和漢王代記

和漢王代記

    伏羲           小昊

三皇  神農           ゎメ@ 三墳五典

 黄帝       五帝  帝ル

 尭王  男九人女一人

夏                舜王

殷    第一文王

     第二武王   周公旦

     第三成王

    第四昭王の御宇二十四年甲寅に当る[五色の光気南北に亘る大史蘇由之を占う 四月八日は仏の御誕生

なり]

    中間七十九年なり

    第五穆王の五十二年壬申に当る [ 二月十五日御入滅 十二の虹南北に亘る大史扈多之を占う]

    三十七有り或は八

        一儒教 五常  文武等なり

   三教   二道教 仙教[孔丘][顔回]

        三釈教 一代五十余年[老子]

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   始皇        儒教

秦  次生皇  三教   道教

       釈教

        前漢 十四代

漢       又周の第四の昭王二十四年より後漢の第二光武に至る一千一十五年に当るなり[仏の滅後一千

一十五年に当るなり]

        後漢光武皇帝永平十年丁卯

        一千一十五年に当て摩騰迦竺法蘭の二人の聖人四十二生経[小乗経]十住断結経[大乗経]を

以て白馬に負せて漢土に渡す

魏 雙観経渡る

   西晋   正法華経十巻渡る 法護三蔵亘す

 妙法華経渡る   七巻或は八巻 羅什三蔵亘す

晋       三論宗渡る  

   後秦   阿弥陀経亘る        華厳経亘る

宋      観経亘る

       大涅槃経亘る

        三時四時五時 五時[一] 一音[二] 半満[三] 三教[四] 四宗[五] 五宗[六]

 六宗[七]

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        南三北七[江南なり]の十師[江北なり]

        曇鸞法師浄土宗を立つ

        禅宗渡る 達摩大師なり

        摂論亘る 南北

梁       地論亘る 南北

        別時意趣の法門出来す

   末

      南岳大師亦恵思禅師と云う[観音の化身なり道宣の感通伝に出ず]

   始      六根浄の人日本の浄宮太子是なり

          天台大師の御師なり

陳    日本に伝教大師と生る

          亦智者と云い

   天台大師   亦智竄ニ云い

          亦徳安と云い

隋    此の御時南三北七並びに前五百余年の人師三蔵所立の十師の義を破し始めて五時八教三観六即十境十

乗を立て小釈迦と号す、進では天竺の論師にも超え退ては震旦の人師に勝るなり、玄義の三に云く故に章安大師

の云く「天竺の大論尚其の類に非ず震旦の人師何ぞ労しく語るに及ばん

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此れ誇耀に非ず法相の然るのみ」又智証大師[授決集也]云く「天台世に出で仏意快く暢ぶ豈万教再び世間に演

るに非ずや」

     笈多と崛多の両三蔵添品法華経を渡す

     道綽善導此の世に在り

     華厳宗

     後漢の世自り唐の神武皇帝の開元十八年庚申に至る六百六十四載に渡す所の経律論五千四十八巻

唐    訳者百七十六人なり妙楽は是の世の人なり

     法相宗は玄奘三蔵西天自り之を渡す

     真言宗は善無畏三蔵金剛智三蔵之を渡す

     法相宗 真言宗の二宗は天台之を見ず妙楽大師之を見て天台宗に対当して勝劣を論ず又日本国の伝教

慈覚智証之を諍う

 天台の玄義の十に南北の十師を破して云く「但聖意幽隠にして教法弥難し、前代の諸師或は粗名匠に承け或は

思い袖衿より出ず阡陌縦横なりと雖も孰か是なるを知ること莫し、然るに義雙立せず理両存すること無し若し深

く所以有り復修多羅と合する者は録して而て之を用ゆ文無く義無きは信受すべからず」籤の十に云く「一として

全く是なること無きを以ての故に一一に難破す」玄の三に云く「軽慢止まざれば舌口中に爛る」又云く「法華は

衆経を総括す」籤の三に云く「已法華已前華阿方般等の一切経今無量義経なり当涅槃経等の法華已後の一切経な

りの妙茲に於て固く迷えば舌爛れて止まざるも猶華報と為す謗法の罪苦長劫に流る」

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南三北七並びに華厳宗の法蔵澄観真言宗の弘法等は法華経よりも華厳経を勝るとするなり、又三論の嘉祥は法華

