諌暁八幡抄

諌暁八幡抄

夫れ馬は一歳二歳の時は設いつがいのびまろすねにすねほそくうでのびて候へども病あるべしとも見えず、而れ

ども七八歳なんどになりて身もこへ血ふとく上かち下をくれ候へば小船に大石をつめるがごとく小き木に大なる

菓のなれるがごとく多くのやまい出来して人の用にもあわず力もよわく寿もみじかし、天神等も又かくのごとし

成劫の始には先生の果報いみじき衆生生れ来る上人の悪も候はねば身の光もあざやかに心もいさぎよく日月のご

とくあざやかに師子象のいさみをなして候いし程に成劫やうやくすぎて住劫になるままに前の天神等は年かさな

りて下旬の月のごとし今生れ来れる天神は果報衰減し下劣の衆生多分は出来す、然る間一天に三災やうやくをこ

り四海に七難粗出現せしかば一切衆生始めて苦と楽とををもい知る。

 此の時仏出現し給いて仏教と申す薬を天と人と神とにあたへ給いしかば燈に油をそへ老人に杖をあたへたるが

ごとく天神等還つて威光をまし勢力を増長せし事成劫のごとし仏教に又五味のあぢわひ分れたり在世の衆生は成

劫ほどこそなかりしかども果報いたうをとろへぬ衆生なれば五味の中に何の味をもなめて威光勢力をもまし候き

、仏滅度の後正像二千年過て末法になりぬれば本の天も神も阿修羅大竜等も年もかさなりて身もつかれ心もよは

くなり又今生れ来る天人修羅等は或は小果報或は悪天人等なり、小乗権大乗等の乳酪生蘇熟蘇味を服すれども老

人に食をあたへ高人に麦飯等を奉るがごとし、而るを当世此を弁えざる学人等古にならいて日本国の一切の諸

神等の御前にして阿含経方等般若華厳大日経等を法楽し倶舎成実律法相三論華厳浄土禅等の僧を護持の僧とし給

える唯老人に食を与へ小児に強飯をくくめるがごとし、

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何に況や今の小乗経と小乗宗と大乗経と大乗宗とは古の小大乗の経宗にはあらず、天竺より仏法漢土へわたりし

時小大の経経は金言に私言まじはれり、宗宗は又天竺漢土の論師人師或は小を大とあらそい或は大を小という或

は小に大をかきまじへ或は大に小を入れ或は先きの経を後とあらそい或は後を先とし或は先を後につけ或は顕経

を密経といひ密経を顕経という譬へば乳に水を入れ薬に毒を加うるがごとし、涅槃経に仏未来を記して云く「爾

の時に諸の賊醍醐を以ての故に之に加うるに水を以てす水を以てする事多きが故に乳酪醍醐一切倶に失す」等云

云、阿含小乗経は乳味のごとし方等大集経阿弥陀経深密経楞伽経大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の

如く華厳経等は熟蘇味の如く法華涅槃経等は醍醐味の如し、設い小乗経の乳味なりとも仏説の如くならば争でか

一分の薬とならざるべき、況や諸の大乗経をや何に況や法華経をや。

 然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人なり其の中に羅什三蔵一人を除きて前後の一百八十六人

は純乳に水を加へ薬に毒を入たる人人なり、此の理を弁へざる一切の人師末学等設い一切経を読誦し十二分経を

胸に浮べたる様なりとも生死を離る事かたし又現在に一分のしるしある様なりとも天地の知る程の祈とは成る可

からず魔王魔民等守護を加えて法に験の有様なりとも終には其の身も檀那も安穏なる可からず譬ば旧医の薬に毒

を雑へてさしをけるを旧医の弟子等或は盗み取り或は自然に取りて人の病を治せんが如しいかでか安穏なるべき

、当世日本国の真言等の七宗並に浄土禅宗等の諸学者等、弘法慈覚智証等の法華経最第一の醍醐に法華第二第三

等の私の水を入れたるを知らず仏説の如くならばいかでか一切倶失の大科を脱れん、大日経は法華経より劣る事

七重なり而るを弘法等顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通せるは法華経一分の乳に大日経七分の水を入

れたるなり水にも非ず乳にも非ず大日経にも非ず法華経にも非ず而も法華経に似て大日経に似たり大覚世尊此の

事を涅槃経に記して云く「我が滅後に於て正法将に滅尽せんと欲す爾の時に多く悪を行ずる比丘有らん、

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乃至牧牛女の如く乳を売るに多利を貪らんと欲するを為ての故に二分の水を加う、乃至此の乳水多し、爾の時に

