寿量品得意抄

寿量品得意抄 /文永八年四月 五十歳御作

 教主釈尊寿量品を説き給うに爾前迹門のききをあげて云く「一切世間の天人及び阿修羅は皆今の釈迦牟尼仏は

釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり」云云、此の文

の意は初め華厳経より終り法華経安楽行品に至るまで一切の仏の御弟子大菩薩等の知る処の思いの心中をあげた

り、爾前の経に二つの失あり、一には「行布を存する故に仍未だ権を開せず」と申して迹門方便品の十如是の一

念三千開権顕実二乗作仏の法門を説かざる過なり、二には「始成を言う故に尚未だ迹を発わず」と申して久遠実

成の寿量品を説かざる過なり、

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此の二つの大法は一代聖教の綱骨一切経の心髄なり、迹門には二乗作仏を説いて四十余年の二つの失一つを脱し

たり、然りと雖も未だ寿量品を説かざれば実の一念三千もあらはれず二乗作仏も定まらず、水にやどる月の如く

根無し草の浪の上に浮べるに異ならず、又云く「然るに善男子我実に成仏してより已来無量無辺百千万億那由佗

劫」等云云、此の文の心は華厳経の始成正覚と申して始て仏になると説き給ふ阿含経の初成道浄名経の始坐仏樹

大集経の始十六年大日経の我昔坐道場仁王経の二十九年、無量義経の我先道場法華経方便品の我始坐道場等を一

言に大虚妄なりと打破る文なり、本門寿量品に至って始成正覚やぶるれば四教の果やぶれ四教の果やぶれぬれば

四教の因やぶれぬ、因とは修行弟子の位なり、爾前迹門の因果を打破つて本門の十界因果をときあらはす是れ則

ち本因本果の法門なり、九界も無始の仏界に具し仏界も無始の九界にそなへて実の十界互具百界千如一念三千な

るべし、かうしてかへてみるときは華厳経の台上盧舎那阿含経の丈六の小釈迦方等般若金光明経阿弥陀経大日経

等の権仏等は此の寿量品の仏の天月のしばらくかげを大小のうつはものに浮べ給うを、諸宗の智者学匠等は近く

は自宗にまどひ遠くは法華経の寿量品を知らず水中の月に実月のおもひをなして或は入つて取らんとおもひ或は

繩をつけてつなぎとどめんとす、此れを天台大師釈して云く「天月を識らずして但池月を観ず」と、心は、爾前

迹門に執着する者はそらの月をしらずして但池の月をのぞみ見るが如くなりと釈せられたり、又僧祇律の文に五

百の×山より出でて水にやどれる月をみて入つてとらんとしけるが実には無き水月なれば月とられずして水に落

ち入つて×は死にけり、×とは今の提婆達多六群比丘等なりとあかし給へり。

 一切経の中に此の寿量品ましまさずは天に日月無く国に大王なく山海に玉なく人にたましゐ無からんがごとし

、されば寿量品なくしては一切経いたづらごとなるべし、根無き草はひさしからずみなもとなき河は遠からず

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親無き子は人にいやしまる、所詮寿量品の肝心南無妙法蓮華経こそ十方三世の諸仏の母にて御坐し候へ、恐恐謹

言。

= 四月十七日 日蓮花押