御義口伝巻下

御義口伝巻下   日蓮所立自寿量品至開結二経

        寿量品廿七箇の大事

第一 南無妙法蓮華経如来寿量品第十六の事 文句の九に云く如来とは十方三世の諸仏二仏三仏本仏迹仏の通号

なり別しては本地三仏の別号なり、寿量とは詮量なり、十方三世二仏三仏の諸仏の功徳を詮量す故に寿量品と云

うと。

 御義口伝に云く此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊惣じては十方三世

の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の

弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、

寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し

奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは

事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作

の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有

の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。

第二 如来秘密神通之力の事

 御義口伝に云く無作三身の依文なり、此の文に於て重重の相伝之有り、神通之力とは我等衆生の作作発発と振

舞う処を神通と云うなり

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獄卒の罪人を苛責する音も皆神通之力なり、生住異滅の森羅三千の当体悉く神通之力の体なり、今日蓮等の類い

の意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、

此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり、仍つて経に云く「我等当信受仏語」と信受の二字に意

を留む可きなり。

第三 我実成仏已来無量無辺等の事

 御義口伝に云く我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界の衆

生なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり成とは能成所成

なり成は開く義なり法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり已とは過去なり来と

は未来なり已来の言の中に現在は有るなり、我実と成けたる仏にして已も来も無量なり無辺なり、百界千如一念

三千と説かれたり、百千の二字は百は百界千は千如なり此れ即ち事の一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮

華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり、惣じては迹化の菩薩此の品に手をつけいろうべきに非ざる者なり、彼は

迹表本裏此れは本面迹裏然りと雖も而も当品は末法の要法に非ざるか其の故は此の品は在世の脱益なり題目の五

字計り当今の下種なり、然れば在世は脱益滅後は下種なり仍て下種を以て末法の詮と為す云云。

第四 如来如実知見三界之相無有生死の事

 御義口伝に云く如来とは三界の衆生なり此の衆生を寿量品の眼開けてみれば十界本有と実の如く知見せり、三

界之相とは生老病死なり本有の生死とみれば無有生死なり生死無ければ退出も無し唯生死無きに非ざるなり、

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生死を見て厭離するを迷と云い始覚と云うなりさて本有の生死と知見するを悟と云い本覚と云うなり、今日蓮等

の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時本有の生死本有の退出と開覚するなり、又云く無も有も生も死も若退も若出

も在世も滅後も悉く皆本有常住の振舞なり、無とは法界同時に妙法蓮華経の振舞より外は無きなり有とは地獄は

地獄の有の侭十界本有の妙法の全体なり、生とは妙法の生なれば随縁なり死とは寿量の死なれば法界同時に真如

なり若退の故に滅後なり若出の故に在世なり、されば無死退滅は空なり有生出在は仮なり如来如実は中道なり、

無死退滅は無作の報身なり有生出在は無作の応身なり如来如実は無作の法身なり、此の三身は我が一身なり、一

身即三身名為秘とは是なり、三身即一身名為密も此の意なり、然らば無作の三身の当体の蓮華の仏とは日蓮が弟

子檀那等なり南無妙法蓮華経の宝号を持ち奉る故なり云云。

第五 若仏久住於世薄徳之人不種善根貧窮下賎貪著五欲入於憶想妄見網中の事

 御義口伝に云く此の経文は仏世に久住したまわば薄徳の人は善根を殖ゆ可からず然る間妄見網中と説かれたり

、所詮此の薄徳とは在世に漏れたる衆生今滅後日本国に生れたり、所謂念仏禅真言等の謗法なり、不種善根とは

善根は題目なり不種とは未だ持たざる者なり、憶想とは捨閉閣抛第三の劣等此くの如きの憶想なり、妄とは権教

妄語の経教なり見は邪見なり法華最第一の一を第三と見るが邪見なり、網中とは謗法不信の家なり、今日蓮等の

類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者はかかる妄見の経網中の家を離れたる者なり云云。

第六 飲他毒薬薬発悶乱宛転于地の事

 御義口伝に云く他とは念仏禅真言の謗法の比丘なり、毒薬とは権教方便なり法華の良薬に非ず故に悶乱するな

り悶とはいきたゆるなり、寿量品の命なきが故に悶乱するなり宛転于地とは阿鼻地獄へ入るなり云云。

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諸子飲毒の事は釈に云く「邪師の法を信受するを名けて飲毒と為す」と、諸子とは謗法なり飲毒とは弥陀大日等

の権法なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは毒を飲まざるなり。

第七 或失本心或不失者の事

 御義口伝に云く本心を失うとは謗法なり本心とは下種なり不失とは法華経の行者なり失とは本有る物を失う事

なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは本心を失わざるなり云云。

第八 擣l和合与子令服の事

 御義口伝に云く此の経文は空仮中の三諦戒定慧の三学なり、色香美味の良薬なり擣は空諦なりlは仮諦なり和

合は中道なり与は授与なり子は法華の行者なり服すると云うは受持の義なり、是を此大良薬色香美味皆悉具足と

説かれたり、皆悉の二字万行万善諸波羅蜜を具足したる大良薬たる南無妙法蓮華経なり、色香等とは一色一香無

非中道にして草木成仏なり、されば題目の五字に一法として具足せずと云う事なし若し服する者は速除苦悩なり

、されば妙法の大良薬を服するは貪瞋癡の三毒の煩悩の病患を除くなり、法華の行者南無妙法蓮華経と唱え奉る

者は謗法の供養を受けざるは貪欲の病を除くなり、法華の行者は罵詈せらるれども忍辱を行ずるは瞋恚の病を除

くなり、法華経の行者は是人於仏道決定無有疑と成仏を知るは愚癡の煩悩を治するなり、されば大良薬は末法の

成仏の甘露なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大良薬の本主なり。

第九 毒気深入失本心故の事

 御義口伝に云く毒気深入とは権教謗法の執情深く入りたる者なり、之に依つて法華の大良薬を信受せざるなり

服せしむると雖も吐き出だすは而謂不美とてむまからずと云う者なり、

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今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは而謂不美の者に非ざるなり。

第十 是好良薬今留在此汝可取服勿憂不差の事

 御義口伝に云く是好良薬とは或は経教或は舎利なりさて末法にては南無妙法蓮華経なり、好とは三世諸仏の好

み物は題目の五字なり、今留とは末法なり此とは一閻浮提の中には日本国なり、汝とは末法の一切衆生なり取は

法華経を受持する時の儀式なり、服するとは唱え奉る事なり服するより無作の三身なり始成正覚の病患差るなり

、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る是なり。

第十一 自我得仏来の事

 御義口伝に云く一句三身の習いの文と云うなり、自とは九界なり我とは仏界なり此の十界は本有無作の三身に

して来る仏なりと云えり、自も我も得たる仏来れり十界本有の明文なり、我は法身仏は報身来は応身なり此の三

身無始無終の古仏にして自得なり、無上宝聚不求自得之を思う可し、然らば即ち顕本遠寿の説は永く諸教に絶え

たり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは自我得仏来の行者なり云云。

第十二為度衆生故方便現涅槃の事

 御義口伝に云く涅槃経は法華経より出でたりと云う経文なり、既に方便と説かれたり云云。

第十三 常住此説法の事

 御義口伝に云く常住とは法華経の行者の住処なり、此とは娑婆世界なり山谷曠野を指して此とは説き給う、説

法とは一切衆生の語言の音声が本有の自受用智の説法なり、末法に入つて説法とは南無妙法蓮華経なり今日蓮等

の類いの説法是なり。

第十四 時我及衆僧倶出霊鷲山の事

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 御義口伝に云く霊山一会儼然未散の文なり、時とは感応末法の時なり我とは釈尊及とは菩薩聖衆を衆僧と説か

れたり倶とは十界なり霊鷲山とは寂光土なり、時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり秘す可し秘す可し、

本門事の一念三千の明文なり御本尊は此の文を顕し出だし給うなり、されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁

真如の智なり倶とは一念なり出とは三千なり云云。

 又云く時とは本時娑婆世界の時なり下は十界宛然の曼陀羅を顕す文なり、其の故は時とは末法第五時の時なり

、我とは釈尊及は菩薩衆僧は二乗倶とは六道なり出とは霊山浄土に列出するなり霊山とは御本尊並びに日蓮等の

類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり云云。

第十五 衆生見劫尽○而衆見焼尽の事

 御義口伝に云く本門寿量の一念三千を頌する文なり、大火所焼時とは実義には煩悩の大火なり、我此土安穏と

は国土世間なり、衆生所遊楽とは衆生世間なり、宝樹多華菓とは五陰世間なり是れ即ち一念三千を分明に説かれ

たり、又云く上の件の文は十界なり大火とは地獄界なり天皷とは畜生なり人と天とは人天の二界なり、天と人と

常に充満するなり、雨曼陀羅華とは声聞界なり園林とは縁覚界なり菩薩界とは及の一字なり仏界とは散仏なり修

羅と餓鬼界とは憂怖諸苦悩如是悉充満の句に摂するなり、此等を是諸罪衆生と説かれたり、然りと雖も此の寿量

品の説顕われては、則皆見我身とて一念三千なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

第十六 我亦為世父の事

 御義口伝に云く我とは釈尊一切衆生の父なり主師親に於て仏に約し経に約す、仏に約すとは迹門の仏の三徳は

今此三界の文是なり、本門の仏の主師親の三徳は主の徳は我此土安穏の文なり師の徳は常説法教化の文なり

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親の徳は此の我亦為世父の文是なり、妙楽大師は寿量品の文を知らざる者は不知恩の畜生と釈し給えり経に約す

れば、諸経中王は主の徳なり能救一切衆生は師の徳なり又如大梵天王一切衆生之父の文は父の徳なり、今日蓮等

の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は一切衆生の父なり無間地獄の苦を救う故なり云云、涅槃経に云く「一切衆

生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」と云云、日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一