是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有て是の経を鈔略し分て多分と作し能く正法

の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除せん、乃至前を

鈔て後に著け後を鈔て前に著け前後を中に著け中を前後に著けん当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔

の伴侶なり」等云云。

 今日本国を案ずるに代始まりて已に久しく成りぬ旧き守護の善神は定めて福も尽き寿も減じ威光勢力も衰えぬ

らん、仏法の味をなめてこそ威光勢力も増長すべきに仏法の味は皆たがひぬ齢はたけぬ争でか国の災を払い氏子

をも守護すべき、其の上謗法の国にて候を氏神なればとて大科をいましめずして守護し候へば仏前の起請を毀る

神なり、しかれども氏子なれば愛子の失のやうにすてずして守護し給いぬる程に法華経の行者をあだむ国主国人

等を対治を加えずして守護する失に依りて梵釈等のためには八幡等は罰せられ給いぬるか此事は一大事なり秘す

べし秘すべし、有る経の中に仏此の世界と他方の世界との梵釈日月四天竜神等を集めて我が正像末の持戒破戒無

戒等の弟子等を第六天の魔王悪鬼神等が人王人民等の身に入りて悩乱せんを見乍ら聞き乍ら治罰せずして須臾も

すごすならば必ず梵釈等の使をして四天王に仰せつけて治罰を加うべし、若し氏神治罰を加えずば梵釈四天等も

守護神に治罰を加うべし梵釈又かくのごとし、梵釈等は必ず此の世界の梵釈日月四天等を治罰すべし、若し然ら

ずんば三世の諸仏の出世に漏れ永く梵釈等の位を失いて無間大城に沈むべしと釈迦多宝十方の諸仏の御前にして

起請を書き置れたり。

 今之を案ずるに日本小国の王となり神となり給うは小乗には三賢の菩薩大乗には十信法華には名字五品の菩薩

なり、何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも法華経の名字を聞かず一念三千の観法を守護せずんば退位の菩薩

と成りて

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永く無間大城に沈み候べし、故に扶桑記に云く「又伝教大師八幡大菩薩の奉為に神宮寺に於て、自ら法華経を講

ず、乃ち聞き竟て大神託宣すらく我法音を聞かずして久しく歳年を歴る幸い和尚に値遇して正教を聞くことを得

たり兼て我がために種種の功徳を修す至誠随喜す何ぞ徳を謝するに足らん、兼て我が所持の法衣有りと即ち託宣

の主自ら宝殿を開いて手ら紫の袈裟一つ紫の衣一を捧げ和尚に奉上す大悲力の故に幸に納受を垂れ給えと、是の

時に禰宜祝等各歎異して云く元来是の如きの奇事を見ず聞かざるかな、此の大神施し給う所の法衣今山王院に在

るなり」云云、今謂く八幡は人王第十六代応神天皇なり其の時は仏経無かりしかば此に袈裟衣有るべからず、人

王第三十代欽明天皇の治三十二年に神と顕れ給い其れより已来弘仁五年までは禰宜祝等次第に宝殿を守護す、何

の王の時此の袈裟を納めけると意へし而して禰宜等云く元来見ず聞かず等云云、此の大菩薩いかにしてか此の袈

裟衣は持ち給いけるぞ不思議なり不思議なり。

 又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代仏法は二百六十余年なり、其の間に三論成実法相倶舎華厳

律宗禅宗等の六宗七宗日本国に渡りて八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人人其の数を知らず、又法華経を読誦

する人も争でか無からん、又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して法華経等の一切経を講ずる堂大師より

已前に是あり、其の時定めて仏法を聴聞し給いぬらん何ぞ今始めて我法音を聞かずして久しく年歳を歴る等と託

宣し給ふべきや、幾くの人人か法華経一切経を講じ給いけるに何ぞ此の御袈裟衣をば進らさせ給はざりけるやら

ん、当に知るべし伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども其の義はいまだ顕れざりけるか、去ぬる延暦二

十年十一月の中旬の比伝教大師比叡山にして南都七大寺の六宗の碩徳十余人を奉請して法華経を講じ給いしに、

弘世真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く「一乗の権滞を慨き三諦の未顕を悲しむ」又云く「長

