月水御書

月水御書   /文永元年四月 四十三歳御作

+          与大学三郎妻

 伝え承はる御消息の状に云く法華経を日ごとに一品づつ二十八日が間に一部をよみまいらせ候しが当時は薬王

品の一品を毎日の所作にし候、ただもとの様に一品づつをよみまいらせ候べきやらんと云云、法華経は一日の所

作に一部八巻二十八品或は一巻或は一品一偈一句一字或は題目ばかりを南無妙法蓮華経と只一遍となへ或は又一

期の間に只一度となへ或は又一期の間にただ一遍唱うるを聞いて随喜し或は又随喜する声を聞いて随喜し是体に

五十展転して末になりなば志もうすくなり随喜の心の弱き事二三歳の幼穉の者のはかなきが如く牛馬なんどの前

後を弁へざるが如くなりとも、他経を学する人の利根にして智慧かしこく舎利弗目連文殊弥勒の如くなる人の諸

経を胸の内にうかべて御坐まさん人人の御功徳よりも勝れたる事百千万億倍なるべきよし経文並に天台妙楽の六

十巻の中に見え侍り、されば経文には「仏の智慧を以て多少を籌量すとも其の辺を得ず」と説かれて仏の御智慧

すら此の人の功徳をばしろしめさず、仏の智慧のありがたさは此の三千大千世界に七日若しは二七日なんどふる

雨の数をだにもしろしめして御坐候なるが只法華経の一字を唱えたる人の功徳をのみ知しめさずと見えたり、何

に況や我等逆罪の凡夫の此の功徳をしり候いなんや、然りと云えども如来滅後二千二百余年に及んで五濁さかり

になりて年久し事にふれて善なる事ありがたし、設ひ善を作人も一の善に十の悪を造り重ねて結句は小善につけ

て大悪を造り心には大善を修したりと云ふ慢心を起す世となれり、然るに如来の世に出でさせ給いて候し国より

しては二十万里の山海をへだてて東によれる日域辺土の小嶋にうまれ五障の雲厚うして三従のきづなにつながれ

給へる女人なんどの御身として法華経を御信用候はありがたしなんどとも申すに限りなく候、

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凡そ一代聖教を披き見て顕密二道を究め給へる様なる智者学匠だにも近来は法華経を捨て念仏を申し候に何なる

御宿善ありてか此の法華経を一偈一句もあそばす御身と生れさせ給いけん。

されば此の御消息を拝し候へば優曇華を見たる眼よりもめづらしく一眼の亀の浮木の穴に値へるよりも乏き事

かなと心ばかりは有がたき御事に思いまいらせ候間、一言一点も随喜の言を加えて善根の余慶にもやとはげみ候

へども只恐らくは雲の月をかくし塵の鏡をくもらすが如く短く拙き言にて殊勝にめでたき御功徳を申し隠しくも

らす事にや候らんといたみ思ひ候ばかりなり、然りと云えども貴命もだすべきにあらず一滴を江海に加へ×火を

日月にそへて水をまし光を添ふると思し食すべし、先法華経と申すは八巻一巻一品一偈一句乃至題目を唱ふるも

功徳は同じ事と思し食すべし、譬えば大海の水は一滴なれども無量の江河の水を納めたり、如意宝珠は一珠なれ

ども万宝をふらす、百千万億の滴珠も又これ同じ法華経は一字も一の滴珠の如し、乃至万億の字も又万億の滴珠

の如し、諸経諸仏の一字一名号は江河の一滴の水山海の一石の如し、一滴に無量の水を備えず一石に無数の石の

徳をそなへもたず、若し然らば此の法華経は何れの品にても御坐しませ只御信用の御坐さん品こそめづらしくは

候へ。

総じて如来の聖教は何れも妄語の御坐すとは承り候はねども再び仏教を勘えたるに如来の金言の中にも大小権

実顕密なんど申す事経文より事起りて候、随って論師人師の釈義にあらあら見えたり、詮を取つて申さば釈尊の

五十余年の諸教の中に先四十余年の説教は猶うたがはしく候ぞかし、仏自ら無量義経に「四十余年未だ真実を顕

さず」と申す経文まのあたり説かせ給へる故なり、法華経に於ては仏自ら一句の文字を「正直に方便を捨てて但

だ無上道を説く」と定めさせ給いぬ、其の上多宝仏大地より涌出でさせ給いて「妙法華経皆是真実」と証明を加

へ十方の諸仏皆法華経の座にあつまりて舌を出して法華経の文字は一字なりとも妄語なるまじきよし助成をそへ

給へり、

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譬えば大王と后と長者等の一味同心に約束をなせるが如し、若し法華経の一字をも唱えん男女等十悪五逆四重等