人の苦なるべし。

第十七 放逸著五欲堕於悪道中の事

 御義口伝に云く放逸とは謗法の名なり入阿鼻獄疑無き者なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は

此の経文を免離せり云云。

第十八 行道不行道の事

 御義口伝に云く十界の衆生の事を説くなり行道は四聖不行道は六道なり、又云く行道は修羅人天不行道は三悪

道なり、所詮末法に入つては法華の行者は行道なり謗法の者は不行道なり、道とは法華経なり、天台云く「仏道

とは別して今の経を指す」と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは行道なり唱えざるは不行道なり云云

第十九 毎自作是念の事

 御義口伝に云く毎とは三世なり自とは別しては釈尊惣じては十界なり、是念とは無作本有の南無妙法蓮華経の

一念なり、作とは此の作は有作の作に非ず無作本有の作なり云云、広く十界本有に約して云わば自とは万法己己

の当体なり、是念とは地獄の呵責の音其の外一切衆生の念念皆是れ自受用報身の智なり是を念とは云うなり、今

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る念は大慈悲の念なり云云。

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第二十 得入無上道等の事

 御義口伝に云く無上道とは寿量品の無作の三身なり此の外に成就仏身之れ無し、今日蓮等の類い南無妙法蓮華

経と唱え奉る者は成就仏身疑無きなり云云。

第廿一 自我偈の事

 御義口伝に云く自とは九界なり我とは仏身なり偈とはことわるなり本有とことわりたる偈頌なり深く之を案ず

可し、偈様とは南無妙法蓮華経なり云云。

第廿二 自我偈始終の事

 御義口伝に云く自とは始なり速成就仏身の身は終りなり始終自身なり中の文字は受用なり、仍つて自我偈は自

受用身なり法界を自身と開き法界自受用身なれば自我偈に非ずと云う事なし、自受用身とは一念三千なり、伝教

云く「一念三千即自受用身自受用身とは尊形を出でたる仏と出尊形仏とは無作の三身と云う事なり」云云、今日

蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

第廿三 久遠の事

 御義口伝に云く此の品の所詮は久遠実成なり久遠とははたらかさずつくろわずもとの侭と云う義なり、無作の

三身なれば初めて成ぜず是れ働かざるなり、卅二相八十種好を具足せず是れ繕わざるなり本有常住の仏なれば本

の侭なり是を久遠と云うなり、久遠とは南無妙法蓮華経なり実成無作と開けたるなり云云。

第廿四 此の寿量品の所化の国土と修行との事

 御義口伝に云く当品流布の国土とは日本国なり惣じては南閻浮提なり、所化とは日本国の一切衆生なり

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修行とは無疑曰信の信心の事なり、授与の人とは本化地涌の菩薩なり云云。

第廿五 建立御本尊等の事

 御義口伝に云く此の本尊の依文とは如来秘密神通之力の文なり、戒定慧の三学は寿量品の事の三大秘法是れな

り、日蓮慥に霊山に於て面授口決せしなり、本尊とは法華経の行者の一身の当体なり云云。

第廿六 寿量品の対告衆の事

 御義口伝に云く経文は弥勒菩薩なり、然りと雖も滅後を本とする故に日本国の一切衆生なり、中にも日蓮等の

類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり、弥勒とは末法法華の行者の事なり、弥勒をば慈氏と云う法華の行者を

指すなり、章安大師云く「為彼除悪即是彼親」と是れ豈弥勒菩薩に非ずや云云。

第廿七 無作三身の事 種子尊形三摩耶

 御義口伝に云く尊形とは十界本有の形像なり三摩耶とは十界所持の物なり種子とは信の一字なり、所謂南無妙

法蓮華経改めざるを云うなり三摩耶とは合掌なり秘す可し秘す可し云云。

   分別功徳品三箇の大事

第一其有衆生聞仏寿命長遠如是乃至能生一念信解所得功徳無有限量の事

 御義口伝に云く一念信解の信の一字は一切智慧を受得する所の因種なり、信の一字は名字即の位なり仍つて信

の一字は最後品の無明を切る利剣なり、信の一字は寿量品の理顕本を信ずるなり解とは事顕本を解するなり

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此の事理の顕本を一念に信解するなり、一念とは無作本有の一念なり、此くの如く信解する人の功徳は限量有る

事有る可からざるなり、信の処に解あり解の処に信あり然りと雖も信を以て成仏を決定するなり、今日蓮等の類

い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

第二是則能信受如是諸人等頂受此経典の事

 御義口伝に云く法華経を頭に頂くと云う明文なり、如是諸人等の文は広く一切衆生に亘るなり、然らば三世十

方の諸仏は妙法蓮華経を頂き受けて成仏し給う、仍つて上の寿量品の題目を妙法蓮華経と題して次に如来と題し

たり秘す可し云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは此の故なり云云。

第三仏子住此地則是仏受用の事

 御義口伝に云く此の文を自受用の明文と云えり、此地とは無作の三身の依地なり仏子とは法華の行者なり仏子

は菩薩なり法華の行者は菩薩なり住とは信解の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は妙法の地

に住するなり仏の受用の身なり深く之を案ず可し云云。

    随喜品二箇の大事

第一妙法蓮華経随喜功徳の事

 御義口伝に云く随とは事理に随順するを云うなり喜とは自他共に喜ぶ事なり、事とは五百麈点の事顕本に随順

するなり理とは理顕本に随うなり所詮寿量品の内証に随順するを随とは云うなり、然るに自他共に智慧と慈悲と

有るを喜とは云うなり所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る時必ず無作三身の仏に成るを喜とは云うな

り、然る間随とは法に約し喜とは人に約するなり、人とは五百塵点の古仏たる釈尊法とは寿量品の南無妙法蓮華

経なり、

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是に随い喜ぶを随喜とは云うなり惣じて随とは信の異名なり云云、唯信心の事を随と云うなりされば二巻には随

順此経非己智分と説かれたり云云。

第二口気無j穢優鉢華之香常從其口出の事

 御義口伝に云く口気とは題目なり、無j穢とは弥陀等の権教方便無得道の教を交えざるなり、優鉢華之香とは

法華経なり、末法の今は題目なり、方便品に如優曇鉢華の事を一念三千と云えり之を案ず可し、常とは三世常住

なり其口とは法華の行者の口なり出とは南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは常従

其口出なり云云。

 法師功徳品四箇の大事

第一法師功徳の事

 御義口伝に云く法師とは五種法師なり功徳とは六根清浄の果報なり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱

え奉る者は六根清浄なり、されば妙法蓮華経の法の師と成つて大なる徳有るなり、功は幸と云う事なり又は悪を

滅するを功と云い善を生ずるを徳と云うなり、功徳とは即身成仏なり又六根清浄なり、法華経の説文の如く修行

するを六根清浄と得意可きなり云云。

第二六根清浄の事

 御義口伝に云く眼の功徳とは法華不信の者は無間に堕在し信ずる者は成仏なりと見るを以て眼の功徳とするな

り、法華経を持ち奉る処に眼の八百の功徳を得るなり、眼とは法華経なり此の大乗経典は諸仏の眼目と、今日蓮

等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は眼の功徳を得るなり云云、耳鼻舌身意又又此くの如きなり云云。

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第三又如浄明鏡の事

 御義口伝に云く法華経に鏡の譬を説く事此の明文なり、六根清浄の人は瑠璃明鏡の如く三千世界を見ると云う

経文なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は明鏡に万像を浮ぶるが如く知見するなり、此の明鏡と

は法華経なり別しては宝塔品なり、又は我が一心の明鏡なり、所詮瑠璃と明鏡との二の譬を説かれたり身根清浄

の下なり、色心不二なれば何れも清浄の徳分なり浄とは不浄に対して浄と云うなり明とは無明に対して明と説く

なり、鏡とは一心なり浄は仮諦明は空諦鏡は中道なり悉見諸色像の悉は十界なり、所詮浄明鏡とは色心の二法、

妙法蓮華経の体なり浄明鏡とは信心なり云云、又三千大千世界を知見するとは三世間の事なり。

第四是人持此経安住希有地の事

 御義口伝に云く是人とは日本国の一切衆生の中には法華の行者なり希有地とは寿量品の事理の顕本を指すなり

、是を又分別品には「仏説希有法」と説かれたり別しては南無妙法蓮華経なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経

と唱え奉る者の希有の地とは末法弘通の明鏡たる本尊なり、惣じては此の品の六根清浄の功徳は十信相似即なり

対告衆の常精進菩薩は十信の第三信と云えり、然りと雖も末法に於いては法華経の行者を指して常精進菩薩と心

得可きなり此の経の持者は是則精進の故なり。

  常不軽品三十箇の大事

第一常不軽の事

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 御義口伝に云く常の字は三世の不軽の事なり、不軽とは一切衆生の内証所具の三因仏性を指すなり仏性とは法

性なり法性とは妙法蓮華経なり云云。

第二得大勢菩薩の事

 御義口伝に云く得とは応身なり大とは法身なり勢とは報身なり、又得とは仮諦なり大とは中道なり勢とは空諦

なり円融の三諦三身なり。

第三威音王の事

 御義口伝に云く威とは色法なり音とは心法なり王とは色心不二を王と云うなり、末法に入つて南無妙法蓮華経

と唱え奉る是れ併ら威音王なり云云、其の故は音とは一切権教の題目等なり威とは首題の五字なり王とは法華の

行者なり云云、法華の題目は獅子の吼ゆるが如く余経は余獣の音の如くなり諸経中王の故に王と云うなり、今日

蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る威音王仏なり云云。

第四凡有所見の事

 御義口伝に云く今日本国の一切衆生を法華経の題目の機なりと知見するなり云云。

第五我深敬汝等不敢軽慢所以者何汝等皆行菩薩道当得作仏の事

 御義口伝に云く此の廿四字と妙法の五字は替われども其の意は之れ同じ廿四字は略法華経なり。

第六但行礼拝の事

 御義口伝に云く礼拝とは合掌なり合掌とは法華経なり此れ即ち一念三千なり、故に不専読誦経典但行礼拝と云

うなり。

第七乃至遠見の事

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 御義口伝に云く上の凡有所見の見は内証所具の仏性を見るなり、此れは理なり遠見の見は四衆と云う間事なり