幼三有の結を摧破し猶未だ歴劫の轍を改めず」等云云、其の後延暦二十一年正月十九日に高雄寺に

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主上行幸ならせ給いて六宗の碩徳と伝教大師とを召し合はせられて宗の勝劣を聞し食ししに南都の十四人皆口を

閉ぢて鼻のごとくす、後に重ねて怠状を捧げたり、其の状に云く「聖徳の弘化より以降た今に二百余年の間講ず

る所の経論其の数多し、彼れ此れ理を争い其の疑未だ解けず而も比の最妙の円宗猶未だ闡揚せず」等云云、比れ

をもつて思うに伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか、八幡大菩薩の見ず聞かずと御託宣有りけ

るは指なり指なり白なり白なり。

 法華経第四に云く「我が滅度の後に能く竊に一人の為にも法華経を説かん、当に知るべし是の人は則ち如来の

使なり乃至如来則ち衣を以て之れを覆い給うべし」等云云、当来の弥勒仏は法華経を説き給うべきゆへに釈迦仏

は大迦葉尊者を御使として衣を送り給ふ、又伝教大師は仏の御使として法華経を説き給うゆへに八幡大菩薩を使

として衣を送り給うか、又此の大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども先生の善根

に依つて大王と生れ給いぬ、其の善根の余慶神と顕れて此の国を守護し給いけるほどに今は先生の福の余慶も尽

きぬ、正法の味も失せぬ謗法の者等国中に充満して年久しけれども日本国の衆生に久く仰がれてなじみせし大科

あれども捨てがたくをぼしめし老人の不幸の子を捨てざるが如くして天のせめに合い給いぬるか、又此の袈裟は

法華経最第一と説かん人こそかけまいらせ給うべきに伝教大師の後は第一の座主義真和尚法華最第一の人なれば

かけさせ給う事其の謂あり、第二の座主円澄大師は伝教大師の御弟子なれども又弘法大師の弟子なりすこし謗法

ににたり、此の袈裟の人には有らず、第三の座主円仁慈覚大師は名は伝教大師の御弟子なれども心は弘法大師の

弟子大日経第一法華経第二の人なり、此の袈裟は一向にかけがたし、設いかけたりとも法華経の行者にはあらず

、其の上又当世の天台座主は一向真言の座主なり、又当世の八幡の別当は或は園城寺の長吏或は東寺の末流なり

、此れ等は遠くは釈迦多宝十方の諸仏の大怨敵近くは伝教大師の讐敵なり、

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譬へば提婆達多が大覚世尊の御袈裟をかけたるがごとし、又猟師が仏衣を被て師子の皮をはぎしがごとし、当世

