妙悟と為す本迹二門只是此の十法を求悟す」文、始の一文

は本門に限ると見えたり次の文は正しく本迹に亘ると見えたり、止観は本迹に亘ると云う事文証此に依るなりと

云えり、次に檀那流には止観は迹門に限ると云う証拠は弘決の三に云く「還つて教味を借つて以て妙円を顕す○

故に知んぬ一部の文共に円成の開権妙観を成ずるを」文、此の文に依らば止観は法華の迹門に限ると云う事文に

在りて分明なり両流の異義替れども共に本迹を出でず当世の天台宗何くより相承して止観は法華経に勝ると云う

や、但し予が所存は止観法華の勝劣は天地雲泥なり。

 若し与えて此を論ぜば止観は法華迹門の分斉に似たり、其の故は天台大師の己証とは十徳の中の第一は自解仏

乗第九は玄悟法華円意なり、霊応伝の第四に云く「法華の行を受けて二七日境界す」文、止観の一に云く「此の

止観は天台智者己心中に行ずる所の法門を説く」文、弘決の五に云く「故に止観に正しく観法を明すに至つて並

びに三千を以て指南と為す

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○故に序の中に云く己心中に行ずる所の法門を説く」文、己心所行の法とは一念三千一心三観なり三諦三観の名

義は瓔珞仁王の二経に有りと雖も一心三観一念三千等の己心所行の法門をば迹門十如実相の文を依文として釈成

し給い畢んぬ。

 爰に知んぬ止観一部は迹門の分斉に似たりと云う事を若し奪つて之を論ぜば爾前権大乗即別教の分斉なり其の

故は天台己証の止観とは道場所得の妙悟なり所謂天台大師大蘇の普賢道場に於て三昧開発し証を以て師に白す師

の曰く法華の前方便陀羅尼なりと霊応伝の第四に云く「智竡tに代つて金字経を講ず一心具足万行の処に至つて

站^有り思為に釈して曰く汝が疑う所は此乃ち大品次第の意なるのみ未だ是法華円頓の旨にあらざるなり」文、

講ずる所の経既に権大乗経なり又次第と云えり故に別教なり、開発せし陀羅尼又法華前方便と云えり故に知んぬ

爾前帯権の経別教の分斉なりと云う事を己証既に前方便の陀羅尼なり止観とは己心中所行の法門を説くと云うが

故に、明かに知んぬ法華の迹門に及ばずと云う事を何に況や本門をや、若し此の意を得ば檀那流の義尤も吉なり

此等の趣を以て止観は法華に勝ると申す邪義をば問答有る可く候か、委細の旨は別に一巻書き進らせ候なり、又

日蓮相承の法門血脈慥に之を註し奉る、恐恐謹言

= 文永十二乙亥二月二十八日             日 蓮 花 押

   最蓮房御返事

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