仍つて上は心法を見る今は色法を見る色法は本門の開悟四一開会なり、心法を見るは迹門の意又四一開会なり、

遠の一字は寿量品の久遠なり故に故往礼拝といえり云云。

第八心不浄者の事

 御義口伝に云く謗法の者は色心二法共に不浄なり、先ず心法不浄の文は今此の心不浄者なり、又身不浄の文は

譬喩品に「身常臭処垢穢不浄」と云えり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は色心共に清浄なり、身

浄は法師功徳品に云く「若持法華経其身甚清浄」の文なり、心浄とは提婆品に云く「浄心信敬」と云云、浄とは

法華経の信心なり不浄とは謗法なり云云。

第九言是無智比丘の事

 御義口伝に云く此の文は法華経の明文なり、上慢の四衆不軽菩薩を無智の比丘と罵詈せり、凡有所見の菩薩を

無智と云う事は第六天の魔王の所為なり、末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無智の比丘

と謗ぜられん事経文の明鏡なり、無智を以て法華経の機と定めたり。

第十聞其所説皆信伏随従の事

 御義口伝に云く聞とは名字即なり所詮は而強毒之の題目なり、皆とは上慢の四衆等なり信とは無疑曰信なり伏

とは法華に帰伏するなり随とは心を法華経に移すなり従とは身を此の経に移すなり、所詮今日蓮等の類い南無妙

法蓮華経と唱え奉る行者は末法の不軽菩薩なり。

第十一於四衆中説法心無所畏の事

 御義口伝に云く四衆とは日本国の中の一切衆生なり説法とは南無妙法蓮華経なり、心無所畏とは今日蓮等の類

い南無妙法蓮華経と呼ばわる所の折伏なり云云。

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第十二常不軽菩薩豈異人乎則我身是の事

 御義口伝に云く過去の不軽菩薩は今日の釈尊なり、釈尊は寿量品の教主なり寿量品の教主とは我等法華経の行

者なり、さては我等が事なり今日蓮等の類いは不軽なり云云。

第十三常不値仏不聞法不見僧の事

 御義口伝に云く此の文は不軽菩薩を軽賎するが故に三宝を拝見せざる事二百億劫地獄に堕ちて大苦悩を受くと

云えり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者を軽賎せん事は彼に過ぎたり、彼は千劫此れ

は至無数劫なり末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり、法とは題目なり僧とは我等行者なり、仏とも云われ又凡夫僧

とも云わるるなり、深覚円理名之為仏の故なり円理とは法華経なり云云。

第十四畢是罪已復遇常不軽菩薩の事

 御義口伝に云く若し法華誹謗の失を改めて信伏随従する共浅く有りては無間に堕つ可きなり、先謗強きが故に

依るなり千劫無間地獄に堕ちて後に出づる期有つて又日蓮に値う可きなり復遇日蓮なるべし。

第十五於如来滅後等の事

 御義口伝に云く不軽菩薩の修行は此の如くなり仏の滅後に五種に妙法蓮華経を修行すべしと見えたり、正しく

是故より下廿五字は末法日蓮等の類いの事なるべし、既に是の故にとおさえて於如来滅後と説かれたり流通の品

なる故なり、惣じては流通とは未来当今の為なり、法華経一部は一往は在世の為なり再往は末法当今の為なり、

其の故は妙法蓮華経の五字は三世の諸仏共に許して未来滅後の者の為なり、品品の法門は題目の用なり体の妙法

末法の用たらば何ぞ用の品品別ならむや、此の法門秘す可し秘す可し、

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天台の「綱維を提ぐるに目として動かざること無きが如し」等と釈する此の意なり、妙楽大師は「略して経題を

挙ぐるに玄に一部を収む」と、此等を心得ざる者は末法の弘通に足らざる者なり。

第十六此品の時の不軽菩薩の体の事

 御義口伝に云く不軽菩薩とは十界の衆生なり、三世常住の礼拝の行を立つるなり吐く所の語言は妙法の音声な

り、獄卒が杖を取つて罪人を呵責するが体の礼拝なり敢えて軽慢せざるなり、罪人我を責め成すと思えば不軽菩

薩を呵責するなり折伏の行是なり。

第十七不軽菩薩の礼拝住処の事之に付て十四箇所の礼拝住処の事之有り御義口伝に云く礼拝の住処とは多宝塔中

の礼拝なり、其の故は塔婆とは五大の所成なり五大とは地水火風空なり此れを多宝の塔とも云うなり、法界広し

と雖も此の五大には過ぎざるなり故に塔中の礼拝と相伝するなり秘す可し秘す可し云云。

第十八開示悟入礼拝住処の事

 御義口伝に云く開示悟入の四仏知見を住処とするなり、然る間方便品の此の文を礼拝の住処と云うなり此れは

内に不軽の解を懐くと釈せり、解とは正因仏性を具足すと釈するなり開仏知見とは此の仏性を開かしめんとて仏

は出現し給うなり。

第十九毎自作是念の文礼拝住処の事

 御義口伝に云く毎の字は三世なり念とは一切衆生の仏性を念じ給いしなり、仍つて速成就仏身と皆当作仏とは

同じき事なり仍つて此の一文を相伝せり、天台大師は「開三顕一○開近顕遠」と釈せり秘す可し秘す可し云云。

P0768

第二十我本行菩薩道の文礼拝住処の事 

 御義口伝に云く我とは本因妙の時を指すなり、本行菩薩道の文は不軽菩薩なり此れを礼拝の住処と指すなり。

第廿一生老病死礼拝住処の事

 御義口伝に云く一切衆生生老病死を厭離せず無常遷滅の当体に迷うに依つて後世菩提を覚知せざるなり、此を

示す時煩悩即菩提生死即涅槃と教うる当体を礼拝と云うなり、左右の両の手を開く時は煩悩生死上慢不軽各別な

り、礼拝する時両の手を合するは煩悩即菩提生死即涅槃なり、上慢の四衆の所具の仏性も不軽所具の仏性も一種

の妙法なりと礼拝するなり云云。

第廿二法性礼拝住処の事

 御義口伝に云く不軽菩薩法性真如の三因仏性南無妙法蓮華経の廿四字に足立て無明の上慢の四衆を拝するは

薀在衆生の仏性を礼拝するなり云云。

第廿三無明礼拝住処の事

 御義口伝に云く自他の隔意を立て彼は上慢の四衆我は不軽と云う、不軽は善人上慢は悪人と善悪を立つるは無

明なり、此に立つて礼拝の行を成す時善悪不二邪正一如の南無妙法蓮華経と礼拝するなり云云。

第廿四蓮華の二字礼拝住処の事

 御義口伝に云く蓮華とは因果の二法なり、悪因あれば悪果を感じ善因あれば善果を感ず内証には汝等三因仏性

の善因あり、事に顕す時は善果と成つて皆当作仏す可しと礼拝し給うなり云云。

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第廿五実報土礼拝住処の事

 御義口伝に云く実報土は竪の時は菩薩の住処なり、仍つて不軽菩薩の住処を実報土と定めて此にて礼拝行を立

て給う間実報土は礼拝の住処なり云云。

第廿六慈悲の二字礼拝住処の事

 御義口伝に云く不軽礼拝の行は皆当作仏と教うる故に慈悲なり、既に杖木瓦石を以て打擲すれども而強毒之す

るは慈悲より起れり、仏心とは大慈悲心是なりと説かれたれば礼拝の住処は慈悲なり云云。

第廿七礼拝住処分真即の事

 御義口伝に云く菩薩は分真即の位と定むるなり、此の位に立つて理即の凡夫を礼拝するなり之に依つて理即の

凡夫なる間此の授記を受けずして無智の比丘と謗じたり云云。

第廿八究竟即礼拝住処の事

 御義口伝に云く凡有所見の見は仏知見なり、仏知見を以て上慢の四衆を礼拝する間究竟即を礼拝の住処と定む

るなり云云。

第廿九法界礼拝住処の事

 御義口伝に云く法界に立て礼拝するなり法界とは広きに非ず狭きに非ず惣じて法とは諸法なり界とは境界なり

、地獄界乃至仏界各各界を法る間不軽菩薩は不軽菩薩の界に法り上慢の四衆は四衆の界に法るなり、仍て法界が

法界を礼拝するなり自他不二の礼拝なり、其の故は不軽菩薩の四衆を礼拝すれば上慢の四衆所具の仏性又不軽菩

薩を礼拝するなり、鏡に向つて礼拝を成す時浮べる影又我を礼拝するなり云云。

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第卅礼拝住処忍辱地の事

 御義口伝に云く既に上慢の四衆罵詈瞋恚を成して虚妄の授記と謗ずと云えども不生瞋恚と説く間忍辱地に住し

て礼拝の行を立つるなり云云、初の一の住処は世流布の学者知れり後の十三箇所は当世の学者知らざる事なり云

云。

 已上十四箇条の礼拝の住処なり云云。

神力品八箇の大事

第一妙法蓮華経如来神力の事

 文句の十に云く神は不測に名け力は幹用に名く不測は即ち天然の体深く幹用は則ち転変の力大なり、此の中深

法を付属せんが為に十種の大力を現ず故に神力品と名くと。

 御義口伝に云く此の妙法蓮華経は釈尊の妙法には非ざるなり既に此の品の時上行菩薩に付属し給う故なり、惣

じて妙法蓮華経を上行菩薩に付属し給う事は宝塔品の時事起り寿量品の時事顕れ神力属累の時事竟るなり、如来

とは上の寿量品の如来なり神力とは十種の神力なり所詮妙法蓮華経の五字は神と力となり、神力とは上の寿量品

の時の如来秘密神通之力の文と同じきなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る所の題目なり此の十種の

