新尼御前御返事

新尼御前御返事                 /文永十二年二月 五十四歳御作

 あまのり(甘海苔)一ふくろ送り給び畢んぬ、又大尼御前よりあまのり畏こまり入つて候、此の所をば身延の

嶽と申す駿河の国は南にあたりたり彼の国の浮島がはらの海ぎはより此の甲斐の国波木井の郷身延の嶺へは百余

里に及ぶ、余の道千里よりもわづらはし、富士河と申す日本第一のはやき河北より南へ流れたり、此の河は東西

は高山なり谷深く左右は大石にして高き屏風を立て並べたるがごとくなり、河の水は筒の中に強兵が矢を射出し

たるがごとし、此の河の左右の岸をつたい或は河を渡り或時は河はやく石多ければ舟破れて微塵となる、かかる

所をすぎゆきて身延の嶺と申す大山あり、東は天子の嶺南は鷹取りの嶺西は七面の嶺北は身延の嶺なり、高き屏

風を四ついたてたるがごとし、峯に上つてみれば草木森森たり谷に下つてたづぬれば大石連連たり、大狼の音山

に充満し金ヒのなき谷にひびき鹿のつまをこうる音あはれしく蝉のひびきかまびすし、春の花は夏にさき秋の菓

は冬になる、たまたま見るものはやまかつがたき木をひろうすがた時時とぶらう人は昔なれし同朋なり、彼の商

山の四皓が世を脱れし心ち竹林の七賢が跡を隠せし山もかくやありけむ、峯に上つてわかめやをいたると見候へ

ばさにてはなくしてわらびのみ並び立ちたり、谷に下つてあまのりやをいたると尋ぬれば、あやまりてやみるら

んせりのみしげりふしたり、古郷の事はるかに思いわすれて候いつるに今此のあまのりを見候いてよしなき心を

もひいでてうくつらし、かたうみいちかはこみなと(片海市河小湊)の磯のほとりにて昔見しあまのりなり、色

形あぢわひもかはらず、など我が父母かはらせ給いけんとかたちがへなるうらめしさなみだをさへがたし。

 此れはさてとどめ候いぬ、但大尼御前の御本尊の御事おほせつかはされておもひわづらひて候、

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其の故は此の御本尊は天竺より漢土へ渡り候いしあまたの三蔵漢土より月氏へ入り候いし人人の中にもしるしを

かせ給はず、西域慈恩伝伝燈録等の書どもを開き見候へば五天竺の諸国の寺寺の本尊皆しるし尽して渡す、又漢

土より日本に渡る聖人日域より漢土へ入る賢者等のしるされて候、寺寺の御本尊皆かんがへ尽し日本国最初の寺

元興寺四天王寺等の無量の寺寺の日記、日本紀と申すふみより始めて多くの日記にのこりなく註して候へば其の

寺寺の御本尊又かくれなし、其の中に此の本尊はあへてましまさず。

 人疑つて云く経論になきかなければこそそこばくの賢者等は画像にかき奉り木像にもつくりたてまつらざるら

めと云云、而れども経文は眼前なり御不審の人人は経文の有無をこそ尋ぬべけれ、前代につくりかかぬを難ぜん

とをもうは僻案なり、例せば釈迦仏は悲母孝養のために利天に隠れさせ給いたりしをば一閻浮提の一切の諸人

しる事なし、但目蓮尊者一人此れをしれり此れ又仏の御力なりと云云、仏法は眼前なれども機なければ顕れず時

いたらざればひろまらざる事法爾の道理なり、例せば大海の潮の時に随つて増減し上天の月の上下にみちかくる

がごとし。

 今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて世に出現せさせ給いても四十余年其の後又法

華経の中にも迹門はせすぎて宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕し神力品属累に事極りて候いしが、金色世界

の文殊師利兜史多天宮の弥勒菩薩補陀落山の観世音日月浄明徳仏の御弟子の薬王菩薩等の諸大士我も我もと望み

給いしかども叶はず、是等は智慧いみじく才学ある人人とはひびけどもいまだ法華経を学する日あさし学も始な

り、末代の大難忍びがたかるべし、我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり此れにゆづるべし

とて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、

あなかしこあなかしこ我が滅度の後正法一千年像法一千年に弘通すべからず、末法の始に

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謗法の法師一閻浮提に充満して諸天いかりをなし彗星は一天にわたらせ大地は大波のごとくをどらむ、大旱魃大

火大水大風大疫病大飢饉大兵乱等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人人各各甲冑をきて弓杖を手ににぎら

む時、諸仏諸菩薩諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕ること雨のごとくしげか

らん時此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば諸王は国を扶け万民は難をのがれん、乃至後生の大火炎を脱る

べしと仏記しをかせ給いぬ、而るに日蓮上行菩薩にはあらねどもほぼ兼てこれをしれるは彼の菩薩の御計らいか

と存じて此の二十余年が間此れを申す、此の法門弘通せんには如来現在猶多怨嫉況滅度後一切世間多怨難信と申

して第一のかたきは国主並びに郡郷等の地頭領家万民等なり、此れ又第二第三の僧侶がうつたへについて行者を

或は悪口し或は罵詈し或は刀杖等云云。

 而るを安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし、其の故は天照太神跡を垂れ給へり、昔は伊勢

の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深くありて天照太神の御帰依浅かりし

かば、太神瞋りおぼせし時源右将軍と申せし人御起請文をもつてあをかの小大夫に仰せつけて頂戴し伊勢の外宮

にしのびをさめしかば太神の御心に叶はせ給いけるかの故に日本を手ににぎる将軍となり給いぬ、此の人東条の

郡を天照太神の御栖と定めさせ給う、されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず安房の国東条の郡にすませ給

うか、例えば八幡大菩薩は昔は西府にをはせしかども、中比は山城の国男山に移り給い、今は相州鎌倉鶴が岡に

栖み給うこれもかくのごとし。

 日蓮は一閻浮提の内日本国安房の国東条の郡に始めて此の正法を弘通し始めたり、随つて地頭敵となる彼の者

すでに半分ほろびて今半分あり、領家はいつわりをろかにて或時は信じ或時はやぶる不定なりしが日蓮御勘気を

蒙りし時すでに法華経をすて給いき、日蓮先よりけさんのついでごとに難信難解と申せしはこれなり、

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日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師とをぼし

めされなん、又経文のごとく不信の人にわたしまいらせずば日蓮偏頗はなけれども尼御前我が身のとがをばしら

せ給はずしてうらみさせ給はんずらん、此の由をば委細に助阿闍梨の文にかきて候ぞ召して尼御前の見参に入れ

させ給うべく候。

 御事にをいては御一味なるやうなれども御信心は色あらわれて候、さどの国と申し此の国と申し度度の御志あ

りてたゆむけしきはみへさせ給はねば御本尊はわたしまいらせて候なり、それも終にはいかんがとをそれ思う事

薄冰をふみ太刀に向うがごとし、くはしくは又又申すべく候、それのみならずかまくらにも御勘気の時千が九百

九十九人は堕ちて候人人もいまは世間やわらぎ候かのゆへにくゆる人人も候と申すげに候へども此れはそれには

似るべくもなくいかにもふびんには思いまいらせ候へども骨に肉をばかへぬ事にて候へば法華経に相違せさせ給

い候はん事を叶うまじき由いつまでも申し候べく候、恐恐謹言。

=二月十六日                  日蓮花押

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