寂日房御書

寂日房御書               /弘安二年九月 五十八歳御作

                        +与寂日房日家 於身延

 是まで御をとづれかたじけなく候、夫れ人身をうくる事はまれなるなり、已にまれなる人身をうけたり又あひ

がたきは仏法是も又あへり、同じ仏法の中にも法華経の題目にあひたてまつる結句題目の行者となれり、まこと

にまことに過去十万億の諸仏を供養する者なり。

 日蓮は日本第一の法華経の行者なりすでに勧持品の二十行の偈の文は日本国の中には日蓮一人よめり、八十万

億那由佗の菩薩は口には宣たれども修行したる人一人もなし、かかる不思議の日蓮をうみ出だせし父母は日本国

の一切衆生の中には大果報の人なり、父母となり其の子となるも必ず宿習なり、若し日蓮が法華経釈迦如来の御

使ならば父母あに其の故なからんや、例せば妙荘厳王浄徳夫人浄蔵浄眼の如し、釈迦多宝の二仏日蓮が父母と変

じ給うか、然らずんば八十万億の菩薩の生れかわり給うか、

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又上行菩薩等の四菩薩の中の垂迹か不思議に覚え候、一切の物にわたりて名の大切なるなり、さてこそ天台大師

五重玄義の初めに名玄義と釈し給へり。

 日蓮となのる事自解仏乗とも云いつべし、かやうに申せば利口げに聞えたれども道理のさすところさもやあら

ん、経に云く「日月の光明の能く諸の幽冥を除くが如く斯の人世間に行じて能く衆生の闇を滅す」と此の文の心

よくよく案じさせ給へ、斯人行世間の五の文字は上行菩薩末法の始の五百年に出現して南無妙法蓮華経の五字の

光明をさしいだして無明煩悩の闇をてらすべしと云う事なり、日蓮は此の上行菩薩の御使として日本国の一切衆

生に法華経をうけたもてと勧めしは是なり、此の山にしてもをこたらず候なり、今の経文の次下に説いて云く「

我が滅度の後に於て応に此の経を受持すべし是の人仏道に於て決定して疑い有ること無けん」と云云、かかる者

の弟子檀那とならん人人は宿縁ふかしと思うて日蓮と同じく法華経を弘むべきなり、法華経の行者といはれぬる

事はや不祥なりまぬかれがたき身なり、彼のはんくわいちやうりやうまさかどすみともといはれたる者は名をを

しむ故にはぢを思う故についに臆したることはなし、同じはぢなれども今生のはぢはもののかずならずただ後生

のはぢこそ大切なれ、獄卒だつえば(奪衣婆)懸衣翁が三途河のはたにていしやうをはがん時を思食して法華経

の道場へまいり給うべし、法華経は後生のはぢをかくす衣なり、経に云く「裸者の衣を得たるが如し」云云。

 此の御本尊こそ冥途のいしやうなれよくよく信じ給うべし、をとこのはだへをかくさざる女あるべしや子のさ

むさをあわれまざるをやあるべしや、釈迦仏法華経はめとをやとの如くましまし候ぞ、日蓮をたすけ給う事今生

の恥をかくし給う人なり後生は又日蓮御身のはぢをかくし申すべし、昨日は人の上今日は我が身の上なり、花さ

けばこのみなりよめのしうとめになる事候ぞ、信心をこたらずして南無妙法蓮華経と唱え給うべし、度度の御音

信申しつくしがたく候ぞ、此の事寂日房くわしくかたり給へ。

=九月十六日                  日蓮花押

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