神力は在世滅後に亘るなり然りと雖も十種共に滅後に限ると心得可きなり、又云く妙法蓮華経如来と神との力の

品と心得可きなり云云、如来とは一切衆生なり寿量品の如し、仍つて釈にも如来とは上に釈し畢ぬと云えり此の

神とは山王七社等なり此の旨之を案ず可きなり云云。

第二出広長舌の事

 御義口伝に云く広とは迹門長とは本門舌とは中道法性なり

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十法界妙法の功徳なれば広と云うなり竪に高ければ長と云うなり、広とは三千塵点より已来の妙法長とは五百塵

点已来の妙法同じく広長舌なり云云。

第三十方世界衆宝樹下師子座上の事

 御義口伝に云く十方とは十界なり此の下に於て草木成仏分明なり、師子とは師は師匠子は弟子なり座上とは寂

光土なり十界即本有の寂光たる国土なり云云。

第四満百千歳の事

 御義口伝に云く満とは法界なり百は百界なり千は千如なり一念三千を満百千歳と説くなり云云、一時も一念も

満百千歳にして十種の神力を現ずるなり十種の神力とは十界の神力なり、十界の各各の神力は一種の南無妙法蓮

華経なり云云。

第五地皆六種震動其中衆生○衆宝樹下の事

 御義口伝に云く地とは国土世間なり其中衆生とは衆生世間なり衆宝樹下とは五陰世間なり一念三千分明なり云

云。

第六娑婆是中有仏名釈迦牟尼仏の事

 御義口伝に云く本化弘通の妙法蓮華経の大忍辱の力を以て弘通するを娑婆と云うなり、忍辱は寂光土なり此の

忍辱の心を釈迦牟尼仏と云えり娑婆とは堪忍世界と云うなり云云。

第七斯人行世間能滅衆生闇の事

 御義口伝に云く斯人とは上行菩薩なり世間とは大日本国なり衆生闇とは謗法の大重病なり、能滅の体は南無妙

法蓮華経なり今日蓮等の類い是なり云云。

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第八畢竟住一乗O是人於仏道決定無有疑の事

 御義口伝に云く畢竟とは広宣流布なり、住一乗とは南無妙法蓮華経の一法に住す可きなり是人とは名字即の凡

夫なり仏道とは究竟即なり疑とは根本疑惑の無明を指すなり、末法当今は此の経を受持する一行計りにして成仏

す可しと定むるなり云云。

嘱累品三箇の大事

第一從法座起の事

 御義口伝に云く起とは塔中の座を起ちて塔外の儀式なり三摩の付嘱有るなり、三摩の付嘱とは身口意三業三諦

三観と付嘱し給う事なり云云。

第二如来是一切衆生之大施主の事

 御義口伝に云く如来とは本法不思議の如来なれば此の法華経の行者を指す可きなり、大施主の施とは末法当今

流布の南無妙法蓮華経主とは上行菩薩の事と心得可きなり、然りと雖も当品は迹門付嘱の品なり上行菩薩を首と

して付属し給う間上行菩薩の御本意と見たるなり云云。

第三如世尊勅当具奉行の事

 御義口伝に云く諸の菩薩等の誓言の文なり、諸天善神菩薩等を日蓮等の類い諌暁するは此の文に依るなり云云

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薬王品六箇の大事

第一不如受持此法華経乃至一四句偈の事

 御義口伝に云く法華経とは一経廿八品なり一四句偈とは題目の五字と心得可きなり云云。

第二十喩の事

 御義口伝に云く十喩とは十界なり、此の山の下に地獄界を含めり、川流江河餓鬼畜生を摂せり日月の下に修羅

を収めたり帝釈梵天は天界なり凡夫人とは人間なり、声聞とは四向四果の阿羅漢なり縁覚とは辟支仏中と説かれ

たり、菩薩は菩薩為第一と云えり仏界は如仏為諸法王と見えたり、此の十界を十喩と挙げて教相を分別してさて

妙法蓮華経の於一仏乗より分別説三する時此くの如く挙げたり、仍つて一念三千の法門なり一念三千は抜苦与楽

なり。

第三離一切苦一切病痛能解一切生死之縛の事

 御義口伝に云く法華の心は煩悩即菩提生死即涅槃なり離解の二字は此の説相に背くなり然るに離の字をば明と

よむなり、本門寿量の慧眼開けて見れば本来本有の病痛苦悩なりと明らめたり仍つて自受用報身の智慧なり、解

とは我等が生死は今始めたる生死に非ず本来本有の生死なり、始覚の思縛解くるなり云云、離解の二字は南無妙

法蓮華経なり云云。

第四火不能焼水不能漂の事

 御義口伝に云く火とは阿鼻の炎なり水とは紅蓮の氷なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は此く

の如くなるべし云云。

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第五諸余怨敵皆悉摧滅の事

 御義口伝に云く怨敵とは念仏禅真言等の謗法の人なり摧滅とは法華折伏破権門理なり、今日蓮等の類い南無妙

法蓮華経と唱え奉る是なり云云。

第六若人有病得聞是経病即消滅不老不死の事

 文句の十に云く此に観解を須ゆべしと。

 御義口伝に云く若人とは上仏果より下地獄の罪人まで之を摂す可きなり、病とは三毒の煩悩仏菩薩に於ても亦

之れ有るなり、不老は釈尊不死は地涌の類たり、是は滅後当今の衆生の為に説かれたり、然らば病とは謗法なり

、此の経を受持し奉る者は病即消滅疑無きなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

妙音品三箇の大事

第一妙音菩薩の事

 御義口伝に云く妙音菩薩とは十界の衆生なり、妙とは不思議なり音とは一切衆生の吐く所の語言音声が妙法の

音声なり三世常住の妙音なり、所用に随つて諸事を弁ずるは慈悲なり是を菩薩と云うなり、又云く妙音とは今日

蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は末法当今の不思議の音声なり、其の故は煩悩即菩提生死即涅槃の妙音

なり云云。

第二肉髻白毫の事

 御義口伝に云く此の二の相好は孝順師長より起れり法華経を持ち奉るを以て一切の孝養の最頂とせり、

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又云く此の白毫とは父の婬なり肉髻とは母の婬なり赤白二ィ今経に来つて肉髻白毫の二相と顕れたり、又云く肉

髻は随縁真如の智なり白毫は不変真如の理なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは此等の相好を具足

するなり、我等が生の始は赤色肉髻なり死後の白骨は白毫相なり、生の始の赤色は随縁真如の智死後の白骨は不

変真如の理なり秘す可し秘す可し云云。

第三八万四千七宝鉢の事

 御義口伝に云く此の文は妙音菩薩雲雷音王仏に奉る所の供養の鉢なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え

奉る者は八万四千の鉢を三世の諸仏に供養し奉るなり、八万四千とは我等が八万四千の塵労なり南無妙法蓮華経

と唱え奉る処にて八万四千の法門と顕るるなり、法華経の文字は開結二経を合しては八万四千なり、又云く八と

は八苦なり四とは生老病死なり七宝とは頭上の七穴なり鉢とは智器なり妙法の智水を受持するを以て鉢とは心得

可きなり云云。

普門品五箇の大事

第一無尽意菩薩の事

 御義口伝に云く無尽意とは円融の三諦なり、無とは空諦尽とは仮諦意とは中道なり、観世音とは観は空諦世は

仮諦音は中道なり、妙法蓮華経とは妙とは空諦法蓮華は仮諦経とは中道なり、三諦法性の妙理を三諦の観世音と

三諦の無尽意に対して説き給うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は末法の無尽意なり、所詮無

とは我等が死の相なり尽とは我等が生の相なり意とは我等が命根なり、然る間一切の法門境智冥合等の法門意の

一字に之を摂入す

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此の意とは中道法性なり法性とは南無妙法蓮華経なり、仍つて意の五字なり我等が胎内の五位の中には第五番の

形なり、其の故は第五番の姿は五輪なり五輪即ち妙法等の五字なり、此の五字又意の字なり仏意とは妙法の五字

なり此の事別に之無し、仏の意とは法華経なり是を寿量品にして是好良薬とて三世の諸仏の好もの良薬と説かれ

たり森羅三千の諸法は意の一字には過ぎざるなり、此の仏の意を信ずるを信心とは申すなりされば心は有分別な

り倶に妙法の全体なり云云。

第二観音妙の事

 御義口伝に云く妙法の梵語は薩達摩と云うなり、薩とは妙と翻ず此の薩の字は観音の種子なり仍て観音法華眼

目異名と釈せり、今末法に入つて日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る事は観音の利益より天地雲泥せり、所

詮観とは円観なり世とは不思議なり音とは仏機なり観とは法界の異名なり既に円観なるが故なり、諸法実相の観

世音なれば地獄餓鬼畜生等の界界を不思議世界と知見するなり、音とは諸法実相なれば衆生として実相の仏に非

ずと云う事なし、寿量品の時は十界本有と説いて無作の三身なり、観音既に法華経を頂受せり然らば此の経受持

の行者は観世音の利益より勝れたり云云。

第三念念勿生疑の事

 御義口伝に云く念念とは一の念は六凡なり一の念は四聖なり六凡四聖の利益を施すなり疑心を生ずること勿れ

云云、又云く念念とは前念後念なり、又云く妙法を念ずるに疑を生ず可からず云云、又三世常住の念念なり之に

依つて上の文に是故衆生念と、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉りて念念勿生疑の信心に住す可きなり煩

悩即菩提生死即涅槃疑有る可からざるなり云云。

第四二求両願の事

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御義口伝に云く二求とは求男求女なり、求女とは世間の果報求男とは出世の果報仍つて現世安穏は求女の徳なり

後生善処は求男の徳なり、求女は竜女が成仏生死即涅槃を顕すなり求男は提婆が成仏煩悩即菩提を顕すなり我等

が即身成仏を顕すなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る行者は求男求女を満足して父母の成仏決定す

