二乗作仏事

二乗作仏事

爾前得道の旨たる文、経に云く見諸菩薩等云云、又云く始見我身等、此等の文の如きは菩薩初地初住に叶う事

有ると見えたるなり、故に見諸菩薩の文の下には而我等不預斯事と又始見の文の下には除先修習等云云、此れは

爾前に二乗作仏無しと見たる文なり。

問う顕露定教には二乗作仏を許すや顕露不定教には之を許すか秘密には之を許すか爾前の円には二乗作仏を許

すや別教には之を許すか、答う所詮は重重の問答有りと雖も皆之を許さざるなり、所詮は二乗界の作仏を許さず

んば菩薩界の作仏も許さざるか衆生無辺誓願度の願の闕くるが故なり、釈は菩薩の得道と見たる経文を消する許

りなり、所詮華方般若の円の菩薩も初住に登らず又凡夫二乗は勿論なり化一切衆生皆令入仏道の文の下にて此の

事は意得可きなり。

問う円の菩薩に向つては二乗作仏を説くか、答う説かざるなり未會向人説如此事の釈に明かなり。

問う華厳経の三無差別の文は十界互具の正証なりや、答う次下の経に云く如来智慧の大薬王樹は唯二所を除き

て生長することを得ず

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所謂声聞と縁覚となり等云云二乗作仏を許さずと云う事分明なり、若し爾らば本文は十界互具と見えたれども実

には二乗作仏無ければ十界互具を許さざるか、其の上爾前の経は法華経を以て定む可し既に除先修習等云云と云

う華厳は二乗作仏無しと云う事分明なり方等般若も又以て此くの如し。

惣じて爾前の円に意得可き様二有り、一には阿難結集の已前に仏は一音に必ず別円二教の義を含ませ一一の音

に必ず四教三教を含ませ給えるなり、故に純円の円は爾前経には無きなり故に円と云えども今の法華に対すれば

別に摂すと云うなり、籤の十に又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼ねて円門を用いて別に摂すと釈

するなり此の意にて爾前に得道無しと云うなり、二には阿難結集の時多羅葉に注す一段は純別一段は純円に書け

るなり方等般若も此くの如し、此の時は爾前の純円に書ける処は粗法華に似たり、住中多明円融之相等と釈する

は此の意なり。

天台智者大師は此の道理を得給いし故に他師の華厳など惣じて爾前の経を心得しにはたがい給えるなり、此の

二の法門をば如何として天台大師は心得給いしぞとさぐれば法華経の信解品等を以て一一の文字別円の菩薩及び

四教三教なりけりとは心得給いしなり、又此の智恵を得るの後にて彼等の経に向つて見る時は一向に別一向に円

等と見えたる処あり、阿難結集の後のしはざなりけりと見給えるなり、天台一宗の学者の中に此の道理を得ざる

は爾前の円と法華の円と始終同の義を思う故に一処のみの円教の経を見て一巻二巻等に純円の義を存ずる故に彼

の経等に於て往生成仏の義理を許す人人是れ多きなり、華厳方等般若観経等の本文に於て阿難円教の巻を書くの

日に即身成仏云云即得往生等とあるを見て一生乃至順次生に往生成仏を遂げんと思いたり、阿難結集已前の仏口

より出す所の説教にて意を案ずれば即身成仏即得往生の裏に歴劫修行永不往生の心含めり、句の三に云く摂論を

引いて云く了義経依文判義等と云う意なり、爾前の経を文の如く判ぜば仏意に乖く可しと云う事は是なり、

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記の三に云く法華已前は不了義なる故と云えり此の心を釈せるなり、籤の十に云く「唯此の法華のみ前教の意を