叡山の座主は伝教大師の八幡大菩薩より給て候し御袈裟をかけて法華経の所領を奪ひ取りて真言の領となせり、

譬へば阿闍世王の提婆達多を師とせしがごとし。

 而るを大菩薩の此の袈裟をはぎかへし給わざるは第一の大科なり、此の大菩薩は法華経の御座にして行者を守

護すべき由の起請をかきながら数年が間法華経の大怨敵を治罰せざる事不思議なる上、たまたま法華経の行者の

出現せるを来りて守護こそなさざらめ、我が前にして、国主等の怨する事犬の猿をかみ蛇の蝦をのみ鷹の雉を師

子王の兎を殺すがごとくするを一度もいましめず、設いいましむるやうなれどもいつわりをろかなるゆへに梵釈

日月四天等のせめを八幡大菩薩かほり給いぬるにや、例せば欽明天皇敏達天皇用明天皇已上三代の大王物部大連

守屋等がすすめに依りて宣旨を下して金銅の釈尊を焼き奉り堂に火を放ち僧尼をせめしかば天より火下て内裏を

やく、其の上日本国の万民とがなくして悪瘡をやみ死ぬること大半に過ぎぬ、結句三代の大王二人の大臣其の外

多くの王子公卿等或は悪瘡或は合戦にほろび給いしがごとし、其の時日本国の百八十の神の栖給いし宝殿皆焼け

失せぬ釈迦仏に敵する者を守護し給いし大科なり、又園城寺は叡山已前の寺なれども智証大師の真言を伝えて今

に長吏とがうす叡山の末寺たる事疑いなし、而るに山門の得分たる大乗の戒壇を奪い取りて園城寺に立てて叡山

に随わじと云云、譬へば小臣が大王に敵し子が親に不幸なるがごとし、かかる悪逆の寺を新羅大明神みだれがわ

しく守護するゆへに度度山門に宝殿を焼る、此のごとし、今八幡大菩薩は法華経の大怨敵を守護して天火に焼か

れ給いぬるか、例せば秦の始皇の先祖襄王と申せし王神となりて始皇等を守護し給いし程に秦の始皇大慢をなし

て三皇五帝の墳典をやき三聖の孝経等を失いしかば沛公と申す人剣をもつて大蛇を切り死ぬ秦皇の氏神是なり、

其の後秦の代ほどなくほろび候いぬ此れも又かくのごとし、安芸の国いつく島の大明神は平家の氏神なり

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平家ををごらせし失に伊勢太神宮八幡等に神うちに打ち失われて其の後平家ほどなくほろび候いぬ此れも又かく

のごとし。

 法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、 日蓮が法華経

の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂肉眼天眼慧眼法眼仏眼なり、

此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を

具する事を得給う」等云云、 此の方等経と申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田応供の中の

最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼二乗菩薩の眼諸仏の御眼なり、而るに法華経の行

者を怨む人は人天の眼をくじる者なり、其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神な

り、而るに弘法慈覚智証等は正しく書を作りて法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず後に望れば戯論と作る

力者に及ばず履者とりにたらずとかきつけて四百余年、 日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあな

づらせ一切衆生の眼をくじる者を守護し給うはあに八幡大菩薩の結構にあらずや、去ぬる弘長と又去ぬる文永八

年九月の十二日に日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に国主のはからいとして八幡大菩薩の御前に

ひきはらせて一国の謗法の者どもにわらわせ給いしはあに八幡大菩薩の大科にあらずや、其のいましめとをぼし

きはただどしうちばかりなり、日本国の賢王たりし上第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよもをはせじ、

又偏頗はよも有らじとはをもへども一切経並に法華経のをきてのごときんばこの神は大科の神なり、日本六十六

箇国二つの島一万一千三十七の寺寺の仏は皆或は画像或は木像或は真言已前の寺もあり或は已後の寺もあり、此

等の仏は皆法華経より出生せり、法華経をもつて眼とすべし、所謂「此の方等経は是れ諸仏の眼なり」等云云、

妙楽云く「然も此の経は常住仏性を以て咽喉と為し一乗の妙行を以て眼目と為し

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再生敗種を以て心腑と為し顕本遠寿を以て其の命と為す」等云云、而るを日本国の習い真言師にもかぎらず諸宗

一同に仏眼の印をもつて開眼し大日の真言をもつて五智を具すと云云 此等は法華経にして仏になれる衆生を真

言の権経にて供養すれば還つて仏を死し眼をくじり寿命を断ち喉をさきなんどする人人なり、提婆が教主釈尊の

身より血を出し阿闍世王の彼の人を師として現罰に値いしにいかでかをとり候べき、八幡大菩薩は応神天皇小国

の王なり阿闍世王は摩竭大国の大王なり天と人と王と民との勝劣なり、而れども阿闍世王猶釈迦仏に敵をなして

悪瘡身に付き給いぬ、八幡大菩薩いかでか其の科を脱るべき、去ぬる文永十一年に大蒙古よりよせて日本国の兵

を多くほろぼすのみならず八幡の宮殿すでにやかれぬ、其の時何ぞ彼の国の兵を罰し給はざるや、まさに知るべ

し彼の国の大王は此の国の神に勝れたる事あきらけし、襄王と申せし神は漢土の第一の神なれども沛公が利劒に

切られ給いぬ。

 此れをもつてをもうべし道鏡法師称徳天皇の心よせと成りて国王と成らんとせし時清丸八幡大菩薩に祈請せし

時八幡の御託宣に云く「夫れ神に大小好悪有り乃至彼は衆く我は寡し邪は強く正は弱し乃ち当に仏力の加護を仰

て為めに皇緒を紹隆すべし」等云云、当に知るべし八幡大菩薩は正法を力として王法を守護し給いけるなり、叡

山東寺等の真言の邪法をもつて権の大夫殿を調伏せし程に権の大夫殿はかたせ給い隠岐の法皇はまけさせ給いぬ

還著於本人此れなり。

 今又日本国一万一千三十七の寺並に三千一百三十二社の神は国家安穏のためにあがめられて候、而るに其の寺

寺の別当等其の社社の神主等はみなみなあがむるところの本尊と神との御心に相違せり、彼れ彼れの仏と神とは

其の身異体なれども其の心同心に法華経の守護神なり、別当と社主等は或は真言師或は念仏者或は禅僧或は律僧

なり皆一同に八幡等の御かたきなり、謗法不孝の者を守護し給いて正法の者を或は流罪或は死罪等に行なわする

ゆへに

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天のせめを被り給いぬるなり、我が弟子等の内謗法の余慶有る者の思いていわく此の御房は八幡をかたきとすと