るなり云云。

第五三十三身利益の事

 御義口伝に云く三十とは三千の法門なり、三身とは三諦の法門なり云云、又云く卅三身とは十界に三身づつ具

すれば十界には三十本の三身を加うれば卅三身なり、所詮三とは三業なり十とは十界なり三とは三毒なり身とは

一切衆生の身なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は卅三身の利益なり云云。

陀羅尼品六箇の大事

第一陀羅尼の事

 御義口伝に云く陀羅尼とは南無妙法蓮華経なり、其の故は陀羅尼は諸仏の密語なり題目の五字三世の諸仏の秘

密の密語なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは陀羅尼を弘通するなり捨悪持善の故なり云云。

第二安爾曼爾の事

 御義口伝に云く安爾とは止なり曼爾とは観なり、此の安爾曼爾より止観の二法を釈し出せり、仍つて此の咒は

薬王菩薩の咒なり薬王菩薩は天台の本地なり、安爾は我等が心法なり妙なり曼爾は我等が色法なり法なり色心妙

法と呪する時は即身成仏なり云云。

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第三鬼子母神の事

 御義口伝に云く鬼とは父なり子とは十羅刹女なり母とは伽利帝母なり、逆次に次第する時は神とは九識なり母

とは八識へ出づる無明なり子とは七識六識なり鬼とは五識なり、流転門の時は悪鬼なり還滅門の時は善鬼なり、

仍つて十界互具百界千如の一念三千を鬼子母神十羅刹女と云うなり、三宝荒神とは十羅刹女の事なり所謂飢渇神

貪欲神障碍神なり、今法華経の行者は三毒即三徳と転ずる故に三宝荒神に非ざるなり荒神とは法華不信の人なり

法華経の行者の前にては守護神なり云云。

第四受持法華名者福不可量の事

 御義口伝に云く法華の名と云うは題目なり、者と云うは日本国の一切衆生の中には法華経の行者なり、又云く

者の字は男女の中には別して女人を讃めたり女人を指して者と云うなり、十羅刹女は別して女人を本とせり例せ

ば竜女が度脱苦衆生とて女人を苦の衆生と云うが如し薬王品の是経典者の者と同じ事なり云云。

第五皐諦女の事

 御義口伝に云く皐諦女は本地は文殊菩薩なり、山海何かなる処にても法華経の行者を守護す可しと云う経文な

り、九悪一善とて皐諦女をば一善と定めたり、十悪の煩悩の時は偸盗に皐諦女は当れり逆次に次第するなり云云

第六五番神呪の事

 御義口伝に云く五番神呪とは我等が一身なり、妙とは十羅刹女なり法とは持国天王なり蓮とは増長天王なり華

とは広目天王なり経とは毘沙門天王なり、

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此の妙法の五字は五番神呪なり、五番神呪は我等が一身なり、十羅刹女の呪は妙の一字を十九句に並べたり経文

には寧上我頭上の文是れなり、持国天は法の一字を九句に並べたり経文には四十二億と云えり、四とは生老病死

十とは十界二とは迷悟なり、持国は依報の名なり法は十界なり、増長天は蓮の一字を十三句に並べたり経文には

「亦皆随喜」と云えり随喜の言は仏界に約せり、広目天は華の一字を四十三句に並べたり経文には「於諸衆生多

所饒益」と云えり、毘沙門天は経の一字を六句に並べたり経文には「持是経者」等の文是なり云云。

  厳王品三箇の大事

第一妙荘厳王の事 文句の十に云く妙荘厳とは妙法功徳をもつて諸根を荘厳するなりと。御義口伝に云く妙とは

妙法の功徳なり、諸根とは六根なり此の妙法の功徳を以て六根を荘厳す可き名なり、所詮妙とは空諦なり荘厳と

は仮諦なり王とは中道なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は悉く妙荘厳王なり云云。

第二浮木孔の事

 御義口伝に云く孔とは小孔大孔の二之れ有り、小孔とは四十余年の経教なり大孔とは法華経の題目なり、今日

蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大孔なり、一切衆生は一眼の亀なり栴檀の浮木とは法華経なり、生死の

大海に南無妙法蓮華経の大孔ある浮木は法華経に之在り云云。

第三当品邪見即正の事

 御義口伝に云く厳王の邪見二人の教化に依り功徳を得て邪を改めて正とせり、止の一に辺邪皆中正と云う是な

り、

P0780

今日本国の一切衆生は邪見にして厳王なり、日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は二人の如し終に畢竟住

一乗して邪見即正なる可し云云。

  普賢品六箇の大事

第一普賢菩薩の事

 文句の十に云く勧発とは恋法の辞なりと。

 御義口伝に云く勧発とは勧は化他発は自行なり、普とは諸法実相迹門の不変真如の理なり、賢とは智慧の義な

り本門の随縁真如の智なり、然る間経末に来つて本迹二門を恋法し給えり、所詮今日蓮等の類い南無妙法蓮華経

と唱え奉る者は普賢菩薩の守護なり云云。

第二若法華経行閻浮提の事

 御義口伝に云く此の法華経を閻浮提に行ずることは普賢菩薩の威神の力に依るなり、此の経の広宣流布するこ

とは普賢菩薩の守護なるべきなり云云。

第三八万四千天女の事

 御義口伝に云く八万四千の塵労門なり、是れ即ち煩悩即菩提生死即涅槃なり七宝の冠とは頭上の七穴なり、今

日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者是なり云云。

第四是人命終為千仏授手の事

 御義口伝に云く法華不信の人は命終の時地獄に堕在す可し、経に云く「若人不信毀謗此経即断一切世間仏種其

人命終入阿鼻獄」と、法華経の行者は命終して成仏す可し是人命終為千仏授手の文是なり、千仏とは千如の法門

なり謗法の人は獄卒来迎し法華経の行者は千仏来迎し給うべし、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は

千仏の来迎疑無き者なり云云。

P0781

第五閻浮提内広令流布の事

 御義口伝に云く此の内の字は東西北の三方を嫌える文なり、広令流布とは法華経は南閻浮提計りに流布す可し

と云う経文なり、此の内の字之を案ず可し、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は深く之を思う可きな

り云云。

第六此人不久当詣道場の事

 御義口伝に云く此人とは法華経の行者なり、法華経を持ち奉る処を当詣道場と云うなり此を去つて彼に行くに

は非ざるなり、道場とは十界の衆生の住処を云うなり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住処は山

谷曠野皆寂光土なり此れを道場と云うなり、此因無易故云直至の釈之を思う可し、此の品の時最上第一の相伝あ

り、釈尊八箇年の法華経を八字に留めて末代の衆生に譲り給うなり八字とは当起遠迎当如敬仏の文なり、此の文

までにて経は終るなり当の字は未来なり当起遠迎とは必ず仏の如くに法華経の行者を敬う可しと云う経文なり、

法師品には於此経巻敬視如仏と云えり、八年の御説法の口開きは南無妙法蓮華経方便品の諸仏智慧終りは当起遠

迎当如敬仏の八字なり、但此の八字を以て法華一部の要路とせりされば文句の十に云く「当起遠迎当如敬仏より

は其の信者の功徳を結することを述す」と、法華一部は信の一字を以て本とせり云云。

 尋ねて云く今の法華経に於て序品には首めに如の字を置き終りの普賢品には去の字を置く羅什三蔵の心地何な

る表事の法門ぞや、答て云く今の経の法体は実相と久遠との二義を以て正体と為すなり始の如の字は実相を表し

終りの去の字は久遠を表するなり、其の故は実相は理なり久遠は事なり理は空の義なり

P0782

空は如の義なり之に依て如をば理空に相配するなり、釈に云く「如は不異に名く即ち空の義なり」と久遠は事な

り其の故は本門寿量の心は事円の三千を以て正意と為すなり、去は久遠に当るなり去は開の義如は合の義なり開

は分別の心なり合は無分別の意なり、此の開合を生仏に配当する時は合は仏界開は衆生なり、序品の始に如の字

を顕したるは生仏不二の義なり、迹門は不二の分なり不変真如なる故なり、此の如是我聞の如をば不変真如の如

と習うなり、空仮中の三諦には如は空是は中我聞は仮諦迹門は空を面と為す故に不二の上の而二なり、然る間而

二の義を顕す時同聞衆を別に列ぬるなり、さて本門の終りの去は随縁真如にして而二の分なり仍つて去の字を置

くなり、作礼而去の去は随縁真如と約束するなり、本門は而二の上の不二なり而二不二常同常別古今法爾の釈之

を思う可し、此の去の字は彼の五千起去の去と習うなり、其の故は五千とは五住の煩悩と相伝する間五住の煩悩

が己心の仏を礼して去ると云う義なり、如去の二字は生死の二法なり、伝教云く「去は無来之如来無去之円去」

等と云云。

 如の字は一切法是心の義去の字は心是一切法の義なり、一切法是心は迹門の不変真如なり心是一切法は本門の

随縁真如なり、然る間法界を一心に縮むるは如の義なり法界に開くは去の義なり三諦三観の口決相承と意同じ云

云。

 一義に云く如は実なり去は相なり実は心王相は心数なり、又諸法は去なり実相は如なり今経一部の始終諸法実

相の四字に習うとは是なり、釈に云く「今経は何を以て体と為るや諸法実相を以て体と為す」と、今一重立ち入

つて日蓮が修行に配当せば如とは如説修行の如なり其の故は結要五字の付属を宣べ給う時宝塔品に事起り声徹下

方し近令有在遠令有在と云うて有在の二字を以て本化迹化の付属を宣ぶるなり仍つて本門の密序と習うなり、さ

て二仏並座分身の諸仏集まつて是好良薬の妙法蓮華経を説き顕し

P0783

釈尊十種の神力を現じて四句に結び上行菩薩に付属し給う其の付属とは妙法の首題なり惣別の付属塔中塔外之を

思う可し、之に依つて涌出寿量に事顕れ神力属累に事竟るなり、此の妙法等の五字を末法白法隠没の時上行菩薩

御出世有つて五種の修行の中には四種を略して但受持の一行にして成仏す可しと経文に親り之れ有り、夫れば神

力品に云く「於我滅度後応受持斯経是人於仏道決定無有疑」云云此の文明白なり、仍つて此の文をば仏の廻向の

文と習うなり、然る間此の経を受持し奉る心地は如説修行の如なり此の如の心地に妙法等の五字を受持し奉り南

無妙法蓮華経と唱え奉れば忽ち無明煩悩の病を悉く去つて妙覚極果の膚を瑩く事を顕す故にさて去の字を終りに

結ぶなり、仍つて上に受持仏語と説けり煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達せら

る、然る間還つて己心の仏を礼す故に作礼而去とは説き給うなり、彼彼三千互遍亦爾の釈之を思う可し秘す可し

秘す可し唯受一人の相承なり、口外す可からず然らば此の去の字は不去而去の去と相伝するを以て至極と為すな

り云云。

  無量義経六箇の大事

第一無量義経徳行品第一の事

 御義口伝に云く無量義の三字を本迹観心に配する事、初の無の字は迹門なり其の故は理円を面とし不変真如の

旨を談ず、迹門は無常の摂属なり常住を談ぜず但し「是法住法位世間相常住」と明かせども是れは理常住にして

事常住に非ず理常住の相を談ずるなり、空は無の義なり但し此の無は断無の無に非ず相即の上の空なる処を無と

云い空と云うなり、円の上にて是を沙汰するなり、本門の事常住無作の三身に対して迹門を無常と云うなり、守

護章には有為の報仏は夢中の権果無作の三身は覚前の実仏と云云、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者

