兵衛志殿御返事

兵衛志殿御返事   /建治元年八月 五十四歳御作

+               於身延

 鵞目二貫文武蔵房円日を使にて給び候い畢んぬ、人王三十六代皇極天皇と申せし王は女人にてをはしき、其の

時入鹿の臣と申す者あり、あまりおごりのものぐるわしさに王位をうばはんとふるまいしを、天皇王子等不思議

とはをぼせしかどもいかにも力及ばざりしほどに、大兄の王子軽の王子等なげかせ給いて中臣の鎌子と申せし臣

に申しあわせさせ給いしかば、臣申さくいかにも人力はかなうべしとはみへ候はず、馬子が例をひきて教主釈尊

の御力ならずば叶がたしと申せしかばさらばとて釈尊を造り奉りていのりしかば入鹿ほどなく打れにき、此の中

臣の鎌子と申す人は後には姓をかへて藤原の鎌足と申し内大臣になり大職冠と申す人今の一の人の御先祖なり、

此の釈迦仏は今の興福寺の本尊なり、されば王の王たるも釈迦仏臣の臣たるも釈迦仏神国の仏国となりし事もえ

もん(右衛門)のたいう殿の御文と引き合せて心へさせ給へ、今代の他国にうばわれんとする事釈尊をいるがせ

にする故なり神の力も及ぶべからずと申すはこれなり、各各は二人はすでにとこそ人はみしかどもかくいみじく

みへさせ給うはひとえに釈迦仏法華経の御力なりとをぼすらむ、又此れにもをもひ候、

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後生のたのもしさ申すばかりなし、此れより後もいかなる事ありともすこしもたゆむ事なかれ、いよいよはりあ

げてせむべし、設ひ命に及ぶともすこしもひるむ事なかれ、あなかしこあなかしこ、恐恐謹言。

= 八月二十一日 日蓮花押

% 兵衛志殿御返事