云云、 これいまだ道理有りて法の成就せぬには本尊をせむるという事を存知せざる者の思いなり付法蔵経と申

す経に大迦葉尊者の因縁を説いて云く「時に摩竭国に婆羅門有り尼倶律陀と名づく過去の世に於て久しく勝業を

修し、多く財宝に饒かにして巨富無量なり摩竭王に比するに千倍勝れりと為す、財宝饒かなりと雖も子息有る事

無し自ら念わく老朽して死の時将に至らんとす庫蔵の諸物委付する所無し、其の舎の側に於て樹林神有り彼の婆

羅門子を求むるが為の故に即ち往て祈請す年歳を経歴すれども微応無し、時に尼倶律陀大に瞋忿を生じて樹神に

語て曰く、我汝に事てより来已に年歳を経れども都て一の福応を垂るるを見ず今当に七日至心に汝に事うべし、

若し復験無ければ必ず相焼剪せん、樹神聞き已て甚だ愁怖を懐き四天王に向つて具さに斯の事を陳ぶ、是に於て

四王往て帝釈に白す帝釈閻浮提の内を観察するに福徳の人の彼の子と為るに堪ゆる無し即ち梵王に詣で広く上の

事を宣ぶ、爾の時に梵王天眼を以て観見するに梵天の当に命終に臨む有り而て之に告げて曰く汝若し神を降さば

宜しく当に彼の閻浮提界の婆羅門の家に生ずべし、梵天対て曰く婆羅門の法悪邪見多し我今其子と為る事能ざる

なり、梵王復言く彼の婆羅門大威徳有り閻浮提の人往て生ずるに堪ゆる莫し汝必ず彼に生ぜば吾れ相護りて終に

汝をして邪見に入らしめざらん、梵天曰く諾敬て聖教を承けん、是に於て帝釈即樹神に向つて斯の如き事を説く

樹神歓喜して尋て其の家に詣で婆羅門に語らく汝今復恨を我れに起す事なかれ郤て後七日当に卿が願を満すべし

、七日に至て已に婦身む事有るを覚え十月を満足して一男児を生めり乃至今の迦葉是なり」云云、「時に応じて

尼倶律陀大に瞋忿を生ず」等云云、常のごときんば氏神に向いて大瞋恚を生ぜん者は今生には身をほろぼし後世

には悪道に堕つべし然りと雖も尼倶律陀長者氏神に向て大悪口大瞋恚を生じて大願を成就し賢子をまうけ給いぬ

、当に知るべし瞋恚は善悪に通ずる者なり。

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 今日蓮は去ぬる建長五年[癸丑]四月二十八日より今年弘安三年[太歳庚辰]十二月にいたるまで二十八年が