は無作の三身覚前の実仏なり云云。

P0784

第二量の字の事

 御義口伝に云く量の字を本門に配当する事は量とは権摂の義なり、本門の心は無作三身を談ず此の無作三身と

は仏の上ばかりにて之を云わず、森羅万法を自受用身の自体顕照と談ずる故に迹門にして不変真如の理円を明か

す処を改めずして己が当体無作三身と沙汰するが本門事円三千の意なり、是れ即ち桜梅桃李の己己の当体を改め

ずして無作三身と開見すれば是れ即ち量の義なり、今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は無作三身の本

主なり云云。

第三義の字の事

 御義口伝に云く義とは観心なり、其の故は文は教相義は観心なり所説の文字を心地に沙汰するを義と云うなり

、就中無量義は一法より無量の義を出生すと談ず、能生は義所生は無量なり是は無量義経の能生所生なり、法華

経と無量義経とを相対する能所に非ざるなり無相不相名為実相の理より万法を開出すと云う、源が実相なる故に

観心と云うなり、此くの如く無量義の三字を迹門本門観心に配当する事は法華の妙法等の題と今の無量義の題と

一体不二の序正なりと相承の心を相伝せむが為なり。

第四処の一字の事

 御義口伝に云く処の一字は法華経なり、三蔵教と通教とは無の字に摂し別教は量の字に摂し円教は義の字に摂

するなり、此の爾前の四教を所生と定めさて序分の此の経を能生と定めたり、能生を且く処と云い所生を無量義

と定めたり、仍つて権教に相対して無量義処を沙汰するなり云云。

第五無量義処の事

P0785

 御義口伝に云く法華経八巻は処なり無量義経は無量義なり、無量義は三諦三観三身三乗三業なり法華経に於一

仏乗分別説三と説いて法華の為の序分と成るなり、爰を以て隔別の三諦は無得道円融の三諦は得道と定むる故に

四十余年未顕真実と破し給えり云云。

第六無量義処の事

 御義口伝に云く無量義処とは一念三千なり、十界各各無量に義処たり、此の当体其の侭実相の一理より外は之

れ無きを諸法実相と説かれたり、其の為の序なる故に一念三千の序として無量義処と云うなり、処は一念無量義

は三千なり、我等衆生朝夕吐く所の言語も依正二法共に無量に義処りたり、此れを妙法蓮華経とは云うなり然る

間法華の為の序分開経なり云云。

普賢経五箇の大事

第一普賢経の事

 題号に云く仏説観普賢菩薩行法経と云云。

 御義口伝に云く此の法華経は十界互具三千具足の法体なれば三千十界悉く普賢なり、法界一法として漏るる義

之れ無し故に普賢なり、妙法の十界蓮華の十界なれば依正の二法悉く法華経なりと結し納めたる経なれば此の普

賢経を結経とは云うなり、然らば十界を妙法蓮華経と結し合せたり云云。

第二不断煩悩不離五欲の事

 御義口伝に云く此の文は煩悩即菩提生死即涅槃を説かれたり、法華の行者は貪欲は貪欲のまま瞋恚は瞋恚のま

ま愚癡は愚癡のまま普賢菩薩の行法なりと心得可きなり云云。

第三六念の事  念仏 念法 念僧 念戒 念施 念天

P0786

 御義口伝に云く念仏とは唯我一人の導師なり、念法とは滅後は題目の五字なり念僧とは末法にては凡夫僧なり

、念戒とは是名持戒なり、念施とは一切衆生に題目を授与するなり、念天とは諸天昼夜常為法故而衛護之の意な

り、末法当今の行者の上なり之を思う可きなり云云。

第四一切業障海皆従妄想生若欲懺悔者端坐思実相衆罪如霜露慧日能消除の事

 御義口伝に云く衆罪とは六根に於て業障降り下る事は霜露の如し、然りと雖も慧日を以て能く消除すと云えり

、慧日とは末法当今日蓮所弘の南無妙法蓮華経なり、慧日とは仏に約し法に約するなり、釈尊をば慧日大聖尊と

申すなり法華経を又如日天子能除諸闇と説かれたり、末法の導師を如日月光明等と説かれたり。

第五正法治国不邪枉人民の事

 御義口伝に云く末法の正法とは南無妙法蓮華経なり、此の五字は一切衆生をたぼらかさぬ秘法なり、正法を天

下一同に信仰せば此の国安穏ならむ、されば玄義に云く「若し此の法に依れば即ち天下泰平」と、此の法とは法

華経なり法華経を信仰せば天下安全たらむ事疑有る可からざるなり。

已上二百三十一箇条の大事

    廿八品に一文充の大事 合せて廿八箇条の大事秘す可し云云

          序品

       十界也 始覚

       於無漏実相 心已得通達

       妙法 不変 随縁

 此の文我が心本より覚なりと始めて覚るを成仏と云うなり所謂南無妙法蓮華経と始めて覚る題目なり。

P0787

       方便品

      真諦    俗諦

      是法住法位 世間相常住

       迹門    本門

 此の文衆生の心は本来仏なりと説くを常住と云うなり万法元より覚の体なり。

       譬喩品

       受持人 大白牛車  凡夫即極

      乗此宝乗      直至道場

       題目        極果ノ処也

 此の文は自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入るなり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり。

      信解品

       一念三千

      無上宝珠  不求自得

       題目

 此の文は無始色心本是理性妙境妙智なれば己心より外に実相を求む可からず所謂南無妙法蓮華経は不求自得な

り。

      薬草喩品

            三世 題目 一切衆生

      又諸仏子 専心仏道常行慈悲自知作仏

 此の文は当来の成仏顕然なり所謂南無妙法蓮華経なり。

P0788

     授記品

       十界実相仏 三世常住 煩悩即菩提生死即涅槃

      於諸仏所常修梵行於無量劫奉持仏法

       一切業障

 此の文に常と云い無量劫と云う即ち本有所具の妙法なり所謂南無妙法蓮華経なり。

     化城喩品

       三千塵点

      観彼久遠 猶如今日

        在世

 此の文は元初の一念一法界より外に更に六道四聖とて有る可からざるなり所謂南無妙法蓮華経は三世一念なり

今日とは末法を指して今日と云うなり。

      五百品

     日本国一切衆生  題目御本尊  心法色法 煩悩即菩提生死即涅槃

      貧人       見此珠    其心大歓喜

                       信心ノカタチ

 此の文は始めて我心本来の仏なりと知るを即ち大歓喜と名く所謂南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり。

      人記品

       一部    題目

      安住於仏道 以求無上道

       広略    要

P0789

 此の文は本来相即の三身の妙理を初めて覚知するを求無上道とは云うなり所謂南無妙法蓮華経なり。

      法師品

             寂光

      当知如是人 自在所欲生

 此の文は我等が一念の妄心の外に仏心無し九界の生死が真如なれば即ち自在なり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉

る即ち自在なり。

      宝塔品

            受持也

      則為疾得 無上仏道

            凡夫即極也

 此の文は持者即ち円頓の妙戒なれば等妙二覚一念開悟なれば疾得と云うなり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは

疾得なり。

     提婆品

      忽然之間 変成男子

 此の文の心は三惑の全体三諦と悟るを変と説くなり所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは三惑即三徳なり。