説き今経の意を顕す」と釈の意は是なり。

抑他師と天台との意の殊なる様は如何と云うに他師は一一の経経に向つて彼の経経の意を得たりと謂へり、天

台大師は法華経に仏四十余年の経経を説き給へる意をもつて諸経を釈する故に阿難尊者の書きし所の諸経の本文

にたがひたる様なれども仏意に相叶いたるなり、且らく観経の疏の如き経説には見えざれども一字に於て四教を

釈す、本文は一処は別教一処は円教一処は通教に似たり、釈の四教に亘るは法華の意を以て仏意を知りたもう故

なり、阿難尊者の結集する経にては一処は純別一処は純円に書き別円を一字に含する義をば法華にて書きけり、

法華にして爾前の経の意を知らしむるなり、若し爾らば一代聖教は反覆すと雖も法華経無くんば一字も諸経の意

を知るべからざるなり、又法華経を読誦する行者も此の意を知らずんば法華経を読むにては有る可からず、爾前

の経は深経なればと云つて浅経の意をば顕さず浅経なればと云つて又深義を含まざるにも非ず、法華経の意は一

一の文字は皆爾前の意を顕し法華経の意をも顕す故に一字を読めば一切経を読むなり一字を読まざるは一切経を

読まざるなり、若し爾らば法華経無き国には諸経有りと雖も得道は難かる可し、滅後に一切経を読む可き様は華

厳経にも必ず法華経を列ねて彼の経の意を顕し観経にも必ず法華経を列ねて其の意を顕すべし諸経も又以て此く

の如し、而るに月支の末の論師及び震旦の人師此の意を弁えず一経を講して各我得たりと謂い又超過諸経の謂い

を成せるは會て一経の意を得ざるのみに非ず謗法の罪に堕するか。

問う天竺の論師震旦の人師の中に天台の如く阿難結集已前の仏口の諸経を此くの如く意得たる論師人師之有る

か、答う無著菩薩の摂論には四意趣を以て諸経を釈し、竜樹菩薩の大論には四悉檀を以て一代を得たり、此れ等

は粗此の意を釈すとは見えたれども天台の如く分明には見えず、天親菩薩の法華論も又以て此くの如し、震旦国

に於ては天台以前の五百年の間には一向に此の義無し、

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玄の三に云く「天竺の大論尚其の類に非ず」云云、籤の三に云く「一家の章疏は理に附し教に憑り凡そ立つる所

の義他人の其の所弘に随い偏に己が典を讃するに同じからず、若し法華を弘むるに偏に讃せば尚失なり況や復余

をや」文、何となれば既に開権顕実と云う何ぞ一向に権を毀る可きや、華厳経の心仏及衆生是三無差別の文は華

厳の人師此の文に於て一心覚不覚の三義を立つるは、源と起信論の名目を借りて此の文を釈するなり、南岳大師

は妙法の二字を釈するに此の文を借りて三法妙の義を存せり、天台智者大師は之を依用す此に於て天台宗の人は

華厳法華同等の義を存するか、又澄観心仏及衆生の文に於て一心覚不覚の義を存するのみに非ず性悪の義を存し

て云く、澄観の釈に「彼の宗には此れを謂つて実と為す此の宗の立義理通ぜざる無し」等云云、此等の法門許す

可きや否や、答えて云く弘の一に云く「若し今家の諸の円文の意無くんば彼の経の偈の旨理実に消し難し」同じ

く五に云く「今文を解せずんば如何ぞ心造一切三無差別を消解せん」文、記の七に云く忽ち都て未だ性悪の名を

聞かずと云えり、此等の文の如くんば天台の意を得ずんば彼の経の偈の意知り難きか、又震旦の人師の中には天

台の外には性悪の名目あらざりけるか、又法華経に非ずんば一念三千の法門談ずべからざるか、天台已後の華厳

の末師並びに真言宗の人性悪を以て自宗の依経の詮と為すは天竺より伝わりたりけるか祖師より伝わるか、又天

台の名目を偸んで自宗の内証と為すと云へるか、能く能く之を験す可し。

 問う性悪の名目は天台一家に限る可し諸宗には之無し、若し性悪を立てずんば九界の因果を如何が仏界の上に

現ぜん、答う義例に云く性悪若断等云云、問う円頓止観の証拠と一念三千の証拠に華厳経の心仏及衆生是三無差

別の文を引くは彼の経に円頓止観及び一念三千を説くというか、答えて云く天台宗の人の中には爾前の円と法華

の円と同の義を存す、問う六十巻の中に前三教の文を引いて円の義を釈せるは文を借ると心得、爾前の円の文を

引いて

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法華の円の義を釈するをば借らずと存ぜんや、若し爾らば三種の止観の証文に爾前の諸経を引く中に円頓止観の