間又他事なし、只妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり、此れ即母の赤子の

口に乳を入れんとはげむ慈悲なり此れ又時の当らざるにあらず已に仏記の五五百歳に当れり、天台伝教の御時は

時いまだ来らざりしかども一分の機ある故に少分流布せり、何に況や今は已に時いたりぬ設とひ機なくして水火

をなすともいかでか弘通せざらむ、只不軽のごとく大難には値うとも流布せん事疑なかるべきに真言禅念仏等の

讒奏に依りて無智の国主等留難をなす此を対治すべき氏神八幡大菩薩彼等の大科を治せざるゆへに日蓮の氏神を

諌暁するは道理に背くべしや、尼倶律陀長者が樹神をいさむるに異ならず、蘇悉地経に云く「本尊を治罰する事

鬼魅を治するが如し」等云云、文の心は経文のごとく所願を成ぜんがために数年が間法を修行するに成就せざれ

ば本尊を或はしばり或は打ちなんどせよととかれて候、相応和尚の不動明王をしばりけるは此の経文を見たりけ

るか、此は他事にはにるべからず日本国の一切の善人は或は戒を持ち或は布施を行じ或は父母等の孝養のために

寺塔を建立し或は成仏得道の為に妻子をやしなうべき財を止めて諸僧に供養をなし候に、諸僧謗法の者たるゆへ

に謀反の者を知ずしてやどしたるがごとく不孝の者に契をなせるがごとく今生には災難を招き後生も悪道に堕ち

候べきを扶けんとする身なり而るを日本国の守護の善神等彼等にくみして正法の敵となるゆへに此をせむるは経

文のごとし道理に任せたり、我が弟子等が愚案にをもわく我が師は法華経を弘通し給うとてひろまらざる上大難

の来れるは真言は国をほろぼす念仏は無間地獄禅は天魔の所為律僧は国賊との給うゆへなり、例せば道理有る問

注に悪口のまじわれるがごとしと云云、日蓮我が弟子に反詰して云く汝若し爾らば我が問を答えよ一切の真言師

一切の念仏者一切の禅宗等に向て南無妙法蓮華経と唱え給えと勧進せば彼等の云く我が弘法大師は法華経と釈迦

仏とを戯論無明の辺域力者はき物とりに及ばずとかかせ給いて候、物の用にあわぬ法華経を読誦せんよりも

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其の口に我が小呪を一反も見つべし一切の在家の者の云く善導和尚は法華経をば千中無一法然上人は捨閉閣抛道

綽禅師は未有一人得者と定めさせ給へり汝がすすむる南無妙法蓮華経は我が念仏の障りなり我等設い悪をつくる

ともよも唱えじ一切の禅宗の云く我が宗は教外別伝と申して一切経の外に伝へたる最上の法門なり一切経は指の

ごとし禅は月のごとし天台等の愚人は指をまほつて月を亡いたり法華経は指なり禅は月なり月を見て後は指は何

のせんか有るべきなんど申す、かくのごとく申さん時はいかにとしてか南無妙法蓮華経の良薬ば彼れ等が口には

入るべき仏は且らく阿含経を説き給いて後彼の行者を法華経へ入れんとたばかり給いしに一切の声聞等只阿含経

に著して法華経へ入らざりしをばいかやうにかたばからせ給いし、此をば仏説いて云く「設ひ五逆罪は造るとも

五逆の者をば供養すとも罪は仏の種とはなるとも彼れ等が善根は仏種とならじ」とこそ説かせ給しか、小乗大乗

はかわれども同じく仏説なり大が小を破して小を大となすと大を破して法華経に入ると大小は異なれども法華経

へ入れんと思う志は是一つなり、されば無量義経に大を破して云く「未顕真実」と法華経に云く「此の事は為て

不可なり」等云云、仏自ら云く「我世に出でて華厳般若等を説きて法華経をとかずして入涅槃せば愛子に財をを

しみ病者に良薬をあたへずして死にたるがごとし仏自ら地獄に堕つべし」と云云、不可と申すは地獄の名なり況

や法華経の後爾前の経に著して法華経へうつらざる者は大王に民の従がはざるがごとし親に子の見へざるがごと

し、設い法華経を破せざれども爾前の経経をほむるは法華経をそしるに当たれり妙楽云く「若し昔を称歎せば豈

に今を毀るに非ずや」文、又云く「発心せんと欲すと雖も偏円を簡ばず誓の境を解らざれば未来法を聞くとも何

ぞ能く謗を免れん」等云云、真言の善無畏金剛智不空弘法慈覚智証等は設とい法華経を大日経に相対して勝劣を

論ぜずして大日経を弘通すとも滅後に生まれたる三蔵人師なれば謗法はよも免れ候はじ、何に況や善無畏等の三

三蔵は法華経は略説大日経は広説と同じて

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而かも法華経の行者を大日経えすかし入れ、弘法等の三大師は法華経の名をかきあげて戯論なんどかかれて候大