       勧持品

       色法心法

     我不愛身命但惜無上道

 此の文は色心幻化四大五陰元より悪習なり然るに本覚真如は常住なり所謂南無妙法蓮華経なり。

P0790

     安楽行品

一切諸法空無所有無有常住亦無起滅

 此の文は元より常住の妙法なる故に六道の生滅本来不生と談ず故に起滅無し所謂南無妙法蓮華経本来無起滅な

り云云。

     涌出品

昼夜常精進 為求仏道故

 此の文は一念に億劫の辛労を尽せば本来無作の三身念念に起るなり所謂南無妙法蓮華経は精進行なり。

     寿量品

如来如実知見三界之相無有生死

 此の文は万法を無作の三身と見るを如実知見と云う無作の覚体なれば何に依つて生死有りと云わんか。

     分別功徳品

持此一心福 願求無上道

 此の文は一切の万行万善但一心本覚の三身を顕さんが為なり、善悪一如なれば一心福とは云うなり所謂南無妙

法蓮華経は一心福なり。

     随喜功徳品

P0791

言此経深妙 千万劫難遇

 此の文は、一切即妙法なれば一心の源底を顕す事甚妙無外なり所謂南無妙法蓮華経不思議なり。

      法師功徳品

静 散

入禅出禅者 聞香悉能知

不変死 随縁生 十界

 此の文は一心静なる時は入禅、一心散乱する時は出禅、静散即本覚と知るを悉く知るとは云うなり所謂南無妙

法蓮華経は入禅出禅なり云云。

     不軽品

応当一心広説此経世世値仏疾成仏道

 此の文は法界皆本来三諦一心に具わる事を顕せば己心の念念仏に値う事を即ち世世値仏と云うなり所謂南無妙

法蓮華経是なり。

     神力品

       断破元品無明

是人於仏道 決定無有疑

十如是

 此の文は十界各各本有本覚の十如是なれば地獄も仏界も一如なれば成仏決定するなり所謂南無妙法蓮華経の受

持なり云云。

     囑累品

P0792

信如来知慧者当演説此法華経

 此の文は釈迦如来の悟の如く一切衆生の悟と不同有ること無し故に如来の智慧を信ずるは即ち妙法なり所謂南

無妙法蓮華経の智慧なり云云。

     薬王品

是真精進是名真法供養如来

 此の文は色香中道の観念懈ること無し是を即ち真法供養如来と名くるなり所謂南無妙法蓮華経唯有一乗の故に

真法なり世間も出世も純一実相なり云云。

     妙音品

 久遠 寂光土

身不動揺而入三昧

 此の文は即ち久遠を悟るを身不動揺と云うなり惑障を尽くさずして寂光に入るを三昧とは云うなり所謂南無妙

法蓮華経の三昧なり云云。

     普門品

 福智

慈眼視衆生福聚海無量

 此の文は法界の依正妙法なる故に平等一子の慈悲なり依正福智共に無量なり所謂南無妙法蓮華経福智の二法な

り云云。

     陀羅尼品

P0793

       未来顕

修行是経者 令得安穏

       現在顕

 此の文は五種妙行を修すれば悟の道に入つて嶮路に入らざるなり此れは安穏と云う事なり、所謂南無妙法蓮華

経即安穏なり云云。

     厳王品

宿福深厚生値仏法

 此の文は一句妙法に結縁すれば億劫にも失せずして大乗無価の宝珠を研き顕すを生値仏法と云うなり所謂南無

妙法蓮華経の仏法なり。

     勧発品

是人命終為千仏授手令不恐怖不堕悪趣

 此の文は妙法を悟れば分段の身即常寂光と顕るるを命終と云うなり千仏とは千如御手とは千如具足なり故に不

堕悪趣なり所謂南無妙法蓮華経の御手なり。

已上品品別伝畢

   一廿八品悉南無妙法蓮華経の事

 疏の十に云く惣じて一経を結するに唯四のみ其の枢柄を撮つて之を授与すと。

P0794

 御義口伝に云く一経とは本迹二十八品なり唯四とは名用体宗の四なり枢柄とは唯題目の五字なり授与とは上行

菩薩に授与するなり之とは妙法蓮華経なり云云、此の釈分明なり今日蓮等の弘通の南無妙法蓮華経は体なり心な

り廿八品は用なり廿八品は助行なり題目は正行なり正行に助行を摂す可きなり云云。

一 無量義経の事 

 御義口伝に云く妙法の序分無量義経なれば十界悉く妙法蓮華経の序分なり。

一 序品

 御義口伝に云く如是我聞の四字を能く能く心得れば一経無量の義は知られ易きなり十界互具三千具足の妙と聞

くなり此の所聞は妙法蓮華と聞く故に妙法の法界互具にして三千清浄なり此の四字を以て一経の始終に亘るなり

廿八品の文文句句の義理我が身の上の法門と聞くを如是我聞とは云うなり、其の聞物は南無妙法蓮華経なりされ

ば皆成仏道と云うなり此の皆成の二字は十界三千に亘る可きなり妙法の皆成なるが故なり又仏とは我が一心なり

是れ又十界三千の心心なり、道とは能通に名くる故に十界の心心に通ずるなり此の時皆成仏道と顕るるなり皆成

仏道の法は南無妙法蓮華経なり。

一 方便品

 御義口伝に云く此の品には十如是を説く此の十如是とは十界なり此の方便とは十界三千なり。既に妙法蓮華経

を頂く故に十方仏土中唯有一乗法なり妙法の方便蓮華の方便なれば秘妙なり清浄なり妙法の五字は九識方便は八

識已下なり九識は悟なり八識已下は迷なり、妙法蓮華経方便品と題したれば迷悟不二なり森羅三千の諸法此の妙

法蓮華経方便に非ずと云う事無きなり品は義類同なり、義とは三千なり類とは互具なり同とは一念なり此の一念

三千を指して品と云うなり此の一念三千を三仏合点し給えり仍つて品品に題せり南無妙法蓮華経の信の一念より

三千具足と聞えたり云云。

P0795

一 譬喩品

 御義口伝に云く此の品の大白牛車とは「無明癡惑本是法性」の明闇一体の義なり、即ち三千具足の一乗をかか

げたる車なれば明闇一体にして三千具足の義を顕すなり、法界にメ満したれども一法なるを一乗と云うなり、此

の一乗とは諸乗具足の一乗なり諸法具足の一法なり故に一の白牛なり又白牛は一なりといえども無量の白牛なり

一切衆生の体大白牛車なるが故なり、然らば妙法の大白牛車に妙法の十界三千の衆生乗じたり蓮華の大白牛車な

れば十界三千の衆生も蓮華にして清浄なり南無妙法蓮華経の法体此くの如し。

一 信解品

 御義口伝に云く此の信解は中根の四大声聞の領解に限るに非ず妙法の信解なるが故に十界三千の信解なり、蓮

華の信解なるが故に十界三千の清浄の信解なり此の信解の体とは南無妙法蓮華経是なり云云。

一 薬草喩品

 御義口伝に云く妙法の薬草なれば十界三千の毒草蓮華の薬草なれば本来清浄なり、清浄なれば仏なり此の仏の

説法とは南無妙法蓮華経なり云云、されば此の品には種相体性の種の字に種類種相体種の二の開会之れ有り、相

対種とは三毒即三徳なり種類種とは始の種の字は十界三千なり、類とは互具なり下の種の字は南無妙法蓮華経な

り種類種なり、十界三千の草木各各なれども只南無妙法蓮華経の一種なり、毒草の毒もなきなり清浄の草木にし

て薬草なり云云。

一 授記品

P0796

 御義口伝に云く十界已已の当体の言語は妙法蓮華の授記なれば清浄の授記なり、清浄の授記なれば十界三千の

仏なり、爰を以て仏南無妙法蓮華経と授記するなり云云。

一 化城喩品

 御義口伝に云く妙法の化城なれば十界同時の無常なり、蓮華の化城なれば十界三千の開落なり、常住無常倶に

妙法蓮華経の全体なり、化城宝処は生死本有なり生死本有の体とは南無妙法蓮華経なり、釈に云く「起は是れ法

性の起滅は是れ法性の滅」と。

一 五百品

 御義口伝に云く此の品には五百弟子授記作仏すと現文に見えたり、然りと雖も妙法の五百なれば十界三千皆五

百の弟子なり、蓮華の弟子なれば又清浄なり、所詮十界三千南無妙法蓮華経の弟子に非ずと云う事なし此の経の

授記是なり云云。

一 人記品

 御義口伝に云く此の品には学無学の聖者来つて成仏するなり、既に妙法頂戴の学無学なれば十界互具三千具足

の学無学なり妙法の学無学なるが故に不思議の十界に煩悩未だ尽くさざるなり蓮華の学無学なれば十界三千清浄

の開落なり、此の学無学何物ぞや学とは法なり無学とは妙なり所謂南無妙法蓮華経なり云云。

一 法師品

 御義口伝に云く妙法の法師なれば十界皆妙法受持の一句一偈の法師なり、蓮華の法師なれば十界三千清浄の法

師なり、十界衆生の色法は能持の人なり十界の心性は所持の法なり、仍つて色心共に法師にして自行化他を顕す

なり

P0797

所謂南無妙法蓮華経の法師なるが故なり云云。

一 宝塔品

 御義口伝に云く此の宝塔は宝浄世界より涌現するなり、其の宝浄世界の仏とは事相の義をば且らく之を置く、

証道観心の時は母の胎内是なり故に父母は宝塔造作の番匠なり、宝塔とは我等が五輪五大なり然るに託胎の胎を

宝浄世界と云う故に出胎する処を涌現と云うなり、凡そ衆生の涌現は地輪より出現するなり故に従地湧出と云う

なり、妙法の宝浄世界なれば十界の衆生の胎内は皆是れ宝浄世界なり、蓮華の宝浄なれば十界の胎内悉く無垢清

浄の世界なり、妙法の地輪なれば十界に亘るなり蓮華の地なれば清浄地なり、妙法の宝浄なれば我等が身体は清

浄の宝塔なり妙法蓮華の涌出なれば十界の出胎の産門本来清浄の宝塔なり、法界の塔婆にして十法界即塔婆なり

妙法の二仏なれば十界三千皆境智の二仏なり、妙法の一座には三千の心性皆以て二尊の所座なり妙法蓮華二仏一

座なれば不思議なり清浄なり、妙法蓮華の見なれば十界の衆生三千の群類皆自身の塔婆を見るなり、十界の不同

なれども己が身を見るは三千具足の塔を見るなり己の心を見るは三千具足の仏を見るなり、分身とは父母より相

続する分身の意なり、迷う時は流転の分身なり悟る時は果中の分身なり、さて分身の起る処を習うには地獄を習

うなり、かかる宝塔も妙法蓮華経の五字より外は之れ無きなり妙法蓮華経を見れば宝塔即一切衆生一切衆生即南

無妙法蓮華経の全体なり云云。

一 提婆品

 御義口伝に云く此の品には釈尊の本師提婆達多の成仏と文殊師利教化の竜女成仏とを説くなり、是れ又妙法蓮

華経の提婆竜女なれば十界三千皆調達竜女なり、法界の衆生の逆の辺は調達なり法界の貪欲瞋恚愚癡の方は悉く

竜女なり、

P0798

調達は修徳の逆罪一切衆生は性徳の逆罪なり一切衆生は性徳の天王如来調達は修徳の天王如来なり、竜女は修徳

の竜女一切衆生は性徳の竜女なり、所詮釈尊も文殊も提婆も竜女も一つ種の妙法蓮華経の功能なれば本来成仏な

り、仍つて南無妙法蓮華経と唱え奉る時は十界同時に成仏するなり、是を妙法蓮華経の提婆達多と云うなり、十

界三千竜女なれば無垢世界に非ずと云う事なし、竜女が一身も本来成仏にして南無妙法蓮華経の当体なり云云。

一 勧持品

 御義口伝に云く此の品の姨母耶輸の記は十界同時の授記なり妙法の姨母妙法の耶輸なる故なり、十界の衆生

の心性は所持の経の体なり是れ即ち勧持の流通なり、心性所持の経を勧持して自行化他に趣くなり、姨母耶輸は

女人の成仏なり二万の大士は男子の流通なり此の文陰陽一体にして南無妙法蓮華経の当体なり云云。

一 安楽行品

 御義口伝に云く妙法の安楽行なれば十界三千悉く安楽行なり、自受用の当体なり身口意誓願悉く安楽行なり、

蓮華の安楽行なれば三千十界清浄の修行なり、諸法実相なれば安楽行に非ざること莫し、本門の意は十界の色心

本来本有として真実の安楽行なり、安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり云云、霊山浄土に安楽

