富城入道殿御返事

富城入道殿御返事 /弘安四年十月 六十歳御作

+           与富木胤継 於身延

 今月十四日の御札同じき十七日到来、又去ぬる後の七月十五日の御消息同じて二十比到来せり、其の外度度の

貴札を賜うと雖も老病為るの上又不食気に候間未だ返報を奉らず候条其の恐れ少からず候、何よりも去ぬる後の

七月御状の内に云く鎮西には大風吹き候て浦浦島島に破損の船充満の間乃至京都には思円上人又云く理豈然らん

や等云云、此の事別して此の一門の大事なり総じて日本国の凶事なり仍つて病を忍んで一端是れを申し候はん、

是偏に日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん事兼て知る、其の故は日本国の真言宗等の七宗八宗の人人の

大科今に始めざる事なり然りと雖も且く一を挙げて万を知らしめ奉らん、去ぬる承久年中に隠岐の法皇義時を失

わしめんが為に調伏を山の座主東寺御室七寺園城に仰せ付けられ、仍つて同じき三年の五月十五日鎌倉殿の御代

官伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失わしめ畢んぬ、然る間同じき十九日二十日鎌倉中に騒ぎて同じき二十一日

山道海道北陸道の三道より十九万騎の兵者を指し登す、同じき六月十三日其の夜の戌亥の時より青天俄に陰りて

震動雷電して武士共首の上に鳴り懸り鳴り懸りし上車軸の如き雨は篠を立つるが如し、爰に十九万騎の兵者等遠

き道は登りたり兵乱に米は尽きぬ馬は疲れたり在家の人は皆隠れ失せぬ冑は雨に打たれて緜の如し、武士共宇治

勢多に打ち寄せて見ければ常には三丁四丁の河なれども既に六丁七丁十丁に及ぶ、然る間一丈二丈の大石は枯葉

の如く浮び五丈六丈の大木流れ塞がること間無し、昔利綱高綱等が渡せし時には似る可くも無し武士之を見て皆

臆してこそ見えたりしが、然りと雖も今日を過さば皆心を飜し堕ちぬ可し去る故に馬筏を作りて之を渡す処或は

百騎或は千万騎此くの如く皆我も我もと度ると雖も

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或は一丁或は二丁三丁渡る様なりと雖も彼の岸に付く者は一人も無し、然る間緋綴赤綴等の甲其の外弓箭兵杖白

星の冑等の河中に流れ浮ぶ事は猶長月神無月の紅葉の吉野立田の河に浮ぶが如くなり、爰に叡山東寺七寺園城寺

等の高僧等之を聞くことを得て真言の秘法大法の験とこそ悦び給いける、内裏の紫宸殿には山の座主東寺御室五

壇十五壇の法を弥盛んに行われければ法皇の御叡感極り無く玉の厳を地に付け大法師等の御足を御手にて摩給い

しかば大臣公卿等は庭の上へ走り落ち五体を地に付け高僧等を敬い奉る。

 又宇治勢田にむかへたる公卿殿上人は冑を震い挙げて大音声を放つて云く義時所従の毛人等慥に承われ昔より

今に至るまで王法に敵を作し奉る者は何者か安穏なるや、狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く修羅が日

月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し遠き例は且く之を置く、近くは我が朝に代始まつて人王八十

余代の間大山の皇子大石の小丸を始と為て二十余人王法に敵を為し奉れども一人として素懐を遂げたる者なし皆

頚を獄門に懸けられ骸を山野に曝す関東の武士等或は源平或は高家等先祖相伝の君を捨て奉り伊豆の国の民為る

義時が下知に随う故にかかる災難は出来するなり、王法に背き奉り民の下知に随う者は師子王が野狐に乗せられ

て東西南北に馳走するが如し今生の恥之れを何如、急ぎ急ぎ冑を脱ぎ弓弦をはづして参参と招きける程に、何に

有りけん申酉の時にも成りしかば関東の武士等河を馳せ渡り勝ちかかりて責めし間京方の武者共一人も無く山林

に逃げ隠るるの間、四つの王をば四つの島へ放ちまいらせ又高僧御師御房達は或は住房を追われ或は恥辱に値い

給いて今に六十年の間いまだそのはぢをすすがずとこそ見え候に、今亦彼の僧侶の御弟子達御祈祷承はられて候

げに候あひだいつもの事なれば秋風に纔の水に敵船賊船なんどの破損仕りて候を大将軍生取たりなんど申し祈り

成就の由を申し候げに候なり、又蒙古の大王の頚の参りて候かと問い給うべし、其の外はいかに申し候とも御返

事あるべからず御存知のためにあらあら申し候なり。

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 乃至此の一門の人人にも相触れ給ふべし又必ずしいぢの四郎が事は承り候い畢んぬ、予既に六十に及び候へば

天台大師の御恩報じ奉らんと仕り候あひだみぐるしげに候房をひきつくろい候ときにさくれうにおろして候なり

、銭四貫をもちて一閻浮提第一の法華堂造りたりと霊山浄土に御参り候はん時は申しあげさせ給うべし、恐恐。

= 十月二十二日                日蓮花押

% 進上富城入道殿御返事