科を明らめずして此の四百余年一切衆生を皆謗法の者となせり、例せば大荘厳仏の末の四比丘が六百万億那由佗

の人を皆無間地獄に堕せると、師子音王仏の末の勝意比丘が無量無辺の持戒の比丘比丘尼うばそく(優婆塞)う

ばい(優婆夷)を皆阿鼻大城に導きしと、今の三大師の教化に随いて日本国四十九億九万四千八百二十八人或は

云く日本紀に行基の人数に云く男女四十五億八万九千六百五十九人云云の一切衆生又四十九億等の人人四百余年

に死して無間地獄に堕ちぬれば其の後他方世界よりは生れて又死して無間地獄に堕ちぬ、かくのごとく堕つる者

は大地微塵よりも多し此れ皆三大師の科ぞかし、此れを日蓮此に大に見ながらいつわりをろかにして申さずば倶

に堕地獄の者となつて一分の科なき身が十方の大阿鼻獄を経めぐるべしいかでか身命をすててよばわらざるべき

涅槃経に云く「一切衆生異の苦を受くるは悉く是如来一人の苦なり」等云云、日蓮云く一切衆生の同一苦は悉く

是日蓮一人の苦と申すべし。

 平城天皇の御字に八幡の御託宣に云く「我は是れ日本の鎮守八幡大菩薩なり百王を守護せん誓願あり」等云云

、今云く人王八十一二代隠岐の法皇三四五の諸王已に破られ畢んぬ残の二十余代今捨て畢んぬ、已に此の願破る

るがごとし、日蓮料簡して云く百王を守護せんというは正直の王百人を守護せんと誓い給う、八幡の御誓願に云

く「正直の人の頂を以て栖と為し、諂曲の人の心を以て亭ず」等云云、夫れ月は清水に影をやどす濁水にすむ事

なし、王と申すは不妄語の人右大将家権の大夫殿は不妄語の人正直の頂八幡大菩薩の栖む百皇の内なり、正直に

二あり一には世間の正直王と申すは天人地の三を串くを王と名づく、天人地の三は横なりたつてんは縦なり、王

と申すは黄帝中央の名なり、天の主人の主地の主を王と申す、隠岐の法皇は名は国王身は妄語の人なり横人なり

、権の大夫殿は名は臣下身は大王不妄語の人八幡大菩薩の願い給う頂きなり、二には出世の正直と申すは爾前七

宗等の経論釈は妄語法華経天台宗は正直の経釈なり、

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本地は不妄語の経の釈迦仏迹には不妄語の八幡大菩薩なり、八葉は八幡中台は教主釈尊なり、四月八日寅の日に

生まれ八十年を経て二月十五日申の日に隠れさせ給う、豈に教主の日本国に生まれ給うに有らずや、大隅の正八

幡宮の石の文に云く「昔し霊鷲山に在つて妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云、法華経に

云く「今此三界」等云云、又「常に霊鷲山に在り」等云云、遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子なり

、近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子なり、今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉る

やうにもてなし釈迦仏をすて奉るは影をうやまつて体をあなづり子に向いて親をのるがごとし、本地は釈迦如来

にして月氏国に出でて正直捨方便の法華経を説き給い、垂迹は日本国に生れては正直の頂きにすみ給う、諸の権

化の人人の本地は法華経の一実相なれども垂迹の門は無量なり、所謂跋倶羅尊者は三世に不殺生戒を示し鴦崛摩

羅は生生に殺生を示す、舎利弗は外道となり是くの如く門門不同なる事は本凡夫にて有りし時の初発得道の始を

成仏の後化他門に出で給う時我が得道の門を示すなり、妙楽大師云く「若し本に従て説かば亦是れ昔殺等の悪の

中に於て能く出離するが故なり是の故に迹中に亦殺を以て利他の法門と為す」等云云、今八幡大菩薩は本地は月

支の不妄語の法華経を迹に日本国にして正直の二字となして賢人の頂きにやどらんと云云、若し爾らば此の大菩

薩は宝殿をやきて天にのぼり給うとも法華経の行者日本国に有るならば其の所に栖み給うべし。

 法華経の第五に云く諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護す、経文の如くんば南無妙法蓮華経と申す人を

ば大梵天帝釈日月四天等昼夜に守護すべしと見えたり、又第六の巻に云く「或は己身を説き或は他身を説き或は

己身を示し或は他身を示し或は己事を示し或は他事を示す」文観音尚三十三身を現じ妙音又三十四身を現じ給ふ

教主釈尊何ぞ八幡大菩薩と現じ給はざらんや天台云く「即是れ形を十界に垂れて種種の像を作す」等云云。

天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国をば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、

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月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相な

り、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明月に勝れり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり、仏は

法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし不軽菩薩の利益此れなり、各

各我が弟子等はげませ給へはげませ給へ。

=弘安三年[太歳庚辰]十二月 日 日蓮花押