証拠に華厳の菩薩於生死等の文を引けるをば、妙楽釈して云く「還つて教味を借て以て妙円を顕す」とは此の文

は諸経の円の文を借ると釈するに非ずや、若し爾らば心仏及衆生の文を一念三千の証拠に引く事は之を借れるに

て有るべし、答う当世の天台宗は華厳宗の見を出でざる事を云うか、華厳宗の意は法華と華厳とに於て同勝の二

義を存ず、同は法華華厳の所詮の法門之同じとす、勝には二義あり、古の華厳宗は教主と対菩薩衆等の勝の義を

談ず、近代の華厳宗は華厳と法華とに於て同勝の二義有りと云云、其の勝に於て又二義あり、迹門は華厳と同勝

の二義あり華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同なり彼の円も判此の円も判の故なり、籤の二に云く「故

に須らく二妙を以て三法を妙ならしむべし故に諸味の中に円融有りと雖も全く二妙無し」私志記に云く「昔の八

の中の円は今の相待の円と同じ」と云へり是は同なり記の四に云く「法界を以て之を論ずれば華厳に非ざる無し

仏慧を以て之を論ずれば法華に非ざる無し」云云、又云く「応に知るべし華厳の尽未来際は即ち此の経の常在霊

山なり」云云、此等の釈は爾前の円と法華の相待妙とを同ずる釈なり、迹門の絶待開会は永く爾前の円と異なり

、籤の十に云く「此の法華経は開権顕実開迹顕本の此の両意は永く余経に異なり」と云えり、記の四に云く「若

し仏慧を以て法華と為さば即」等と云云、此の釈は仏慧を明すは爾前法華に亘り開会は唯法華に限ると見えたり

是は勝なり、爾前の無得道なる事は分明なり其の故は二妙を以て一法に妙ならしむるなり、既に爾前の円には絶

待の一妙を闕く衆生も妙の仏と成る可からざる故に籤の三に云く妙変為の釈是なり、華厳の円変じて別と成る

と云う意なり。

 本門は相待絶待の二妙倶に爾前に分無し又迹門にも之無し、爾前迹門は異なれども二乗は見思を断じ菩薩は無

明を断ずと申すことは一往之を許して再往は之を許さず、本門寿量品の意は爾前迹門に於て

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一向に三乗倶に三惑を断ぜずと意得可きなり、此の道理を弁えざるの間天台の学者は爾前法華の一往同の釈を見

て永異の釈を忘れ結句名は天台宗にて其の義分は華厳宗に堕ちたり、華厳宗に堕ちるが故に方等般若の円に堕ち

ぬ、結句は善導等の釈の見を出でず、結句後には謗法の法然に同じて師子身中の虫の自ら師子を食うが如し文、

[仁王経の下に]「大王我が滅度の後未来世の中に四部の弟子諸の小国の王太子王子乃ち是れ三宝を住持し護れ

る者転た更に三宝を滅破すること師子身中の虫の自ら師子を食うが如し、外道には非ず多く我が仏法を壊りて大

罪過を得ん」云云、籤の十に云く「始め住前より登住に至るこのかた全く是れ円の義第二住より次の第七住に至

る文相次第して又別の義に似たり、七住の中に於て又一多相即自在を弁ず、次の行向地又是れ次第差別の義なり

、又一一の位に皆普賢行布の二門有り故に知んぬ兼て円門を用いて別に摂することを」

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