の無量の重業に引かれて悪道におつるならば日月は東より出でさせ給はぬ事はありとも大地は反覆する事はあり

とも大海の潮はみちひぬ事はありとも、破たる石は合うとも江河の水は大海に入らずとも法華経を信じたる女人

の世間の罪に引かれて悪道に堕つる事はあるべからず、若し法華経を信じたる女人物をねたむ故腹のあしきゆへ

貪欲の深きゆへなんどに引れて悪道に堕つるならば釈迦如来多宝仏十方の諸仏無量曠劫よりこのかた持ち来り給

へる不妄語戒忽に破れて調達が虚誑罪にも勝れ瞿伽利が大妄語にも超えたらん争かしかるべきや。

法華経を持つ人憑しく有りがたし、但し一生が間一悪をも犯さず五戒八戒十戒十善戒二百五十戒五百戒無量の

戒を持ち一切経をそらに浮べ一切の諸仏菩薩を供養し無量の善根をつませ給うとも、法華経計りを御信用なく又

御信用はありとも諸経諸仏にも並べて思し食し又並べて思し食さずとも他の善根をば隙なく行じて時時法華経を

行じ法華経を用ひざる謗法の念仏者なんどにも語らひをなし、法華経を末代の機に叶はずと申す者を科とも思し

食さずば一期の間行じさせ給う処の無量の善根も忽にうせ並に法華経の御功徳も且く隠れさせ給いて、阿鼻大城

に堕ちさせ給はん事雨の空にとどまらざるが如く峰の石の谷へころぶが如しと思し食すべし、十悪五逆を造れる

者なれども法華経に背く事なければ往生成仏は疑なき事に侍り、一切経をたもち諸仏菩薩を信じたる持戒の人な

れども法華経を用る事無ければ悪道に堕つる事疑なしと見えたり。

 予が愚見をもつて近来の世間を見るに多くは在家出家誹謗の者のみあり、但し御不審の事法華経は何れの品も

先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り、余品は皆枝葉

にて候なり、されば常の御所作には方便品の長行と寿量品の長行とを習い読ませ給い候へ、又別に書き出しても

あそばし候べく候、

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余の二十六品は身に影の随ひ玉に財の備わるが如し、寿量品方便品をよみ候へば自然に余品はよみ候はねども備

はり候なり、薬王品提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども提婆品は方便品の枝葉薬王品は方便

品と寿量品の枝葉にて候、されば常には此の方便品寿量品の二品をあそばし候て余の品をば時時御いとまのひま

にあそばすべく候。

 又御消息の状に云く日ごとに三度づつ七つの文字を拝しまいらせ候事と、南無一乗妙典と一万遍申し候事とを

ば日ごとにし候が、例の事に成つて候程は御経をばよみまいらせ候はず、拝しまいらせ候事も一乗妙典と申し候

事もそらにし候は苦しかるまじくや候らん、それも例の事の日数の程は叶うまじくや候らん、いく日ばかりにて

よみまいらせ候はんずる等と云云、此の段は一切の女人ごとの御不審に常に問せ給い候御事にて侍り、又古へも

女人の御不審に付いて申したる人も多く候へども一代聖教にさして説かれたる処のなきかの故に証文分明に出し

たる人もおはせず、日蓮粗聖教を見候にも酒肉五辛 婬事なんどの様に不浄を分明に月日をさして禁めたる様に

月水をいみたる経論を未だ勘へず候なり、在世の時多く盛んの女人尼になり仏法を行ぜしかども月水の時と申し

て嫌はれたる事なし、是をもつて推し量り侍るに月水と申す物は外より来れる不浄にもあらず、只女人のくせか

たわ生死の種を継ぐべき理にや、又長病の様なる物なり例せば屎尿なんどは人の身より出れども能く 浄くなし

ぬれば別にいみもなし是体に侍る事か。

 されば印度尸那なんどにもいたくいむよしも聞えず、但し日本国は神国なり此の国の習として仏菩薩の垂迹不

思議に経論にあひにぬ事も多く侍るに是をそむけば現に当罰あり、委細に経論を勘へ見るに仏法の中に随方毘尼

と申す戒の法門は是に当れり、此の戒の心はいたう事かけざる事をば少少仏教にたがふとも其の国の風俗に違う

べからざるよし仏一つの戒を説き給へり、此の由を知ざる智者共神は鬼神なれば敬ふべからずなんど申す強義を

申して多くの檀那を損ずる事ありと見えて候なり、

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若し然らば此の国の明神多分は此の月水をいませ給へり、生を此の国にうけん人人は大に忌み給うべきか、但し

女人の日の所作は苦しかるべからずと覚え候か、元より法華経を信ぜざる様なる人人が経をいかにしても云いう

とめんと思うがさすがにただちに経を捨てよとは云いえずして、身の不浄なんどにつけて法華経を遠ざからしめ

んと思う程に、又不浄の時此れを行ずれば経を愚かにしまいらするなんどおどして罪を得させ候なり、此の事を

ば一切御心得候て月水の御時は七日までも其の気の有らん程は御経をばよませ給はずして暗に南無妙法蓮華経と

唱えさせ給い候へ、礼拝をも経にむかはせ給はずして拝せさせ給うべし、又不慮に臨終なんどの近づき候はんに

は魚鳥なんどを服せさせ給うても候へ、よみぬべくば経をもよみ及び南無妙法蓮華経とも唱えさせ給い候べし、

又月水なんどは申すに及び候はず又南無一乗妙典と唱えさせ給う事是れ同じ事には侍れども天親菩薩天台大師等

の唱えさせ給い候しが如く只南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべきか、是れ子細ありてかくの如くは申し候なり、

穴賢穴賢。

= 文永元年甲子四月十七日 日蓮花押

% 大学三郎殿御内御報