経よりも般若経を勝るとす、又法相の慈恩等は法華経よりも深密経を勝るとす、又真言宗の善無畏三蔵金剛智三

蔵不空三蔵等は法華経よりも大日経を勝るとするなり、此等の宗宗の相違如何相違如何。

 授決集に云く[円珍智証大師]

  文は大経に出でたり人の之を会する無し、光盲の前に在れども他に於ては無用なり、仏分明に五味の喩を説

き五時の教に喩えたもう云云、訳ありてより来講者路に溢るれども未だ會て五味を談ずるの義を解せず己が胸臆

に任せて趣爾囈語す何ぞ象に触る衆盲の者に異らんや、天台世に出で仏意快く暢ぶ豈に万教再び世間に演るに非

ずや、南北の講匠経論を釈する者各教時を立つれども百にして一も是なること無し只教部の前後頓漸権実大小の

妙寛狭進否に迷うに縁りてなり大教の網を張りて法界の海を亘し人天の魚を済て涅槃の岸に置く斯くの如くする

すら其の遺漏を恐る況や諸師の輩羅の一目なり何れの時か其の鳥を得ん、若し万蔵を暗ずと雖も此の理趣を会せ

ざれば年を終るまで他の宝を計りて自ら半銭の分無く虚しく諍論を益し長水に水を添うのみ。

 授決集に法相宗の慈恩大師を破して云く、五性宗に云く未熟[法華論の前に未熟の文也]と云うは、応に不熟

と云うべし、○今謂く汎く法華を講ずるには須く此の義を以て正と為すべし若し爾らずんば経を破し論を破し罪

五逆に過ぎたり基公を除きて外は人の彼の不熟の義を伝うる無し、○若し強て之を執せば公私十方の信施消し難

し消し難し若し消せずんば何ぞ三途を免れん爾を供養せん者は三悪道に堕せん謗法の罪報は法華般若の諸大乗経

に一切明かに説けり智者披く可し、○爾これを信受す可し無間を招く莫れ。

 授決集[円珍真言の諸宗を徴して云う]

 真言禅門華厳三論唯識律業成倶の二論等、○若し法華涅槃等の経に望むれば是れ摂引門なり文、

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又云く大底他は多く三教在り円の旨至て少きのみ弘法大師の二教論に喩して日く今斯の経文に依るに仏五味を以

て五蔵に配当す、総持を醍醐と称し四味を四蔵に譬う震旦の人師等諍つて醍醐を盗み各自宗に名く。

        一爼多覧[乳]  [アナン]   経

        二毘那耶[酪]  [ウハリ]   律   小乗

六波羅経五蔵  三阿毘達磨[生] [カセンエン] 論

        四般若[熟] はら蜜蔵 [文珠]  大乗

        五惣持[醍醐]だらに蔵 [金剛蔵]

一爼多覧[乳]

           二毘那耶[酪]

           三阿毘達磨[生]

 弘法大師此の経に依つて五蔵を立つ      華

                方

          四般若はら蜜[熟]   般

  法華

  涅槃

  五だら尼蔵[醍醐]   大日の三部経

 二教論に云く加以ず釈教東夏に漸し微自り著に至り漢明を始めと為し周文を後と為す、其の中間翻伝する所皆

是れ顕教なり

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玄宗代宗の時金智広智の日密教欝として起り盛に秘趣を談ず、新薬日に浅くして旧痾未だ除かず楞伽の如きに至

