四条金吾殿御返事

四条金吾殿御返事

 はるかに申し承り候はざりつればいぶせく候いつるにかたがたの物と申し御つかいと申しよろこび入つて候又

まほりまいらせ候、所領の間の御事は上よりの御文ならびに御消息引き合せて見候い畢んぬ、此の事は御文なき

さきにすいして候、上には最大事とおぼしめされて候へども御きんずの人人のざんそうにてあまりに所領をきら

い上をかろしめたてまつり候、ぢうあうの人こそををく候にかくまで候へば且らく御恩をばおさへさせ給うべく

や候らんと申しぬらんとすいして候なりそれにつけては御心えあるべし御用意あるべし、我が身と申しをやるい

しんと申しかたがた御内に不便といはれまいらせて候大恩の主なる上すぎにし日蓮が御かんきの時日本一同にに

くむ事なれば弟子等も或は所領をををかたよりめされしかば又方方の人人も或は御内内をいだし或は所領をおい

なんどせしに其の御内になに事もなかりしは御身にはゆゆしき大恩と見へ候。

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 このうへはたとひ一分の御恩なくともうらみまいらせ給うべき主にはあらず、それにかさねたる御恩を申し所

領をきらはせ給う事御とがにあらずや、賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利衰毀誉

称譏苦楽なり、をを心は利あるによろこばずをとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必

ず天はまほらせ給うなりしかるをひりに主をうらみなんどし候へばいかに申せども天まほり給う事なし、訴訟を

申せど叶いぬべき事もあり、申さぬに叶うべきを申せば叶わぬ事も候、夜めぐりの殿原の訴訟は申すは叶いぬべ

きよしをかんがへて候しにあながちになげかれし上日蓮がゆへにめされて候へばいかでか不便に候はざるべき、

ただし訴訟だにも申し給はずばいのりてみ候はんと申せしかば、さうけ給わり候いぬと約束ありて又をりかみを

しきりにかき人人訴訟ろんなんどありと申せし時に此の訴訟よも叶わじとをもひ候いしがいままでのびて候。

 だいがくどのゑもんのたいうどの(大学殿衛門大夫殿)の事どもは申すままにて候あいだいのり叶いたるやう

にみえて候、はきり(波木井)どのの事は法門の御信用あるやうに候へども此の訴訟は申すままには御用いなか

りしかばいかんがと存じて候いしほどにさりとてはと申して候いしゆへにや候けんすこししるし候か、これにを

もうほどなかりしゆへに又をもうほどなし、だんなと師とをもひあわぬいのりは水の上に火をたくがごとし、又

だんなと師とをもひあひて候へども大法を小法をもつてをかしてとしひさしき人人の御いのりは叶い候はぬ上、

我が身もだんなもほろび候なり。

 天台の座主明雲と申せし人は第五十代の座主なり、去ぬる安元二年五月に院勘をかほりて伊豆国へ配流山僧大

津よりうばいかへす、しかれども又かへりて座主となりぬ

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又すぎにし壽永二年十一月に義仲にからめとられし上頚うちきられぬ是はながされ頚きらるるをとがとは申さず

賢人聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時清盛が一類二十余人起請をかき連判を

して願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし山のなげきは我等がなげき山の悦びは我等

がよろこびと申して、近江の国二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に内には真言の大法をつく

し外には悪僧どもをもつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中

堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出してなわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をう

ち切りたりき、かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし去ぬる承久三年辛巳五六七

の三箇月が間京夷の合戦ありき、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山東寺七大寺園城寺等天照太神正八幡

山王等に一一に御いのりありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主慈円大僧正東寺御室三井寺の

常住院の僧正等は度度義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに

同じく十四日にいくさにまけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ、かかる事候へども真言はいかなるとがと

もあやしむる人候はず、をよそ真言の大法をつくす事明雲第一度慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、

今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ

給へ。

 されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく御内をばいでず我かまくらにうちいてさきざきよりも出仕とをき

やうにてときどきさしいでておはするならば叶う事も候なん、あながちにわるびれてみへさせ給うべからず、よ

くと名聞瞋との。

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