太田殿女房御返事

太田殿女房御返事 /建治元年 五十四歳御作

+ 於身延

 八月分の八木一石給候い了んぬ、即身成仏と申す法門は諸大乗経並びに大日経等の経文に分明に候ぞ、爾れば

とて彼の経経の人人の即身成仏と申すは二の増上慢に堕ちて必ず無間地獄へ入り候なり、記の九に云く「然して

二の上慢深浅無きにあらず如と謂うは乃ち大無慙の人と成る」等云云、諸大乗経の煩悩即菩提生死即涅槃の即身

成仏の法門はいみじくをそたかきやうなれども此れはあえて即身成仏の法門にはあらず、其の心は二乗と申す者

は鹿苑にして見思を断じていまだ塵沙無明をば断ぜざる者が我は已に煩悩を尽したり無余に入りて灰身滅智の者

となれり、灰身なれば即身にあらず滅智なれば成仏の義なし、されば凡夫は煩悩業もあり苦果の依身も失う事な

ければ煩悩業を種として報身応身ともなりなん、苦果あれば生死即涅槃とて法身如来ともなりなんと二乗をこそ

弾呵せさせ給いしか、さればとて煩悩業苦が三身の種とはなり候はず、今法華経にして有余無余の二乗が無き煩

悩業苦をとり出して即身成仏と説き給う時二乗の即身成仏するのみならず凡夫も即身成仏するなり

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此の法門をだにもくはしく案じほどかせ給わば華厳真言等の人人の即身成仏と申し候は依経に文は候へども其の

義はあえてなき事なり僻事の起り此れなり。

 弘法慈覚智証等は此の法門に迷惑せる人なりとみ候、何に況や其の已下の古徳先徳等は言うに足らず、但天台

の第四十六の座主東陽の忠尋と申す人こそ此の法門はすこしあやぶまれて候事は候へ、然れども天台の座主慈覚

の末をうくる人なればいつわりをろかにてさてはてぬるか、其の上日本国に生を受くる人はいかでか心にはをも

うとも言に出し候べき、しかれども釈迦多宝十方の諸仏地涌竜樹菩薩天台妙楽伝教大師は即身成仏は法華経に限

るとをぼしめされて候ぞ、我が弟子等は此の事ををもひ出にせさせ給え。

 妙法蓮華経の五字の中に諸論師諸人師の釈まちまちに候へども皆諸経の見を出でず、但竜樹菩薩の大論と申す

論に「譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」と申す釈こそ此の一字を心へさせ給いたりけるかと見へて

候へ、毒と申すは苦集の二諦生死の因果は毒の中の毒にて候ぞかし、此の毒を生死即涅槃煩悩即菩提となし候を

妙の極とは申しけるなり、良薬と申すは毒の変じて薬となりけるを良薬とは申し候いけり、此の竜樹菩薩は大論

と申す文の一百の巻に華厳般若等は妙にあらず法華経こそ妙にて候へと申す釈なり、此の大論は竜樹菩薩の論羅

什三蔵と申す人の漢土へわたして候なり、天台大師は此の法門を御らむあつて南北をばせめさせ給いて候ぞ、而

るを漢土唐の中日本弘仁已後の人人のワの出来し候いける事は唐の第九代宗皇帝の御宇不空三蔵と申す人の天竺

より渡して候論あり菩提心論と申す、此の論は竜樹の論となづけて候、此の論に云く「唯真言法の中にのみ即身

成仏する故に是れ三摩地の法を説く諸教の中に於て闕て書せず」と申す文あり、此の釈にばかされて

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弘法慈覚智証等の法門はさんざんの事にては候なり、但し大論は竜樹の論たる事は自他あらそう事なし、菩提心

論は竜樹の論不空の論と申すあらそい有り、此れはいかにも候へさてをき候ぬ、但不審なる事は大論の心ならば

即身成仏は法華経に限るべし文と申し道理きわまれり、菩提心論が竜樹の論とは申すとも大論にそむいて真言の

即身成仏を立つる上唯の一字は強と見へて候、何の経文に依りて唯の一字をば置いて法華経をば破し候いけるぞ

証文尋ぬべし、竜樹菩薩の十住毘婆娑論に云く「経に依らざる法門をば黒論」と云云自語相違あるべからず、大

論の一百に云く「而も法華等の阿羅漢の授決作仏乃至譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し」等云云、此

の釈こそ即身成仏の道理はかかれて候へ、但菩提心論と大論とは同じ竜樹大聖の論にて候が水火の異をばいかん

せんと見候に此れは竜樹の異説にはあらず訳者の所為なり、羅什は舌やけず不空は舌やけぬ、妄語はやけ実語は

やけぬ事顕然なり、月支より漢土へ経論わたす人一百七十六人なり其の中に羅什一人計りこそ教主釈尊の経文に

私の言入れぬ人にては候へ、一百七十五人の中羅什より先後一百六十四人は羅什の智をもつて知り候べし、羅什

来らせ給いて前後一百六十四人がワも顕れ新訳の十一人がワも顕れ又こざかしくなりて候も羅什の故なり、此れ

私の義にはあらず感通伝に云く「絶後光前」と云云、前を光らすと申すは後漢より後秦までの訳者、後を絶すと

申すは羅什已後善無畏金剛智不空等も羅什の智をうけてすこしこざかしく候なり、感通伝に云く「已下の諸人並

びに皆俟つ事」されば此の菩提心論の唯の文字は設い竜樹の論なりとも不空の私の言なり、何に況や次下に「諸

教の中に於て闕いて書せず」とかかれて候存外のあやまりなり。

 即身成仏の手本たる法華経をば指をいてあとかたもなき真言に即身成仏を立て剰え唯の一字ををかるる条天下

第一の僻見なり此れ偏に修羅根性の法門なり、天台智者大師の文句の九に寿量品の心を釈して云く「仏三世に於

て等しく三身有り諸教の中に於て之を秘して伝えず」とかかれて候、此れこそ即身成仏の明文にては候へ、

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不空三蔵此の釈を消さんが為に事を竜樹に依せて「唯真言の法の中にのみ即身成仏するが故に是の三摩地の法を

説く諸教の中に於て闕いて書せず」とかかれて候なり、されば此の論の次下に即身成仏をかかれて候があへて即

身成仏にはあらず生身得忍に似て候、此の人は即身成仏はめづらしき法門とはきかれて候へども即身成仏の義は

あへてうかがわぬ人人なり、いかにも候へば二乗成仏久遠実成を説き給う経にあるべき事なり、天台大師の「於

諸教中秘之不伝」の釈は千且千且恐恐。

 外典三千余巻は政当の相違せるに依つて代は濁ると明す、内典五千七千余巻は仏法の僻見に依つて代濁るべし

とあかされて候、今の代は外典にも相違し内典にも違背せるかのゆへにこの大科一国に起りて已に亡国とならむ

とし候か、不便不便。

= 七月二日            日蓮花押

% 太田殿女房御返事

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