っては法仏説法の文智度性身妙色なり句Q憶に馳せ而も文を会して自宗を駆り而も義を取る惜いかな古賢醍醐を

嘗めず

日本

 神代十二代       天神 七代

            地神 五代

 人代百王

 第一神武天皇    之を略す

 第十四仲哀     八幡大神の父なり

 第十五神功皇后   八幡大菩薩の母なり

 第十六応神天皇   今の八幡大菩薩なり  略

 第三十欽明天皇   歴記に云く欽明天皇の治天下十三年己申歳冬十月一日百済国聖明王自り仏像経等始めて

日本国に送る

 第三十一敏達天皇 厩戸王子 四天王寺を造る

 第三十二用明    聖徳太子は用明の御子也

             上宮太子守屋を切り四十九院を立つ南岳大師の後身なり救世観音の垂迹なり

 第三十三崇峻 

 第三十四推胡    女帝

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 第三十五舒明

 第三十六皇極    女帝

 第三十七孝徳

 第三十八斉明    女帝

 第三十九天智

 第四十天武

 第四十一持統

 第四十二文武

 第四十三元明

 第四十四元正

           倶舎宗

           律宗

       六宗 成実宗

法相宗

           三論宗

      華厳宗   亦禅宗有り並びに一切経有り

第四十五聖武   聖武天皇東大寺の大仏を造る

         欽明自り聖武に至るまで二百四十余年なり、震旦国自り鑒真和尚渡り律宗を亘す、次に天台

宗の玄文止等を渡す、

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又東大寺の小乗戒壇を立つ

 第四十六孝謙 聖武の女

第四十七淡路 廃帝

第四十八称徳 孝謙又即位也

第四十九光仁 桓武の父なり

欽明自り二百六十余年に及ぶ

第五十桓武延暦三年に奈良の都自り長岡の京に遷り、延暦十三年長岡の京自り平の京に遷る、延暦二十五年御

崩去延暦四年叡山を立つ[伝教大師最澄なり]延暦二十年叡山八講を始め南京の十人を請ず、延暦二十一年の正

月十九日高雄に於て南京の十四人と最澄と宗論あり、同二十九日六宗の十四人謝表を桓武聖王に奉る、延暦二十

三年入宋同二十四年御帰朝、此の時始めて伝教大師天台宗を立て四十余年の文を以て六宗を破り始めて法華の実

義之を顕し、欽明自り二百余年の邪義之を改む、又六宗の碩徳たる勤操徳円長耀等の十四人桓武皇帝に謝表を奉

りて邪見を翻す。弘法大師[空海]は延暦二十三年御入宋大同元年御帰朝、伝教大師は山階寺の行表僧正の御弟

子弘法大師は石淵の勤操僧正の御弟子なり。

第五十一平城 

第五十二嵯峨 弘仁十三年六月四日伝教大師御入滅同十一日[慈覚大師]戒壇を立つ。

第五十三淳和

P0611

 秀句に云く「法華経を賛すと雖も還って法華の心を死す」文。

 選択集に云く[法然造]捨閉閣抛、善導礼讃に云く「十即十生百即百生」又云く「百の時に希に一二を得千の

時に希に三五を得」又云く「千中無一」道綽の安楽集に云く[大集月蔵経を引く]「我が末法の時の中の億億の

衆生行を起し道に臨むも未だ一人の得る者有らず、当今末法は是五濁の悪世なり唯浄土の一門のみ有りて通入す

可きの路なり」恵心の往生要集に云く「利智精進の人は未だ難しと為さず予が如き頑魯の者豈敢てせんや」

       根本大師

 伝教大師  山家

       天台の後身なり

守護章に「正像稍過ぎ已つて末法太だ近きに有り法華一乗の機今正に是れ其の時なり」又云く「一乗の家には都

て用いざれ[小乗権大乗四十年なり]但し開し已つて助道に用いたるを除く」

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