に行詣す可きなり云云。

一 涌出品

 御義口伝に云く此の品は迹門流通の後本門開顕の序分なり、故に先ず本地無作の三身を顕さんが為に釈尊所具

の菩薩なるが故本地本化の弟子を召すなり、是れ又妙法の従地なれば十界の大地なり、妙法の涌出なれば十界皆

涌出なり、

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十界妙法の菩薩なれば皆饒益有情界の慈悲深重の大士なり、蓮華の大地なれば十界の大地も十界涌出の菩薩も本

来清浄なり、所詮悟道に約する時は従地とは十界の衆生の大種の所生なり、涌出とは十界の衆生の出胎の相なり

菩薩とは十界の衆生の本有の慈悲なり、此の菩薩に本法の妙法蓮華経を付属せんが為に従地涌出するなり、日蓮

等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は従地涌出の菩薩なり外に求むること莫かれ云云。

一 寿量品

 御義口伝に云く寿量品とは十界の衆生の本命なり、此の品を本門と云う事は本に入る門と云う事なり、凡夫の

血肉の色心を本有と談ずるが故に本門とは云うなり、此の重に至らざるを始覚と云い迹門と云うなり、是を悟る

を本覚と云い本門と云うなり、所謂南無妙法蓮華経は一切衆生の本有の在処なり爰を以て経に我実成仏已来とは

云うなり云云。

一 分別品

 御義口伝に云く此の品は上の品の時本地無作の三身如来の寿を聞く故に今品にして上の無作の三身を信解する

なり、其の功徳を分別するなり功徳とは十界己己の当体の三毒の煩悩を此の品の時其の侭妙法の功徳なりと分別

するなり、其の功徳とは本有の南無妙法蓮華経是なり云云。

一 随喜品

 御義口伝に云く妙法の功徳を随喜する事を説くなり、五十展転とは五とは妙法の五字なり十とは十界の衆生な

り展転とは一念三千なり、教相の時は第五十人の随喜の功徳を校量せり五十人とは一切衆生の事なり、妙法の五

十人妙法蓮華経を展転するが故なり、所謂南無妙法蓮華経を展転するなり云云。

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一 法師功徳品

 御義口伝に云く無作の三身も如来の寿も分別功徳も随喜も我が身の上の事なり、然らば父母所生の六根は清浄

にして自在無碍なり妙法の六根なれば十界三千の六根皆清浄なり、蓮華所具の六根なれば全く不浄に非ざるなり

、此の六根にて南無妙法蓮華経と見聞覚知する時は本来本有の六根清浄なり云云。

一 不軽品

 御義口伝に云く此の菩薩の礼拝の行とは一切衆生の事なり、自他一念の礼拝なり父母果縛の肉身を妙法蓮華経

と礼拝するなり、仏性も仏身も衆生の当体の色心なれば直ちに礼拝を行ずるなり、仍つて皆当作仏の四字は南無

妙法蓮華経の種子に依るなり。

一 神力品

 御義口伝に云く十種の神力を現じて上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属し給う此の神力とは十界三千の衆生の

神力なり、凡夫は体の神力三世の諸仏は用の神力なり神とは心法力とは色法なり力は法神は妙なり妙法の神力な

れば十界悉く神力なり、蓮華の神力なれば十界清浄の神力なり、惣じて三世の諸仏の神力は此の品に尽くせり釈

尊出世の神力の本意も此の品の神力なり、所謂妙法蓮華経の神力なり十界皆成と談ずるより外の諸仏の神力は之

れ有る可からず、一切の法門神力に非ずと云う事なし云云。

一 囑累品

 御義口伝に云く此の品には摩頂付属を説きて此の妙法を滅後に留め給うなり、是れ又妙法の付属なれば十界三

千皆付属の菩薩なり、又三摩する事は能化所具の三観三身の御手を以て所化の頂上に明珠を譲り与えたる心なり

、凡そ頂上の明珠は覚悟知見なり頂上の明珠とは南無妙法蓮華経是なり云云。

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一 薬王品

 御義口伝に云く此の品は薬王菩薩の仏の滅後に於て法華を弘通するなり、所詮焼身焼臂とは焼は照の義なり照

は智慧の義なり智能く煩悩の身生死の臂を焼くなり、天台大師も本地薬王菩薩なり、能説に約する時は釈迦なり

衆生の重病を消除する方は薬王薬師如来なり又利物の方にて薬王と云う自悟の方にては薬師と云う、此の薬王薬

師出世の時は天台大師なり薬王も滅後に弘通し薬師如来も像法暫時の利益有情なり、時を以て身体を顕し名を以

て義を顕す事を仏顕し給うなり、薬王菩薩は止観の一念三千の法門を弘め給う、其の一念三千とは所謂南無妙法

蓮華経是なり云云。

一 妙音品

 御義口伝に云く此の菩薩は法華弘通の菩薩なり故に卅四身を現じて十界互具を顕し給い利益説法するなり、是

れ又妙法の妙音なれば十界の音声は皆妙音なり、又十界悉く卅四身の所現の妙音なり、又蓮華の妙音なれば十界

三千の音声皆無染清浄なり、されば慈覚大師をば妙音の出世と習うなり之に依つて唐決の時引声妙音をば伝え給

えり何故有りてか法華を誹謗して大日経等に劣りたりと云うや云云、所謂法界の音声南無妙法蓮華経の音声に非

ずと云う事なし云云。

一 観音品

 御義口伝に云く此の品は甚深の秘品なり息災延命の品なり当途王経と名く、されば此の品に就て職位法門を継

ぐぞと習うなり、天台も三大部の外に観音玄という疏を作り章安大師は両巻の疏を作り給えり能く能くの秘品な

り、観音法華眼目異名と云いて観音即ち法華の体なり所謂南無妙法蓮華経の体なり云云。

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一 陀羅尼品

 御義口伝に云く此の品は二聖二天王十羅刹女陀羅尼を説きて持経者を擁護し給うなり、所詮妙法陀羅尼の真言

なれば十界の語言音声皆陀羅尼なり、されば伝教大師の云く「妙法の真言は他経に説かず普賢常護は他経に説か

ず」陀羅尼とは南無妙法蓮華経の用なり、此の五字の中には妙の一字より陀羅尼を説き出すなり云云。

一 厳王品

 御義口伝に云く此の品は二子の教化に依つて父の妙荘厳王邪見を飜し正見に住して沙羅樹王仏と成るなり、沙

羅樹王とは梵語なり此には熾盛光と云う、一切衆生は皆是れ熾盛光より出生したる一切衆生なり、此の故に十界

衆生の父なり、法華の心にては自受用智なり忽然火起焚焼舎宅とは是なり、煩悩の一念の火起りて迷悟不二の舎

宅を焼くなり邪見とは是なり、此の邪見を邪見即正と照したる南無妙法蓮華経の智慧なり所謂六凡は父なり四聖

は子なり四聖は正見六凡は邪見故に六道の衆生は皆是れ我が父母とは是なり云云。

一 勧発品

 御義口伝に云く此の品は再演法華なり本迹二門の極理此の品に至極するなり、慈覚大師云く十界の衆生は発心

修行と釈し給うは此の品の事なり、所詮此の品と序品とは生死の二法なり序品は我等衆生の生なり此の品は一切

衆生の死なり生死一念なるを妙法蓮華経と云うなり品品に於て初の題号は生の方終の方は死の方なり、此の法華

経は生死生死と転りたり、生の故に始に如是我聞と置く如は生の義なり死の故に終りに作礼而去と結したり、去

は死の義なり作礼の言は生死の間に成しと成す処の我等衆生の所作なり、此の所作とは妙法蓮華経なり、

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礼とは不乱の義なり法界妙法なれば不乱なり、天台大師の云く「体の字は礼に訓ず礼は法なり各々其の親を親と

し各々其の子を子とす出世の法体も亦復是の如し」と、体とは妙法蓮華経の事なり先づ体玄義を釈するなり、体

とは十界の異体なり是を法華経の体とせり此等を作礼而去とは説かれたり、法界の千草万木地獄餓鬼等何の界も

諸法実相の作礼に非ずという事なし是れ即ち普賢菩薩なり、普とは法界賢とは作礼而去なり此れ即ち妙法蓮華経

なり、爰を以て品品の初めにも五字を題し終りにも五字を以て結し前後中間南無妙法蓮華経の七字なり、末法弘

通の要法唯此の一段に之れ有るなり、此等の心を失うて要法に結ばずんば末法弘通の法には不足の者なり剰え日

蓮が本意を失う可し、日蓮が弟子檀那別の才覚無益なり、妙楽の釈に云く「子父の法を弘む世界の益有り」と、

子とは地涌の菩薩なり父とは釈尊なり世界とは日本国なり益とは成仏なり法とは南無妙法蓮華経なり、今又以て

此くの如し父とは日蓮なり子とは日蓮が弟子檀那なり世界とは日本国なり益とは受持成仏なり法とは上行所伝の

題目なり

御義口伝卷下

= 弘安元年戊寅正月一日        執筆 日興

       御義口伝 終

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