曾谷殿御返事

曾谷殿御返事   /建治二年 五十五歳御作

 夫れ法華経第一方便品に云く「諸仏の智慧は甚深無量なり」云云、釈に云く「境淵無辺なる故に甚深と云い智

水測り難き故に無量と云う」と、抑此の経釈の心は仏になる道は豈境智の二法にあらずや、されば境と云うは万

法の体を云い智と云うは自体顕照の姿を云うなり、而るに境の淵ほとりなくふかき時は智慧の水ながるる事つつ

がなし、此の境智合しぬれば即身成仏するなり、法華以前の経は境智各別にして而も権教方便なるが故に成仏せ

ず、今法華経にして境智一如なる間開示悟入の四仏知見をさとりて成仏するなり、此の内証に声聞辟支仏更に及

ばざるところを次下に一切声聞辟支仏所不能知と説かるるなり、此の境智の二法は何物ぞ但南無妙法蓮華経の五

字なり、此の五字を地涌の大士を召し出して結要付属せしめ給う是を本化付属の法門とは云うなり。

 然るに上行菩薩等末法の始の五百年に出生して此の境智の二法たる五字を弘めさせ給うべしと見えたり経文赫

赫たり明明たり誰か是を論ぜん、日蓮は其の人にも非ず又御使にもあらざれども先序分にあらあら弘め候なり、

既に上行菩薩釈迦如来より妙法の智水を受けて末代悪世の枯槁の衆生に流れかよはし給う是れ智慧の義なり、釈

尊より上行菩薩へ譲り与へ給う然るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む、又是には総別の二義あり総別の二義

少しも相そむけば成仏思もよらず輪廻生死のもといたらん、例せば大通仏の第十六の釈迦如来に下種せし今日の

声聞は全く弥陀薬師に遇て成仏せず譬えば大海の水を家内へくみ来らんには家内の者皆縁をふるべきなり、然れ

ども汲み来るところの大海の一滴を閣きて又他方の大海の水を求めん事は大僻案なり大愚癡なり、法華経の大海

の智慧の水を受けたる根源の師を忘れて余へ心をうつさば必ず輪廻生死のわざはいなるべし、但し師なりとも誤

ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし

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世間仏法の道理によるべきなり、末世の僧等は仏法の道理をばしらずして我慢に著して師をいやしみ檀那をへつ

らふなり、但正直にして少欲知足たらん僧こそ真実の僧なるべけれ、文句の一に云く「既に未だ真を発さざれば

第一義天に慙じ諸の聖人に愧ず即是れ有羞の僧なり観慧若し発するは即真実の僧なり」云云、涅槃経に云く「若

し善比丘あつて法を壊る者を見て置いて呵責し駈遣し挙処せずんば当に知るべし是の人は仏法の中の怨なり。若

し能く駈遣し呵責し挙処せんは是れ我が弟子真の声聞なり」云云、此の文の中に見壊法者の見と置不呵責の置と

を能く能く心腑に染む可きなり、法華経の敵を見ながら置いてせめずんば師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし

、南岳大師の云く「諸の悪人と倶に地獄に堕ちん」云云、謗法を責めずして成仏を願はば火の中に水を求め水の

中に火を尋ぬるが如くなるべしはかなしはかなし、何に法華経を信じ給うとも謗法あらば必ず地獄にをつべし、

うるし千ばいに蟹の足一つ入れたらんが如し、毒気深入失本心故は是なり、経に云く「在在諸の仏土に常に師と

倶に生ぜん」又云く「若し法師に親近せば速かに菩薩の道を得ん是の師に随順して学せば恒沙の仏を見たてまつ

ることを得ん」釈に云く「本此の仏に従つて初めて道心を発し亦此の仏に従つて不退地に住す」又云く「初め此

の仏菩薩に従つて結縁し還此の仏菩薩に於て成就す」云云、返す返すも本従たがへずして成仏せしめ給うべし、

釈尊は一切衆生の本従の師にて而も主親の徳を備へ給う、此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流

罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり、若

し此等の義をたがへさせ給はば日蓮も後生は助け申すまじく候、恐恐謹言。

= 建治二年丙子八月三日                   日蓮花押

%  曾谷殿

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