始聞仏乗義

始聞仏乗義   /建治四年二月 五十七歳御作

+                   与富木常忍

 青鳧七結下州より甲州に送らる其の御志悲母の第三年に相当る御孝養なり、問う止観明静前代未聞の心如何、

答う円頓止観なり、問う円頓止観の意何ん、答う法華三昧の異名なり、問う法華三昧の心如何、答う夫れ末代の

凡夫法華経を修行する意に二有り一には就類種の開会二には相対種の開会なり、問う此の名は何より出るや、

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答う法華経第三薬草喩品に云く「種相体性の四字なり其の四字の中に第一の種の一字に二あり、一には就類種二

には相対種なり」其の就類種とは釈に云く「凡そ心有る者は是れ正因の種なり随つて一句を聞くは是れ了因の種

なり低頭挙手は是れ縁因の種なり」等云云、其の相対種とは煩悩と業と苦との三道其の当体を押えて法身と般若

と解脱と称する是なり、其の中に就類種の一法は宗は法華経に有りと雖も少分又爾前の経経にも通ず、妙楽云く

「別経は唯就類の種有つて而も相対無し」と云云、此の釈の別教と云うは本の別教には非ず爾前の円或は他師の

円なり、又法華経の迹門の中供養舎利已下二十余行の法門も大体就類種の開会なり、問う其の相対種の心如何、

答う止観に云く「云何なるか聞円法なる生死即法身煩悩即般若結業即解脱なりと聞くなり三の名有りと雖も而も

三の体無し是れ一体なりと雖も而も三の名を立つ是の三即ち一相にして其れ実に異有ること無し、法身究竟すれ

ば般若も解脱も亦究竟な般若清浄なれば余亦清浄なり解脱自在なれば余亦自在なり一切の法を聞くこと亦是の如

し皆仏法を具して減少する所無し是を聞円と名く」等云云、此の釈は即ち相対種の手法なり其の意如何、答う生

死とは我等が苦果の依身なり所謂五陰十二入十八界なり煩悩とは見思麈沙無明の三惑なり結業とは五逆十悪四重

等なり、法身とは法身如来般若とは報身如来解脱とは応身如来なり我等衆生無始曠劫より已来此の三道を具足し

今法華経に値つて三道即三徳となるなり。

 難じて云く火より水出でず石より草生ぜず悪因悪果を感じ善因善報を生ずるは仏教の定れる習なり而るに我等

其の根本を尋ね究むれば父母の精血赤白二ィ和合して一身と為る悪の根本不浄の源なり、設い大海を傾けて之を

洗うとも清浄なる可らず又此れ苦果の依身は其の根本を探り見れば貧瞋癡の三毒より出ずるなり、此の煩悩苦果

の二道に依つて業を構う此の業道即ち是れ結縛の法なり、譬えば篭に入れる鳥の如し如何ぞ此の三道を以て三仏

因と称するや、譬えば糞を集めて栴檀を造れども終に香しからざるが如し、答う汝が難大いに道理なり

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我此の事を弁えず但し付法蔵の第十三天台大師の高祖竜樹菩薩妙法の妙の一字を釈して譬えば大薬師の能く毒を

以て薬と為すが如し等云云、毒と云うは何物ぞ我等が煩悩業苦の三道なり薬とは何物ぞ法身般若解脱なり、能く

毒を以て薬と為すとは何物ぞ三道を変じて三徳と為すのみ、天台云く妙は不可思議と名づく等云云、又云く一心

乃至不可思議境意此に在り等云云、即身成仏と申すは此れ是なり、近代の華厳真言等此の義を盗み取りて我が物

と為す大偸盗天下の盗人是なり。

問うて云く凡夫の位も此の秘法の心を知るべきや、答う私の答は詮無し竜樹菩薩の大論に云く[九十三なり]「

今漏尽の阿羅漢還つて作仏すと云うは唯仏のみ能く知ろしめす、論議とは正しく其の事を論ず可し測り知ること

能わず是の故に戯論すべからず若し仏を求め得る時乃ち能く了知す余人は信ずべく而も未だ知るべからず」等云

云、此の釈は爾前の別教の十一品の断無明円教の四十一品の断無明の大菩薩普賢文殊等も未だ法華経の意を知ら

ず何に況や蔵通二教の三乗をや何に況や末代の凡夫をやと云う論文なり、之を以て案ずるに法華経の唯仏与仏乃

能究尽とは爾前の灰身滅智の二乗の煩悩業苦の三道を押えて法身般若解脱と説くに二乗還つて作仏す菩薩凡夫も

亦是くの如しと釈するなり、故に天台の云く二乗根敗す之を名けて毒と為す今経に記を得る即ち是れ毒を変じて

薬と為す、論に云く余経は秘密に非ず法華は是れ秘密なり等云云、妙楽云く論に云くとは大論なりと云云、問う

是くの如し之を聞いて何の益有るや、答えて云く始めて法華経を聞くなり、妙楽云く若し三道即是れ三徳と信ぜ

ば尚能く二死の河を渡る況や三界をやと云云、末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も

又即身成仏せん此れ第一の孝養なり病身為るの故に委細ならず又又申す可し。

=   建治四年[太歳戊寅]二月二十八日          日蓮花押

%  富木殿

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